鳩間村(読み)ぱとうまむら

日本歴史地名大系 「鳩間村」の解説

鳩間村
ぱとうまむら

[現在地名]竹富町鳩間はとま

西表いりおもて島の北に位置する鳩間はとま全島を村域とし、地元ではパトゥマという。歌謡では友利とうむり村が対語となっている。古く対岸西表島船浦ふなうら湾奥地の鬚川ぴない村から、六名が移住して村立てしたと伝える。両島絵図帳では古見くん間切の内に村名がみえ、高九八石余。崇禎元年(一六二八)の三間切制移行時には入表いりむてい間切の村々とともに大浜ほーま間切に編入され(八重山島年来記)、乾隆三三年(一七六八)以降宮良めーら間切に属した(与世山親方八重山島規模帳)。行政的には早くから鬚川村と合せて一村として扱われ、順治八年(一六五一)の人口は両村で七〇人(八重山島年来記)。初め鬚川村の与人・目差の管下にあったが、同村の人口減少による廃村で、一七世紀末頃までには西表島東部の古見くん村所管となった。このため年貢上納はもちろん公事も二〇余キロ離れた古見村まで出向かねばならなくなった(参遣状)。その経緯と往還労苦を謡ったのが古謡「ばが鳩間じらば」で、古見村の名子になったため、巡見の度に、年貢の監査の度に西表島に渡る、インダ浜・由布潟原ゆぶかたばる野底ぬすく浜を、裾を脛や股まで巻上げながら歩き、カサ崎の北にあるカケラ越地を通って、やっとの思いで古見に渡ると謡っている。古見での公事は二、三〇日にも及んだため耕作はままならず村はしだいに衰微し、「漸々百姓絶行、衰之為体」という状態となった。しかし康熙四〇年(一七〇一)くろ保里ぷり村から六〇人余の移住要請があり、同四二年には島民も一〇〇人余となったため与人・目差の設置を申請、島の耕作地は少ないものの西表島には広い出作地があり、将来人口が五、六百人に増加しても耕作地不足の恐れはないという役人の主張が認められ、同年独立が許可された(以上、同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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