信楽寺跡(読み)しんぎようじあと

日本歴史地名大系 「信楽寺跡」の解説

信楽寺跡
しんぎようじあと

[現在地名]大和町宮床 信楽寺門前

七ッ森ななつもり松倉まつくら(二九一・二メートル)の南麓、南方宮床みやとこ川を見下ろす位置にある。七峰ななつもり(七ッ森)信仰の総別当であった。「宮床村安永風土記」では真言宗飯峯山観音院信楽寺とあり、慈覚大師開山とし、もと天台寺院であった。天長元年(八二四)淳和天皇の勅願寺となる。その後光孝天皇のとき炎焼し、仁和年中(八八五―八八九)再建というので、このとき真言宗に改めたのであろう。「観蹟聞老志」「封内風土記」によると、松倉の熊野神社は飯森いいもり社といい、天長年中の勧請とあり、これを奉斎する寺院が信楽寺であるように記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報