荘園整理令(読み)ショウエンセイリレイ

デジタル大辞泉 「荘園整理令」の意味・読み・例文・類語

しょうえんせいり‐れい〔シヤウヱンセイリ‐〕【荘園整理令】

平安時代荘園の増加を抑えるために出された法令。延喜2年(902)以降たびたび発令されたが、十分な効果はあがらなかった。

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改訂新版 世界大百科事典 「荘園整理令」の意味・わかりやすい解説

荘園整理令 (しょうえんせいりれい)

最初の荘園整理令は902年(延喜2)のもので,この格を基準として格前からの荘園は合法,格後の荘園は停止するという方針が1040年(長久1)までとられた。984年(永観2)の整理令も格前・格後を基準とした。1040年に当任国司以降の新立荘園を停止するとした長久令が出されて,荘園整理令は新たな段階に入る。長久令は,従来たんなる荘園整理の議だけにとどまったと解されていたが,やはり整理令として出されたと考えられる。長久令以降に全国に対して出された荘園整理令は,45年(寛徳2)令,寛徳2年以後の新立荘園停止とした55年(天喜3)令,69年(延久1)令,75年(承保2)令,99年(康和1)令,1155年(久寿2)以後の新立荘園停止とした56年(保元1)令,保元以後の新立荘園停止とした91年(建久2)令があるが,ほかに新任国司が中央政府に申請してその国だけに下される一国令があった。

 長久以降の全国令は,承保令を除いていずれも内裏造営のための造内裏役賦課と関係あるもので,内裏が焼亡(もしくは荒廃)したあと,造営工事が行われている間に出されており,そのあと内裏が完成している。そして長久令より前に内裏はしばしば焼亡したが,その造営について全国的な荘園整理令が出されたことはなかった。すなわち長久令は,格前・格後の整理基準を改めたことや,内裏造営のための賦課と関連して出されたことなどで画期的であったが,その背景には,11世紀40年代に行われた別名(べちみよう)制の公認があったと考えられる。それまで権門勢家に寄進した荘園となっていたものを,別名として国衙支配の中に位置づける方針がとられ,以後の新立荘園は認めないとしたのが長久整理令だったのである。

 一般に荘園整理令の実施責任は国司に負わされていたが,延久令が出されたとき太政官朝所(あいたんどころ)に記録荘園券契所が設けられ,ここで荘園の公験(くげん)を審査した。荘園整理では官省符荘は整理の対象とならなかった。国免荘は当然整理の対象となったが,たとえば寛徳2年以降の新立荘園は停止するという整理基準に基づいた延久令では,寛徳2年以前から存在していた国免荘は認められることになった。なお官省符荘でも本田のほかに新たに付加された不輸田(加納)は認められなかった。実質的に加納的なものを禁止することは延久令にはみられていたが,加納という用語が使われてそれを禁止したのは承保令からで,寛徳2年前後を問わず加納はいっさい禁止された。また保元令では特定社寺の神人・悪僧に対する規制が出された。

 長久令以降の荘園整理令は中世荘園制の形成に対応するものであった。鳥羽院政期に全国を対象とする荘園整理令が見いだされなかったことから,鳥羽院政の政策として荘園整理令を出さなかったと解する説があるが,内裏造営と全国令とに関連性があることからすれば,鳥羽院政の政策として全国令が出されなかったとしてよいかどうか,まだ判断できないであろう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荘園整理令」の意味・わかりやすい解説

荘園整理令
しょうえんせいりれい

平安時代,荘園の増大を抑止するために出された一連の法令。整理令には,全国を対象としたものと,国単位に出されたものとがある。全国を対象とした整理令としては,延喜2 (902) ,永観2 (984) ,永延1 (987) ,長久1 (1040) ,寛徳2 (45) ,天喜2 (54) ,延久1 (69) ,承保2 (75) ,承暦2 (78) ,康和1 (99) ,大治2 (1127) ,保元1 (56) 年などの荘園整理令があげられる。延喜2年3月に出された9通の官符のうち4通が「院宮王臣家の庄」を停止することを目的としたもので,この部分が延喜荘園整理令と称され,整理令の最初のものである。この整理令の眼目は,諸国農民 (富豪層) が課役を逃れる目的で,寄進,売却と称して王臣家の庄とする動向に対処し,農民と王臣家の結合を切断することであった。この整理令は,寛徳荘園整理令が出るまでの荘園整理の基準とされた。ところが,寛徳荘園整理令になると,前任国司の在任中以後に立てられた新立荘園の停止というように,整理の基準線が大幅に引下げられるにいたった。この整理令は,1040年代の別名制の公認・郡郷制の改編といった一連の国政上の改革と関連して出されたと考えられている。これを受けて,院政期の荘園整理令の基準を打出したのが,延久荘園整理令と記録荘園券契所 (→記録所 ) の設置である。延久荘園整理令は,後三条天皇の宣旨枡 (せんじます) の制定などに象徴される一連の国政改革の一環であり,審査の基準は,(1) 寛徳以前の成立の確かな証拠の有無,(2) 国務の妨げになるか否かの2点であり,審査にあたって,荘園の所在地,領主,田畠惣数などの調査を行なって,権門勢家領に打撃を与えた。しかし,整理令は常に一定の基準に基づき公認あるいは停廃するものであり,しかも,その基準が引下げられていったから,結果的には,荘園の増大を追認する荘園公認令ともいうべき役割を果したのである。やがて鳥羽院政期になると,荘園整理が放棄され,全国的に荘園の新立,拡大が行われるにいたった。保元荘園整理令は平安時代最後の整理令であるが,神人 (じにん) ・寄人 (よりゅうど) の統制に力点がおかれている。以後,鎌倉時代に入っても,整理令が出されているが,形式的,吉書的なものであった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「荘園整理令」の解説

荘園整理令
しょうえんせいりれい

平安中期〜末期,国家の収入維持のため新立・不正の荘園を整理する目的で公布した法令
902(延喜2)・984・1045・1055年としばしば公布され,新立・不正の荘園を停止しようとしたが,あまり効果がなかった。1069(延久元)年に後三条天皇は記録荘園券契所を設置して藤原氏の荘園を中心に大規模な整理を行ったが,その後の院政時代には荘園増加を抑えきれなくなった。

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百科事典マイペディア 「荘園整理令」の意味・わかりやすい解説

荘園整理令【しょうえんせいりれい】

荘園整理荘園

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