改訂新版 世界大百科事典 「徳大寺実基」の意味・わかりやすい解説
徳大寺実基 (とくだいじさねもと)
生没年:1201-73(建仁1-文永10)
鎌倉中期の公卿。右大臣公継と白拍子五条夜叉の間に生まれ,1219年(承久1)従三位となり,以後右近衛大将,内大臣を経て,53年(建長5)徳大寺家からは初めての太政大臣にまで昇進。65年(文永2)出家,法名円性。長期にわたる後嵯峨院院政を支えた異色の政治家で,1246年(寛元4),幕府の要請によってはじめて創設された院評定(いんのひようじよう)のメンバーとなり,また検非違使庁別当としても名声を博した。出家後の彼が後嵯峨院の諮問に答えて上申した〈奏状〉14ヵ条は,〈神事の興行〉〈仏法の紹隆〉を〈人の煩い〉〈国の利〉の下に従属させるべしという主張に象徴されるように,徹底した合理主義と王権至上主義をモットーとする彼の政治思想がよく表明されており,間もなく開始される公家弘安徳政に大きな影響を与えたものと考えられる。なお《徒然草》に載る二つのエピソードも,彼の思想傾向を物語るものとして有名である。
執筆者:笠松 宏至
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報