加藤 常賢(読み)カトウ ジョウケン

20世紀日本人名事典 「加藤 常賢」の解説

加藤 常賢
カトウ ジョウケン

昭和期の中国哲学者,中国古代文化の研究者 二松学舎大学名誉学長。



生年
明治27(1894)年10月19日

没年
昭和53(1978)年8月3日

出生地
愛知県中島郡大里村

旧姓(旧名)
早川

別名
号=維軒

学歴〔年〕
東京帝国大学支那哲学科〔大正9年〕卒業

学位〔年〕
文学博士〔昭和13年〕

経歴
大正10年国学院大学予科教授、12年静岡高等学校講師、13年教授、昭和3年京城帝国大学助教授となり、5年から2年間中国に留学、8年広島文理科大学教授。戦後22年東京帝国大学講師から教授となり、26年御講書始漢書進講、30年定年退官。31年二松学舎大学教授、32年同文学部長、37年学長となった。50年辞任、名誉学長。その間大東文化、埼玉、京都、愛知、新潟各大学に出講した。著書に「真古文尚書集釈」「老子原義の研究」「漢字起源」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤 常賢」の意味・わかりやすい解説

加藤常賢
かとうじょうけん
(1894―1978)

中国学者。中国古代文化の研究に民俗学・宗教学を導入した。愛知県の生まれ。原始宗教や原始社会に関心を抱き、1920年(大正9)東京帝国大学文学部支那(しな)哲学科卒業後、中国古代の礼・家族制度を研究した。京城(けいじょう)帝国大学助教授となり、30~32年(昭和5~7)中国家族制度調査のため、北京(ペキン)に留学。やがて漢字研究の必要を感じて殷(いん)・周の甲骨文(こうこつぶん)・金文(きんぶん)の研究に着手。33年広島文理大学教授となり、45年被爆した。38年『支那古代家族制度研究』により文学博士となる。47~55年(昭和22~30)東京大学教授。49~58年日本中国学会の初代理事長。著書に『中国原始観念の発達』『漢字の起原』『真古文尚書集釈』『老子原義の研究』などがある。

[池田知久]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤 常賢」の解説

加藤常賢 かとう-じょうけん

1894-1978 昭和時代の中国哲学者。
明治27年10月19日生まれ。従来の教義解釈の方法ではなく,漢字原義の研究を基礎に「支那古代家族制度研究」などを発表。広島文理大教授をへて昭和22年母校東京帝大の教授となる。37年二松学舎大学長。日本中国学会の初代理事長。昭和53年8月3日死去。83歳。愛知県出身。旧姓は早川。号は維軒。著作ほかに「老子原義の研究」「漢字の起原」など。

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367日誕生日大事典 「加藤 常賢」の解説

加藤 常賢 (かとう じょうけん)

生年月日:1894年10月19日
昭和時代の中国哲学者。東京帝国大学教授;二松学舎大学学長
1978年没

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