宮古村(読み)みやこむら

日本歴史地名大系 「宮古村」の解説

宮古村
みやこむら

[現在地名]宮古市本町もとまち沢田さわだ新川町しんかわちよう向町むかいまち大通おおどおり一―四丁目・栄町さかえまち宮町みやまち一―三丁目・南町みなみまち築地つきじ一―二丁目・愛宕あたご一―二丁目・光岸地こうがんじ藤原上町ふじわらかみまち藤原ふじわら一―三丁目

閉伊へい川河口にあり、北は黒田くろた村。東奥古伝(県立図書館蔵)に「元和年中の頃よりの名也」とある。小本家記録(小笠原文書)には元和元年(一六一五)盛岡藩二代藩主南部利直巡国の際、初めて「本町より御割被遊候」とあり、もと黒田村に含まれたが利直巡国の時に河口の湊部分を割いて成立した。七戻ななもどりから久館きゆうだてを通り、夏暮なつぼ峠を越えてくわさきに入る鍬ヶ崎道がある。「三閉伊路程記」に「松藻峠より三丁三拾間程にて久館、家数十三軒、入口に石昌寺と云寺有て、境内に大杉大明神の社有、久館の西山の上にあたごの社あり、此久館と宮古の下モ町引続也」と記す。


宮古村
みやこむら

[現在地名]嬉野町宮古

雲出くもず川と中村なかむら川の合流点の西南、中村川の左岸沿いに位置し、平生ひろお村の南東にあたる。集落北側を初瀬はせ表街道が通る。天仁元年(一一〇八)斎王群行の帰途に女御甲斐が詠んだ次の和歌は当地の地名に寄せたものという説がある(五鈴遺響)

<資料は省略されています>

また「五鈴遺響」では宮古は屯倉転訛であろうとする。古代は八太はちた郷ないしは小川郷に属していたと考えられ、一志郡家の所在地にも比定される。


宮古村
みやこむら

[現在地名]山都町蓬莱ほうらい

堂山どうやま村・中反なかぞり村の北西、宮古川の最上流域にあり、北は早稲谷わせだに村、西方は極入ごくにゆう村・宮野みやの(現西会津町)など吉田組の諸村と接していた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に宮古とみえ、小布瀬こぶせ郷との注があり、高一九五石余。享保一八年(一七三三)の木曾組手鑑(真部家文書)では高三二二石余(うち新田一〇八石余・新畑一五石余)、本田畑は免二ツ八分で、田方一二町余・畑方一〇町五反余、家数五〇(竈数五〇)・人数三二〇、雑駄三九。なお同一五年の木曾組諸役等書上帳(五十嵐家文書)によると山役銀二匁三分二厘、漆木役一二〇本などを負担していた。


宮古村
みやふるむら

[現在地名]伊勢崎市宮古町

村の中央をおお(下り松川)が東南流し、東は田中島たなかじま村、西はいま村、南は東上之宮ひがしかみのみや村、北は宮子みやこ村。寛文郷帳では宮子村とみえ、田方二六石余・畑方六七石余、前橋藩領。元禄郷帳・旧高旧領取調帳でも同藩領。寛延二年(一七四九)の村明細帳(宮古文化財保存会蔵)によれば高一三四石三斗余、反別一八町七反余、うち田方四町余・畑方一四町七反余。郷蔵一(奥行二間半、間口九尺)。蚕種を年に金五六両ほど産し、助郷役は課せられていなかった。田仕事について、苗は四月から用意され、田植は半夏前後に植終わり、二百十日前に取入れが終わるとある。


宮古村
みやこむら

[現在地名]玉城町宮古

宮子とも記した。汁谷しるたに川の上流にある。谷底平野を除いては台地をなす。この台地末端には縄文・弥生の遺跡や古墳が多い。矢野やの古墳群は一八基を数える。皇大神宮摂社奈良波良ならはら神社(楢原神社とも)がある。「外宮神領目録」に「宮子御園」がみえ、城田屯倉のあった地という。字平内山ひねやまには中世墓地があり、常滑焼・山茶椀などが出土している。近世は和歌山藩田丸領。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば村高五〇〇石のうち田方が三〇七石余。


宮古村
みやこむら

[現在地名]田原本町大字宮古

保津ほつ村の北、太子たいし道の要所に所在。「大和志」は「和名抄」に載る三宅みやけ郷の地とする。建長五年(一二五三)九月の僧眼心田地寄進状(東大寺文書)に「城下郡西郷十五条三里廿七坪字菴知田」とあり、小字オチダが現存する。永仁二年(一二九四)大仏灯油料田記録には「宮子字アウチ田」が記される。

慶長郷帳の村高は九〇八・四四二石で幕府領(代官間宮三郎右衛門)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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