古見村(読み)くんむら

日本歴史地名大系 「古見村」の解説

古見村
くんむら

[現在地名]竹富町古見こみ

西表いりおもて島の東部にあり、東は海に面する。北・西・南は原生林に覆われた二〇〇―四〇〇メートル級の山が連なり、北に西表島最高峰の古見こみ(四六九・五メートル)がそびえる。前良まいら川・後良しーら川・相良あいら川・与那良ゆなら川などが東流し、いずれも河口部は広大な干潟となっている。村域東端に北から南に半島状に延びる岬が嘉佐かさ崎で、先端部には異国船などの漂着を蔵元(現石垣市)に通報する「かさ之辻」の烽火台があった(富川親方八重山島諸村公事帳)。歌謡ではクンノーラ(古見の浦)と謡われ、「くんのーらぬぶなれーま」や「島廻りじらば」に「古見の浦のブナレーマ 美与底の乙女」、「古見の浦節」に「古見の浦の八重岳 八重かさび美与底」というように「美与底」が対語となっている。琉歌には「古見の浦の八重岳八重かさべ みよそこいつも見ぼしやばかり(古見の浦の周辺は沢山の山が重なり合っていて美しいので、よくよく見たいものだ)」とある(琉歌全集)。西の祖納すね村とともに西表島を代表する村で、アカマタ・クロマタ神事の発祥の地といわれる(→八重山三離みちやーり大枝うぶた平西ぴにしいの三小村からなる。

古見は両島絵図帳に間切名としてみえるのが古く、「こミ間切」は西表島東半部の三離・大枝・平西・与那良ゆなら平川ぴいさがー鬚川ぴない崎枝さきだの七ヵ村と、鳩間はとま小浜こはま二島で構成されていた。


古見村
こみむら

[現在地名]湖西市古見

鷲津わしづ村の西に位置し、南は中之郷なかのごう(現新居町)、北は浜名湖に面する。中央を古見川が北流する。中世には現古見上こみかみ町一帯を小山田おやまだと称していたとみられる。日蓮宗日什門流の祖日什は永徳三年(一三八三)に京都より下向し、遠江での三年間の布教を開始した。吉美きび妙立みようりゆう寺を建立し、「吉美庄内小山田・河尻」などでの信者を獲得している。数年後に「東郷小山田」の妙立寺で弟子日随のために仏事七日間の説法を行った(門徒古事)。その後妙立寺は吉美川尻きびかわしりへ移建された。現在同寺跡とみられる地に寺跡てらあとの地名が残る。八幡神社の永正四年(一五〇七)八月一五日の棟札には「霊山説妙法華経 小山田郷旦方」とあり、霊山は妙立寺のことで、小山田は湖西地域における日蓮宗日什門流の一つの拠点となっている。


古見村
こみむら

[現在地名]知多市新知しんち

南北に西浦にしうら街道が走り、丘陵地帯の谷間をかす池を水源にした美濃みの川が東から西に流れる。北は朝倉あさくら村、東は佐布里そおり村と接する。

「寛文覚書」によれば、概高一千二八七石余、田五七町六反七畝余・畑一七町九反八畝余、家数一四〇、人数七二四。元禄六年(一六九三)から宝暦四年(一七五四)までを除いては成瀬氏の給知で、屋敷もあった。藩医浅井図南は「図南先生嶋紀行」(南知多町教育委員会蔵)のなかで、宝暦一四年成瀬屋敷を訪れ、「古見といふは(成)瀬氏の別荘ありて、ことにきらびやかなり、ただ夢のやうに見ゆ」と賞賛し、「知多御道の記」(知多郡史)には、尾張藩主徳川斉荘が天保一四年(一八四三)知多を巡見した時に休息したとある。


古見村
こみむら

[現在地名]落合町古見

田原たわら村の北にある。旭川東岸の平野部にあたり、東方には古見山(四一八・九メートル)がそびえる。北の戸坂とつさか(砥坂)渓の谷口から東方上河内かみごうち村へ通じる道(旧出雲往来)があった。慶長七年(一六〇二)の小早川秀詮黒印状(黄薇古簡集)に村名がみえ、正保郷帳では田高六二一石余・畑高一八九石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によると村位は上、改出高二〇二石余・開高二一石余。


古見村
こみむら

[現在地名]朝日村古見

江戸時代松本藩領に属し、のち高遠たかとお藩領となる。くさり川の左岸にあり、南は小野沢おのざわ村・西洗馬にしせば村、北は大池おおいけ(現山形村)に接する。

天正一五年(一五八七)西洗馬村から分れた村で、天正検地の際は一三〇石五斗七升六合の高となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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