日本歴史地名大系 「鶏冠井庄」の解説
鶏冠井庄
かいでのしよう
現鶏冠井町を中心にあった荘園。前身は
とみえる(延久四年九月五日付「太政官牒」石清水文書)。公験もなく荘園として設定されたわけではなかったが、住民らは石清水八幡宮寺に灯油を奉仕し、そのことによって国務に従わず、寄人的存在として事実上荘園化していたのを、停止されたわけである。
平安時代末期に徳大寺家の鶏冠井殿が設けられた。安元二年(一一七六)九月二一日付の鶏冠井殿寄人沙汰人らに宛てた某家政所下文(三鈷寺文書)には「可令早充行給田弐町事」として「榎小田三坪四段 同十一坪六段 同廿三坪二段 倉手里十五坪八段」とあり、「右件田、中納言法橋可令勤仕給御前御祈用途料、可被充行之状、下知如件」とみえるが、文治四年(一一八八)四月には、右のうち榎小田里三坪四段、一一坪六段を含む三町の田を三位殿(徳大寺実定祖母)の月忌および忌日料田とすべきことを、実定家政所から鶏冠井殿沙汰人らに命じている(同月日付「徳大寺実定家政所下文案」同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報