黒田館跡(読み)くろたたてあと

日本歴史地名大系 「黒田館跡」の解説

黒田館跡
くろたたてあと

[現在地名]宮古市沢田

もと町・しも町両町の北方山上にある。前面足下に閉伊へい川が流れ、後ろに黒森くろもり山塊が続く。基部を空堀で切って、主郭・二の郭・三の郭と三つの郭が段階状に造られており、現在の常安じようあん寺門前から判官はんがん稲荷の脇を通って三の郭に至る道は、かつての大手口であったと思われる。東奥古伝(県立図書館蔵)によれば黒田館は近能左七郎親良が、根城殿(閉伊頼基)から安堵された所領の館で、親良は「生国山城国増坂の産也」とあり、これを鎌倉時代のこととするが、むしろ室町時代末期、千徳氏が黒田湊を経営するにあたって、その後背の地に館を築き、家臣近能氏を配して警護に当たらせたものと考えられる。

黒田館跡
くろだやかたあと

[現在地名]松江市山代町 岡

茶臼ちやうす(一七一・五メートル)の南西麓、標高二〇メートルほどの低丘陵上にある室町時代を中心とした館跡。昭和三七年(一九六二)に発見され、松江市教育委員会が土塁に囲まれた館跡の簡単な調査を実施。同五七年・五八年の発掘調査の結果、外周に堀と土塁をもつ館跡であることが判明。平面形の東西は南側五六メートル、北側三七・五メートル、南北は東側六三・五メートル、西側五六メートルで、台形状を呈していると推測された。土塁は南辺と東西の二辺の一部、北辺のごく一部が残り、大部分盛土であった。土塁の底面幅は四・二―五メートル、高さ一・五―一メートルで、断面は台形。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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