歌謡(読み)カヨウ

デジタル大辞泉 「歌謡」の意味・読み・例文・類語

か‐よう〔‐エウ〕【歌謡】

流行歌民謡童謡俗謡などの総称。
韻文形式の文学作品中、特に音楽性を伴うもの。神楽歌催馬楽さいばら今様宴曲小歌などがある。「古代歌謡
歌い物のほか、語り物をも含む韻文形式の文学の総称。
[類語]ソング

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「歌謡」の意味・読み・例文・類語

か‐よう‥エウ【歌謡】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 広義には謡物(うたいもの)のほか、語物(かたりもの)を含む韻文形式の文学の総称。狭義には節(ふし)をつけて歌う歌の総称。「古事記」「日本書紀」所収の古代歌謡、神楽歌、催馬楽、平曲、宴曲、今様、小歌、歌浄瑠璃、各地の民謡、唱歌、流行歌その他種類はひじょうに多い。
    1. [初出の実例]「不里巷之歌謡、俚近之語、出諸口」(出典:藤樹文集(1648頃)三)
  3. ( ━する ) はやりうたを歌うこと。また、その歌。風俗歌。
    1. [初出の実例]「我を知ぬに依て歌謡してらこったと云ぞ」(出典:古活字本毛詩抄(17C前)五)
    2. [その他の文献]〔史記‐商君伝〕

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「歌謡」の意味・わかりやすい解説

歌謡 (かよう)

声楽曲の総称。うた,または,うたう,という行為を示す語としての歌謡は,中国においては古くから使われ,たとえば,《史記》《漢書》あるいは阮籍の音楽論にすでに見られる。しかし,現在の日本での使い方は,明治以降の日本文学の研究者によるもので,読まれる詩歌に対して,歌われる詩歌を強調することを目的とした。今日では,歌詞と音楽という二分法が一般的であるが,時代や文化によっては,この両者が未分化のままで,歌謡が生みだされることも多いため,文学研究では,この語を拡大して使うこともある。また,日本音楽についての〈歌い物〉と〈語り物〉という現行の二分法からみれば,歌謡は歌い物と重なる面が広いが,定義によっては,語り物の中に多くの歌謡を見いだすことも可能である。したがって,歌謡という現代の表現は,日本音楽については,記紀や《風土記》に始まる古代の歌から,他の古代や中世の歌謡,近世の歌謡,あるいは,仏教歌謡や民謡,そして明治以降の唱歌軍歌歌謡曲などを網羅するものと考えられる。

 一方,他の文化の歌謡については,歌と同じ意味で使われるが,ここでも,それぞれの文化によって歌の定義が異なるため,音楽的な特性から明確に共通な規定を行うことはむずかしい。たとえば,旋律の高低を少なくして,棒読みに近づけると,ヨーロッパ人や日本人は,歌から言葉に接近したと考えがちであるが,言葉自体が,高低の音調をもっている場合は,棒読みは音調を無視することになるため,歌に近づいたと考えられる。

 従来の歌の音楽学的な研究は,歌の領域と言葉の領域をまず二分して,言葉との違いから,歌の特性をさぐろうとしてきた。その結果,両者の連続性が無視されて,極端な場合のみが定式化されたため,どちらからも排除されてしまうものが多く出てしまったうらみがある。一例として,ジョージ・リストによる歌の定義は,安定した音高,すくなくとも7音はもつような音階への依存,言葉の抑揚の影響の少なさ,意味をもたない音綴の不使用に基づいているが,文化によっては,この定義を使えば,歌をもたないことになってしまうことすらあろう。

 しかしながら,日常的な発話と重なりながらも,そこから離れようとする契機を含んだ歌唱行動は,世界中の文化に等しく認められている。こうした行動がそれぞれの文化で果たす機能の分析が,将来は歌の共通した定義をもたらすことが期待される。現在の段階では,不明な点が多いため,それぞれの文化のもつ歌の音楽的な面にのみ着目して,特性を抽出したり分析・合成することが行われている。また,音楽的特性とそれを生みだした社会構造との関連に基づいて,広範に歌の比較を行っているのがロマクスAlan Lomax(1915- )の計量歌謡学(カントメトリクスcantometrics,計量音楽学とも訳される)である。
執筆者:

日本の歌謡は,8世紀に成った《古事記》《日本書紀》《風土記》および《万葉集》の所載歌から始まる。記紀歌謡や《風土記》の歌謡は大部分が特定の神話,物語の文脈中に出ており,それぞれが由来をもって祭式や行事の中で伝承されていたことを示す。〈神語(かむがたり)〉〈思国歌(くにしのびうた)〉〈酒楽(さかぐら)の歌〉等の名称は,国見(くにみ),饗宴といった歌唱の機会をあらわし,〈久米歌(くめうた)〉〈天語歌(あまがたりうた)〉等は,そうした際の一定の歌唱者集団の名にもとづく。さらに〈志都(しづ)(静)歌〉〈志良宜(しらげ)(尻上げ)歌〉〈宮人振(みやびとぶり)〉等,曲調による名もみえている。これらのことからとくに記紀の歌謡が宮廷歌謡に定式化され,楽曲として整えられつつあったさまがうかがえる。これに対し《万葉集》の歌謡は巻一・巻十三の雑歌に若干の祭式歌を含むものの,多くは世俗的色彩が濃い。とりわけ巻十一・十二・十四は,畿内および東国の在地歌謡集となっている。これらはおそらく歌垣(うたがき)等の習俗を場に行われた相聞歌であろう。古代の歌謡形式は,記紀の場合長短さまざまで音数律も固定しておらず,自由で多様な形を呈している。また歌詞のリズムと歌唱者の身振りとの相関も見いだせる。これに比べ《万葉集》の歌謡は,漸次身振り的なものが分離して5音7音単位を主とするなど,歌詞(言語)の独立性が強まっている。《万葉集》歌謡の大半は5・7・5・7・7の短歌形式をとるが,記紀歌謡においても曲節上の繰返し部分を除くとこの定型に還元される場合がみられる。いわゆる〈短歌〉形式は日本歌謡の原初的かつ普遍的な型であったとしてよい。なお《日本書紀》《日本霊異記》所載の〈童謡(わざうた)〉は,7,8世紀の流行歌で社会的事件の前兆とみなされたものの採録である。また仏徳賛仰をうたう〈仏足石歌(ぶつそくせきか)〉も行われていた。さらに記紀の歌謡等22首を歌詞とする和琴(わごん)の譜本に《琴歌譜(きんかふ)》(9世紀?)がある。

 平安朝(9~12世紀)の前期には,貴族の遊宴で〈神楽歌(かぐらうた)〉〈催馬楽(さいばら)〉がもてはやされた。歌詞は多く民謡種でそれが外来音楽の旋法で奏されたのである。同時に地方歌舞の〈東遊(あずまあそび)〉〈風俗(ふぞく)〉も行われており,いずれも前代の風をついだ歌である。以上に対しこの時期の新傾向が〈朗詠〉〈和讃〉にみられる。前者は漢詩文の佳句を訓読してうたうもので,あわせて和歌も朗吟された。それらを集成したのが《和漢朗詠集》(11世紀初め)である。後者は外来の〈声明(しようみよう)〉にもとづく仏教歌謡で,七五調の4句をつらねた長編形式をとり,作者に宗祖,名僧が擬される場合が多い。この〈和讃〉の一節が短唱化し巷の歌謡と合体したのが〈今様(いまよう)〉である。今様とは〈当世風〉の意だが,11世紀中葉以降これが新風として貴賤を問わず大いに迎えられた。歌詞は七五調4句を基本とする短詩型で,後白河院はことに今様を愛好し560余首からなる《梁塵秘抄(りようじんひしよう)》(1179ころ)を編んでいる。なお今様を含めた当時のさまざまな歌舞音曲は,〈雑芸(ぞうげい)〉〈郢曲(えいきよく)〉とも称されており,その多彩な演目と活況を藤原明衡(あきひら)の《新猿楽記(しんさるがくき)》(11世紀中葉)にみることができる。

 中世(12~16世紀)に入ると鎌倉武士を中心に宴席の歌曲として〈宴曲(えんきよく)(早歌(そうが)ともいう)〉が行われた。王朝物語を粉本とした長編歌謡で,《宴曲集》(1301ころ)他に収められている。他方仏教大衆化のもとで前代以来の〈和讃〉も多く行われた。親鸞の《三帖和讃(さんじようわさん)》はその代表的な作である。こうした前期の長編歌謡に対して,中世後期は〈小歌(こうた)〉の時代として特色づけられる。小歌は今様と等しい位置の世俗歌謡で,七五調2句を主とする短詩型ながら,男女の愛情をうたうものなど独特の抒情性を示す。小歌は〈一節切(ひとよぎり)〉(尺八)で伴奏されたが,その歌詞を集めたのが《閑吟集》(1518),《宗安(そうあん)小歌集》である。なお能の狂言の中でうたわれる〈狂言小歌〉,安芸の国の田唄を集めた《田植草紙》はいずれもこの期の遺風を伝えるものである。

 近世(17~19世紀)初期に流行したのが〈隆達節(りゆうたつぶし)〉で,現在知られる総歌数は約500首である。隆達節は中世小歌の継承で,なお〈一節切〉を伴奏としたが,前後して新楽器,三味線が生まれており,これが近世の音楽・歌謡の動向に多大な役割を果たした。18世紀初頭の歌謡集《松の葉》は,三味線歌を〈組歌(くみうた)〉〈長歌(ながうた)〉〈端歌(はうた)〉〈浄瑠璃(じようるり)〉〈投節(なげぶし)〉に分類収載しており,その多様な展開を予告している。さらに人形浄瑠璃,歌舞伎という近世演劇の形成・盛行が歌謡の流通・分化をうながし,加えて上方・江戸の東西文化圏がそれぞれ持味を発揮するなど,この期の歌謡はきわめて多彩な展開を示すにいたった。〈浄瑠璃〉の一流に〈義太夫(ぎだゆう)節〉が生じ,また〈一中(いつちゆう)節〉〈常磐津(ときわづ)節〉〈清元(きよもと)節〉〈新内(しんない)節〉等が分化し,さらに〈小唄(こうた)〉〈うた沢(ざわ)〉を派生してゆき,また〈歌舞伎舞踊〉から〈長唄(ながうた)〉が出てくるなどはほんの一例にすぎない。なお〈都々逸(どどいつ)〉は近世後期の流行歌に淵源するもので,そのいわゆる〈都々逸〉調(7(3・4)・7(4・3)・7(3・4)・5)は近世歌謡の特性を端的にあらわす定型をなした。以上は近世期の主として都市部で行われたものだが,地方の農山漁村では行事や労作の中での歌謡が伝承されており,その若干は《山家鳥虫歌(さんかちようちゆうか)》(1772),菅江真澄(すがえますみ)の《鄙廼一曲(ひなのひとぶし)》等に採録されている。

 明治維新以降となると,近世歌謡のおもなものが伝統的歌曲として保たれる一方,西洋音楽の移入・摂取が義務教育制度の普及とあいまって,歌謡の世界にも大きな変貌をもたらした。外来旋法による小学唱歌,軍歌,賛美歌等が新傾向を促し,さらにレコード,ラジオ,テレビジョンなどのマス・メディアによって大衆歌謡の簇出という現象が進み今日にいたっている。伴奏楽器の発達・複雑化にともない旋律,リズムは多様な展開を遂げつつあるが,そうした歌謡の音楽的側面が優先する反面,歌詞の役割の相対的な低下がもたらされており,これは歌謡における作者・歌唱者・享受者の分離の進行,そこに介在する企業の支配力の強大化とともに,現代歌謡の特徴的性格を示す点であろう。
執筆者:

各民族の文学史は,例外なく詩から発足するが,古代の詩は,これまた例外なく,すべてが文字にたよらぬ歌であった。中国最古の詩集として305編の作品を集めた《詩経》(編者は孔子)があるが,《詩経》に集められた詩がすべて歌謡であったことは,《史記》の著者であった司馬遷がすでに言明している。《史記》の孔子世家に司馬遷は,305編の詩を孔子はすべてこれを〈絃歌〉(絃に合わせて歌うこと)したと記している。また《墨子》の公孟篇には,《詩経》の作品を説明して,〈誦詩三百,弦歌三百,歌詩三百,舞詩三百〉といっているが,305編の詩が,すべて歌謡であり,楽舞を伴うものであったことを説明する。

 前漢の武帝は元鼎5,6年(前112,前111)ごろ,民間歌曲の採集・保存と演練とをかねて楽府(がふ)という音楽官署を設立したが,以後この楽府は,哀帝の綏和2年(前7)まで続けられた。この音楽官署の設置以来,楽府において集められるべき民間歌曲作品を一律に〈楽府〉と称するようになり,やがては歌謡作品をすべて〈楽府〉と呼ぶ習慣が生まれた。中国古代の《詩経》以外の歌謡を集大成したものとしては,宋の郭茂倩(かくもせん)の《楽府詩集》100巻が有名であるが,そこには漢代から唐代に至るまでの民謡のおおむねが集録されている。《楽府詩集》には,民間歌謡にあやかって詩として作られた文人の作品や,新しく題を設定して詩として作られた新題楽府(新楽府)の作品も集大成されているが,《楽府詩集》において〈古辞〉として掲げられているものは,すべて実際に歌謡として歌われたものばかりである。別にはまた,ふしをつけて誦された謡諺のたぐいもあるが,古代のそれらは清の杜文瀾の《古謡諺》100巻に集められている。

 歌謡から独立して,朗誦する文芸である詩が誕生してから後にあっても(中国における詩と歌の分離は,後漢末の建安年間,後2世紀から3世紀初頭),なお歌謡はつねに存在するが,歌謡の流行と変動はめまぐるしく,したがって歌曲歌辞の形態もどんどん変わってゆく。9世紀,中唐ごろから〈〉という民間歌曲に由来する文芸が誕生した。白居易や劉禹錫(りゆううしやく)らは,その〈詞〉にあやかる新文芸の初期の作者として著名であるが,その〈詞〉は,唐の次の宋の王朝において全盛時代を迎える。初期の〈詞〉の作品は,《楽府詩集》の中の〈近代曲辞〉に集められている。

 やがて元になって,歌劇である〈曲〉が流行しはじめると,その〈曲〉のメロディに沿った歌辞の替歌の文芸である小令,中調,長調などが流行した。58字以内のものを小令,それ以上90字以内のものを中調,さらに長編をつらねた場合にはこれを長調といった。人によっては,小令の中に宋に大いに流行した詞を含める場合もある。現代の中国社会の歌謡の代表としては,農村における踏歌の一種である〈ヤンコ(秧歌)〉がよく知られている。人間の生活が続くかぎり,永遠に歌謡文芸は,新しい形態をとりながら流行し続けるものであるが,中国にあっては,新たな流行歌謡が,新文芸の詩を誕生させてゆくという現象が,古代から今日に至るまで,一貫して示される。
執筆者:

西洋の歌謡は,文学と音楽を総合して高度の発達をとげ,全世界の文明民族の歌謡に多大の影響を及ぼしている。まず古代ギリシアでは,古く英雄勇士の武勲物語が吟遊詩人によって吟唱された。ホメロスの《イーリアス》《オデュッセイア》はそれらが総合されたもので,一種の語り物と考えられる。オリュンポス諸神の賛歌などの宗教歌謡が行われたが,やがてエレゲイアエレジー)やメロス(歌謡)が生まれ,前者は笛を伴奏として詠唱され,後者からは琴歌が栄えた。また祭祀によって合唱歌がはぐくまれ,さらにディオニュソス神の祭典の合唱歌舞からは悲劇が生じた。古代ローマでは祭祀や宴会のための歌謡が行われたが,4世紀にはアンブロシウスらによって賛美歌がつくられ,その後1000余年にわたるラテン語賛美歌の伝統が築かれた。6世紀ころゲルマン人の間で民族大移動期の英雄をうたった物語詩的な英雄歌謡が吟唱された。なお,これらは集大成されてドイツ中世の英雄叙事詩となった。アイスランドには北ヨーロッパの神話伝説をうたった〈歌謡エッダ〉(エッダ)があり,さらにノルウェーを含めて王侯豪族の武勇をたたえたスカルド詩が9~10世紀に栄えた。中世の宮廷・騎士文化の隆盛に伴い,南フランスにはトルバドゥール,北フランスにはトルベールと呼ばれる貴族出身の吟遊詩人が輩出し,恋愛歌や武勲詩を作詩・歌唱した。ことにトルバドゥールの影響はイタリア,スペインにまで及んだが,とりわけドイツの宮廷には幾多のミンネゼンガー(恋愛歌人)を生みだした。この歌の伝統はさらに中世末期の都市に栄えたマイスタージンガー(職匠歌人)にうけつがれた。これらの歌謡は,いずれも作詩者みずからが詩に簡単な旋律をつけて朗唱したものである。なお13世紀には,ドイツ・フランスの遍歴学生や遊歴僧の手に成る歌謡(《カルミナ・ブラーナ》などに収集)が行われた。

 14世紀ころカトリック教会のポリフォニー音楽から旋律本位の世俗的合唱曲がつくられて以来,フランスの〈シャンソン〉をはじめ西ヨーロッパ各国に合唱歌曲の様式がひろまった。15~16世紀には楽器伴奏の独唱歌曲も起こり,音楽本位の歌謡が勢力を得てくる一方,やがて文学作品としての歌謡も独立するにいたった。なお16世紀ドイツには,宗教改革者ルターによってプロテスタントの礼拝用に新しい聖歌〈コラール〉(衆賛歌)が用いられ,ついで17世紀にはカトリックの宗教歌も盛行した。イタリアでは,オペラの興隆とともに旋律本位に徹した独唱歌曲が発達し,歌詞はまったく従属的となったのに反し,ドイツでは,18世紀後半にクロプシュトック,ゲーテをはじめ森林詩社,ロマン派の詩人たちが民謡に促されてリート(歌曲)に自己の感情を高らかにうたいあげた。これらに応じて,音楽の世界でもモーツァルト,ベートーベンなどの大作曲家が歌曲をもつくったが,19世紀初期シューベルトが出るにおよんで詩と曲とが混然一体となった高度の芸術歌曲が生み出された。ついでシューマン,ブラームスメンデルスゾーン,ウォルフらが輩出して,ここに独自のドイツ・リートが確立された。フランスでも,フランス近代詩と結んだ歌曲がフランク,フォーレ,ドビュッシーらの手に成り,そのほかロシア,ノルウェー,ボヘミアなどでも,民謡を基礎にしてすぐれた詩に付曲した国民的な歌曲がつくられた。
歌曲 →口承文芸 →叙事詩 →民謡
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「歌謡」の意味・わかりやすい解説

歌謡
かよう

広く歌謡という場合には言語・文字にとらわれないが、歌謡文学としてとらえるならば、ことばを媒介とするもので、口承性・音楽性を有し、文学と意識されない文学以前の領域にまでわたる。

[徳江元正]

日本

歌謡を、古代にはうたうたふといった。『古事記』の冒頭須佐之男命(すさのおのみこと)の「八雲(やくも)立つ……」を和歌の始まりとし、『古今和歌集』仮名序では伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)男女二神による55の唱和に、『筑波問答(つくばもんどう)』では日本武尊(やまとたけるのみこと)と御火焼之老人(みひたきのおきな)との577の唱和にさかのぼってその始原を求めている。うたふかたるよむあそぶなどとも密接なかかわりをもち、詞章のみならず、その旋律・舞いぶりなど音楽・芸能面からの考察をも必須(ひっす)とする。うたの語源には諸説あるが、言霊(ことだま)によって相手の魂に強く激しい衝撃を与える意の「打つ」からきたものと考えられる。『古事記』『日本書紀』の190首(重複を除く)や『琴歌譜(きんかふ)』にみられる古代歌謡は、のちに雅楽寮(うたまいづかさ)・大歌所(おおうたどころ)に集められ保管され、民間のうたをもくみ上げて大歌とよばれたが、民間のものは『風土記(ふどき)』や『万葉集』などに多くみられ、歌垣(うたがき)のときのものや東歌(あずまうた)など民謡も少なくない。

 中古(平安時代)には、神楽歌(かぐらうた)が選定され、もと東国の歌舞である東遊(あずまあそび)が諸社で行われるようになり、朗詠とともにもてはやされた催馬楽(さいばら)は、風俗(ふぞく)を唐楽の旋律に合わせたもので、これらはいずれも貴族社会で行われた。声明(しょうみょう)(仏教歌謡)の講式がおこり、郢曲(えいきょく)・雑芸(ぞうげい)や新興歌謡の今様(いまよう)が流行し、仏教歌謡の和讃(わさん)は神事歌謡をも摂取し、754句からなる狭義の今様560首の集成『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』が編まれた。

 中世(鎌倉・室町時代)になると、雑芸からの流れとして、延年(えんねん)の諸歌謡があり、東国文化圏にあっては宴曲(えんきょく)(早歌(そうが))を生み出し、『宴曲集』が編まれた。語物(かたりもの)としては、琵琶(びわ)法師による平曲(へいきょく)が流行し、この流れは浄瑠璃(じょうるり)・説経(せっきょう)などへ受け継がれた。前代以来の和讃も盛行し、南北朝には謡曲・幸若(こうわか)舞曲が行われ、短小のものでは民間から小歌(こうた)がおこってきて、『閑吟集(かんぎんしゅう)』成立の気運をもたらし、それらのおもかげは、小謡(こうたい)や狂言小歌などに伝えられ、『宗安(そうあん)小歌集』や隆達節(りゅうたつぶし)を経て次の時代に受け継がれてゆく。中世末期には、風流踊(ふりゅうおどり)の盛行に伴い、組歌風の踊歌が多く生み出され、西国の田植歌の集成である『田植草紙』とともに民俗性豊かなものとして伝えられている。

 近世(江戸時代)は、三味線の渡来によって一段と華やかさと洗練の度とを加え、前代からの風流踊と念仏とが一体化した念仏踊から女歌舞伎(おんなかぶき)と深くかかわり合い、多様化を促進した。多くは上方(かみがた)で発生し江戸で達成をみるという経路をとり、上方歌・地歌は江戸長唄(ながうた)へ展開し、『松の葉』は組歌・長歌・端歌(はうた)を収め、前代以来の小歌の流れは、三四四三三四五調を完成させ、弄斎(ろうさい)・片撥(かたばち)から投節(なげぶし)の盛行を招来した。初期には、金平節(きんぴらぶし)をはじめとする浄瑠璃が上方に伝わり、義太夫節(ぎだゆうぶし)が大成、この語物系統の歌謡は、諸派の箏曲(そうきょく)とともに行われた。

 明治期には、琵琶(びわ)歌・の系統の浪花節(なにわぶし)が流行し、時勢に応じた軍歌、賛美歌、作詞に文人が参加した童謡、戦時下の国民歌謡、また第二次世界大戦後は歌謡曲が大流行する一方、民謡が再評価された。男女による応酬ではないが、秋田県の民俗行事カケウタは現代の「歌争ひ」ともいえる。多くの神事や芸能のなかには、古代まではさかのぼれなくとも、中古の歌謡の旋律を思わせるものは少なからず残存しており、日本民族の歌好きの風は、いまに衰えぬのど自慢素人(しろうと)コンクール、カラオケ、歌合戦の人気にまで及んでいる。

[徳江元正]

中国

紀元前9世紀から前7世紀ごろまでの歌謡を収めた『詩経(しきょう)』は中国最古の歌謡集といえる。黄河流域各地から集められた恋歌、作業歌などの素朴な民謡のほか、儀礼的、宗教的歌謡が多数みえる。

 漢代になると楽府(がふ)とよばれる歌謡が現れる。楽府とは、もと楽曲をつかさどる役所の名であるが、のち管弦にあわせて歌う歌謡一般の呼び名となった。漢以後、唐・五代に至る楽府は、宋(そう)の郭茂倩(かくもせん)編『楽府詩集』に集められている。そのうち、漢代楚(そ)地方の民謡を基にした歌謡は、愛情や生活が生き生きと歌われ、楽府の精華とされる。下って南朝の子夜歌(しやか)に代表される歌謡も繁華な巷(ちまた)の艶情(えんじょう)を伝えて見逃せない。

 唐代、西域(せいいき)の音楽が移入されると、盛唐のころから宋代にかけて、この新しい旋律に歌詞がつけられて歌われた。その歌詞を詞(し)というが、艶麗で繊細な情緒をいまに残している。詞はやがて、音楽から離れた韻文形式として開花する。

 元代に入ると、散曲(さんきょく)とよばれる歌謡がおこる。北方からの異民族とともに、弦楽器を中心とする音楽がもたらされ、多様な旋律が生まれたことも背景にあるであろう。散曲は元曲(げんきょく)という一種の歌劇の唱(うた)の部分にも組み込まれて盛行する。俗語を駆使し、内容も叙情から叙事にわたり、ときに風刺を交え、庶民に歓迎された。明(みん)・清(しん)代には、散曲はその清新さを失うが、一方、鼓詞(こし)や弾詞(だんし)などの語物の歌唱部分に取り入れられて発展するのである。

 明代以降、江南を中心として手工業が発展、各地の民謡が都市に流入した。明の馮夢龍(ふうぼうりゅう)編『山歌(さんか)』には、各地の山歌とよばれる、恋歌を主とする素朴な民謡や、その俗曲化したものが多数収められている。

 中華人民共和国成立後、各地の伝統的な民謡に光があてられ、新しい内容が歌い込まれて多くの新民歌が生まれている。一方で、近代的な歌曲も盛んである。

[菊田正信]

西洋

その起源は模糊(もこ)としてうかがい知れないが、死んだ妻をしのんで冥界(めいかい)に降(くだ)り、王プルトの前でリラを必死に演じて現世帰還を許されながら果たせなかったオルフェウスこそ、さしずめ歌謡楽人の祖といえよう。紀元前6世紀になると、オリンピアードに欠くことのできない勝者賛歌のオード(エピニキオン)の作者であるピンダロスが出て、これを完成。のち、ローマのホラティウスがこれを継承し、さらにフランスのロンサールがこれを復興した。また、同じ前6世紀にはレスボスの島に生まれたサッフォーがある。彼女はさしずめアフロディテの巫女(みこ)で、多くの女性を愛し、情炎と惜別の哀感を炸裂(さくれつ)するようなサフィック・バース四行詩に書いて歌った西欧最初の女流詩人であった。同じく同時代のアナクレオンにはそのような情熱の奔騰はみられないが、後世いわゆるアナクレオンティックと称される現世享楽の歌謡30編が残されている。一方『旧約聖書』は『雅歌』と『詩篇(しへん)』とをもって宗教賛歌の精髄を示しているが、前者はソロモンの作、後者はダビデによってつくられたといわれる。しかし、これを歌った歌曲は失われて知るよしもない。3、4世紀のころに至って組織化された教会は、東方各地にそれぞれ典礼の聖歌曲をもったが、6世紀末グレゴリウス6世によって統一整理されて今日の教会音楽の基礎を固めた。雅歌にみる、花嫁と花婿との纏綿(てんめん)たる情熱はキリスト教的信仰の象徴的表現である。

 12世紀初頭から13世紀の中ごろにかけて、南フランスを起点としてヨーロッパ各地に貴女崇拝の理念が生じ、詩人(なかには王公貴族もいる)は心の貴女に寄せる報われることない愛の欣求(ごんぐ)を精練に精練を重ねた詩に歌い込み、それに自ら曲をつけて貴婦人の前で歌って捧(ささ)げた。これがヨーロッパ文学にみるいわゆるロマンチックな愛の詩の祖である。いまに残されている詩人の名は数百あり、これが南フランスではトルーバドゥール、北フランスではトルーベール、ドイツではミンネゼンガーとよばれた。14世紀に入ると、シャンソン、バラード、モテット、ロンドー、ロンデルなどの、いわゆる定型詩が形を整え、それを歌う旋律にくふうが凝らされて、中世歌謡曲全盛の時代に入る。ギヨーム・ド・マショー、ウスタシュ・デシャンEustache Dechamps(1346―1406/07)などがその名手である。これらのいわば創作詩のほかに、素朴な民謡が――たとえば『きぬぎぬの別れの歌』『パストゥーレル』『マル・マリエ』とよばれて不幸な結婚をした女の歌などの民間の歌謡が、しかも上層貴族の間にあってさえ歌われるようになる。

 歌謡における15世紀イタリアでの大きな収穫は定型詩ソネットの創造であろう。カンツォーネとともにやがて西欧を風靡(ふうび)する。これに対してドイツでは、ルターの革新宗教に随伴して聖歌の新作がおこり、オルガンの伴奏によって聖歌曲が氾濫(はんらん)する。これに反してフランスでは、ロンサールを盟主とする言語ならびに詩歌の高揚運動がおこり、ギリシア・ローマのほとんどあらゆる様式の復興、なかでもロンサールはピンダロスの荘重オード、フランス建国をことほぐ古典的叙事詩の大作を書くが、一面、詩と謡を引き離す結果となった。ことに、17世紀の純正悲劇は劇から音楽を追放した結果、美しいフランス語のリズムは聞かれても音楽は完全に劇から剥(は)ぎとられ、かわってオペラが生まれ出る。これに反して18世紀後半におこったプレロマンティシズムは、自然と民族の思想を打ち出し、辺境諸国、スコットランド、スペイン、ギリシアなどの民謡が収集され、『オシアン』の古詩、バーンズのスコットランド方言による歌曲、トムソンの『四季』(1726~30)、ビュルガーの『レオノーレ』(1774)、トレサン伯の『ロマンス』(18世紀後半)、ワーズワースとコールリッジの『叙情民謡集』(1798)、ハイネの『歌の本』(1827)など、19世紀の歌曲全盛の序曲が始まる。

[佐藤輝夫]

『高野辰之編『日本歌謡集成』正12巻・続5巻(1960~69・東京堂)』『浅野建二・志田延義・平野健次他編『日本歌謡研究資料集成』全10巻(1976~82・勉誠社)』『高野辰之著『日本歌謡史』(1926・春秋社/復刻版・1981・五月書房)』『志田延義著『日本歌謡圏史』(1968・至文堂)』『臼田甚五郎他編著『日本歌謡文学』(1975・桜楓社)』『中西進・新間進一編著『日本の歌謡』(1975・河出書房新社)』『田中謙二著『中国詩文選23 楽府・散曲』(1983・筑摩書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「歌謡」の意味・わかりやすい解説

歌謡
かよう

音楽を伴う口承文芸。狭義には「うた物」を意味し,広義には「語り物」を含む。歌謡の根源をなす「うた物」とは,音楽的要素が重要な意味をもち,曲節豊かで変化に富み,歌詞の形態としては律調のある,いわゆる韻文的なものが中心をなす。「語り物」はこれに対して,より散文的で,詞章を聞かせることに重点がある。日本の場合は全般的に歌詞のほうが優位にある傾向が強く,時期によっては「語り物」的なものが中心を占めていた。歌謡は,読む文学と比べると享受層が広く,歌われる場もさまざまで,階層や場の違いに従って,芸術歌謡と民謡,宗教歌と世俗歌,儀式歌と労作歌,などに分けることができる。日本の歌謡を集めたものに『日本歌謡集成』 (12巻,1928~29) ,『続日本歌謡集成』 (5巻,61~64) がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

普及版 字通 「歌謡」の読み・字形・画数・意味

【歌謡】かよう(えう)

うた。〔詩、魏風、園有桃〕心の憂ふる 我歌ひ且つ謠ふ〔伝〕曲の樂に合するを歌と曰ひ、徒歌を謠と曰ふ。

字通「歌」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

世界大百科事典(旧版)内の歌謡の言及

【童謡】より

…古代日本で巷間に流行した歌謡のことで,特に種々の社会的事件の前兆と考えられたものをさす。《日本書紀》《続日本紀》以降の六国史および《日本霊異記》には,7~9世紀のわざうた約20首が,そのときどきの事件と付会されてのっている。…

※「歌謡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android