日本歴史地名大系 「宮床村」の解説 宮床村みやとこむら 宮城県:黒川郡大和町宮床村[現在地名]大和町宮床山形県に山頂のある船形(ふながた)山から分れた支脈が、東方に延びるうちの南を七北田(ななきた)丘陵といい、その尾根のうちの蘭(あららぎ)山(七六〇・八メートル)を西境として東に扇状に広がる山岳丘陵の村。七ッ森(ななつもり)のうち撫倉(なでくら)山・松倉(まつくら)山が吉田(よしだ)村内の四峰に連なって、村の東方北境近くにあり、主峰笹倉(ささくら)山(別名大森(おおもり)・乳首(ちちくび)山)が西南の村中央に離れてそびえる。蘭山からの渓流が難波(なにわ)川(現在は南川)となって北流して吉田川に落ち、南境堂庭(どうにわ)山からの宮床川が東北流して村の東部に迫地を広げ、東方一関(いちのせき)村・二関村・三関村(現富谷町)の三村境で竹林(たけばやし)川に合流する。集落は宮床川の開析谷の広がったところにあり、ここが古代黒川郡三郷の一つ新田(にうた)郷に比定され、下流の一関・二関・三関村以東も含めて中世の黒川郡中迫(なかばさま)の地とされている(大和町史)。道は東方富谷(とみや)村と同所新町(しんまち)(現富谷町)の奥州街道への二筋、南の根白石(ねのしろいし)(現泉市)、東北方志戸田(しとだ)村(現富谷町)、今(いま)村の吉岡(よしおか)町への五筋。東南は小野(おの)村、西南は根白石村、北は吉田村、東は一関村・二関村・志戸田村。地名はもと難波村と称したが、信楽(しんぎよう)寺創立にかかわって宮床と改称したとの由来が伝わる(宮床村史)。天正年中(一五七三―九二)黒川氏の臣鴇田信濃国種が松岩(しようがん)寺裏山の宇和館(うわだて)城にいたという(黒川郡誌)。 宮床村みやとこむら 福島県:南会津郡南郷村宮床村[現在地名]南郷村宮床山口(やまぐち)村の北、伊南(いな)川の右岸に位置し、集落は段丘上の沼田街道に沿う。古町組に属し、北は和泉田組界(さかい)村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には「宮床 百八石一斗」と記されている。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免四ツ一分。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)によれば高一一二石余、免四ツ五分七厘二毛で取米五一石四斗六升五合、うち二五石七斗三升二合が米納で残りは金納。田四町八反・畑五町一反余。家数一〇・竈数一二、男四八・女三二、馬七。 宮床村みやとこむら 福岡県:田川郡糸田町宮床村[現在地名]糸田町宮床・宮床団地(みやとこだんち)・貴船(きふね)中元寺(ちゆうがんじ)川東岸に位置し、北は大熊(おおくま)村。中元寺川を利用する江戸時代の石炭輸送は、当村より上流は池尻(いけじり)村(現川崎町)・糸(いと)村(現田川市)が遡行の限界といわれ、輸送などの面で当村や対岸の糸田村が有利な地位を占めていた。元和八年人畜改帳では高一〇九石余、家数八・人数一一(うち百姓一・名子二)、牛一・馬一。宝永七年(一七一〇)には高一七三石余、田一一町三反余・畠二町二反余、竈数一九・人数九三、牛馬一三(「村々万覚書」瓜生文書)。郷村高帳では高二〇六石余、うち新田高一八石余。旧高旧領取調帳では高二〇〇石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by