朝日日本歴史人物事典 「徳大寺実基」の解説
徳大寺実基
生年:建仁1(1201)
鎌倉中期の公卿。左大臣徳大寺公継の次男。母は白拍子五条夜叉。承久1(1219)年,従三位に叙せられ,元仁1(1224)年に権中納言,寛元4(1246)年に内大臣とすすみ,建長5(1253)年に太政大臣に至った。徳大寺家から太政大臣を出した初例である。寛元4年に鎌倉幕府の要請によって創設された院評定のメンバーとなり,後嵯峨院政を支える異色の政治家として活躍した。実基については『徒然草』にふたつの挿話があり,迷信や因習にとらわれる当時の大多数の人々のなかにあって,おそれることなく合理的に思考し,適切な判断をくだしたことが語られている。信念の人であると同時に,異彩を放つ人物であったことは間違いなかろう。文永2(1265)年に出家。法名因性。 その政治思想は,出家後に後嵯峨上皇の諮問に応えて作成した14カ条の奏状によくあらわれている。事に当たるに誠信をもってし,為政に人を得て,官民富足をめざすことを主張したもので,漢籍や先例を的確に引用して論理を展開するとともに,現実的な提言・妥協策なども述べられている。第1条の「人の煩いなく,神事を興行せらるべき事」に示される撫民の精神は,人間の合理的思考によって,怪力乱神を打破する彼の姿勢と相通ずるものがあろう。徳大寺相国,水本太政大臣と称された。なお,妻は後鳥羽院の乳母として権勢をふるった藤原兼子(卿二位)の娘で,兼子の遺領の多くは,この女性に譲られたという。『実基公記』(徳大寺相国記)断簡がある。<参考文献>「徳大寺実基政道奏状」(日本思想大系22巻所収),多賀宗隼『論集中世文化史』上
(本郷恵子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報