中国で,金属器に鋳だしたりたがね彫された文字,文章をいう。中心は殷代末年から周代にかけての青銅器に鋳だされた銘文である。青銅製品は竜山文化の末期に出現し,殷代の二里頭,二里岡期にはすでに精巧な青銅容器が存在するが,そのうえに確かな銘文は見いだせない。金文の出現は殷の安陽期になってからである。最も古い銘文は,ある部族あるいは血族集団を表象する図像記号(部族標識ともいう)だけを表したもの,あるいは特殊な人名だけを表したもので,殷墟の婦好墓出土の金文がその典型となろう。図像記号には父祖名などが組み合わされて3字から数字の銘を構成する場合もあるが,なお文章は構成しない。安陽期の末年になってはじめて一定の長さをもった,文章を構成する金文が出現するのである。その時期の銘文の主要な内容は,王自身あるいは王族の一員から貝(聖所に蓄えられていた宝貝)を賜り,それを記念するために祭器を作ったことを記す。この賞貝形式の金文は西周時代に引き継がれるが,賜り物は必ずしも貝に限られなくなる。またそうした賞賜を受ける機縁となった軍事上の手がらや祭祀儀礼の際の功労がそこに書きこまれることによって,銘文は長くなる。成周(洛邑)での官職任命の儀式に関連して作られた〈令彝(れいい)〉や,外地での封建を述べた〈宜侯𣪘(ぎこうそくたい)〉が,西周前期金文の典型例となろう。
西周中期は殷周青銅器文化の大きな転換点にあたり,たとえば青銅器のセットが酒器を中心としたものから食器を中心としたものに変わり,また図像記号も消失するなど,殷以来の要素をこの時期に払拭してゆくのである。金文については,官職任命の儀式を詳しく記述した,いささかステレオタイプの文章から成る策命(さくめい)(冊命)金文が,この時期から西周末期にかけて盛行する。この種の金文で記述される策命の儀式は,最初の官職任命や封建の際のものではなく,すでに先祖が周の先王から命ぜられた職務の継承を,今王の立会いのもとに再確認する,一種の所領安堵(あんど)の儀式であった。それゆえ策命の実質的な内容よりも儀式が行われたということが大切で,儀式の詳細が記述されることになったものであろう。儀式の際の下賜物も,貝は見えなくなり,礼服や車馬が中心となる。策命の儀式を詳しく述べた金文の典型として〈頌壺(しようこ)〉を例に挙げることができよう。なお,このように様式化した金文の中に,《尚書》や《詩経》と共通する語彙や文章構成を見ることができる。またこの時期には,土地侵犯に関連した裁判や和解の記録が青銅器に鋳だされた例がいくつかあり,西周末年には玁狁(けんいん)など異民族討伐を記録する金文が残るが,西周貴族の土地経営による勢力伸張と相対的な王権の凋落,それに起因する政治の混乱に乗じて異民族の活動が盛んになるといった西周後期の社会状況の反映であるにちがいない。
政治の混乱と異民族の侵攻の中で陝西の地を捨てた周王朝は洛邑に東周王朝を建てるが,しかしすでに各地の諸侯たちを統合する力を失っていた。そうした状況は金文にもそのまま反映して,以前のように一つの時代には共通した一定の文章形式があるといった状態は失われ,それぞれの諸侯国が独自の文章と書体で金文を作るようになる。金文全体も凋落傾向にあり,大部分が簡単な銘文にとどまり,またたがね彫による銘が多くなってくる。西周金文の背後にあった,周王が独占的に天命を媒介して臣下たちに命(めい)を与えるという観念もゆるんで,〈秦公鐘〉では秦の先公が直接に天命を受けたと記し,また諸侯たちは独自の紀年法や紀月法によって金文を記すものもあって,周王の正朔が無視されていたことを示している。字体の点でも地方差が大きくなるのであるが,とくに戦国時代,江南一帯では文字の装飾化が進み,鳥書(ちようしよ)による銘文が出現している。
元来,金文は祭器に付けられるもので,その祭器を用いて行う祖先祭祀と強い結び付きをもっていた。しかし時代が下るにつれ金文の用いられる範囲が拡大し,武器の銘や,また通行証である〈鄂君啓節(がくくんけいせつ)〉や虎符など実用的な金文が増加する。秦の国は文字は古風な書体のものを継承しており,天下統一に際しては,その書体によって度量衡の標準器に詔令などを金文として付している。漢代に入ると宮廷の用具や武器などにその物品の所属や重さを記した銘が付けられた遺物が多く残り,また金属鏡の銘文なども広い意味での金文であろうが,西周期に全盛をきわめた青銅祭器の金文の伝統とは流れを異にするものとなってしまったと言えよう。
金文の研究はすでに宋代に始まり,呂大臨の《考古図》や王黼(おうふ)の《博古図》などの図録が編まれており,金石学の一部として清朝の考証学者たちも古文字の研究,あるいは古典の解釈などに金文資料を用いている。しかしその科学的な研究はやはり最近になってからであり,郭沫若《両周金文辞大系》が最初に網羅的な金文の年代づけを行った。それ以後も,考古学者と文字学者たちの努力によって金文の編年は確実さを増しつつあるが,とくに西周後期以降の金文の年代づけにはなお問題がのこる。金文の字書として,容庚の《金文篇》がある。
→金石文
執筆者:小南 一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
字通「金」の項目を見る。
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殷(いん)周の青銅器に刻まれた銘文。甲骨文字よりさらに整っており,金文がさらに変化して戦国時代の籀文(ちゅうぶん)になる。漢字の源流や変遷を知るうえで,また殷周時代の研究に不可欠の資料。金文研究(金石(きんせき)学)は宋代から起こった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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… 殷墟文字についで周代の銅器の銘文の文字が知られている。これを金文または鐘鼎文(しようていぶん)という。これは殷墟文字の系統を受け,いっそう慣習化されているが,きわめて華麗な文字である。…
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[中国]
中国では一般的な書写材料である竹や木,帛(はく)や紙とともに,金属や石材が古くから用いられてきた。このうち金属に刻した銘文が金文,石材に刻した銘文が石刻あるいは石刻文,両者を併せて金石文という。金文の中には兵器(戈,戟,矛,剣など)や度量衡(権,量,尺など)や貨幣などの銘文もあるが,主要なものは殷・周時代の彝器(いき)とよばれる青銅器の銘文である。…
… 殷代から周代にかけては,祭器,楽器,兵器などさまざまな種類の青銅器が数多く作られた。これらの青銅器に鋳款または銘刻されている文字を金文とよぶ。金文はそれが作製された時代によって殷,西周,東周(春秋戦国),秦に大別することができる。…
…卜辞は君主のために神意を問うた占いのことばで,短いものが多い。周代の〈金文(きんぶん)〉(青銅器の銘文)は,おおむね君主から臣下へ賜った告命の辞である。これには100字を超える長文があって,文字使用の技術の進歩をあらわす。…
…漢代には彩画の陶鼎があるほか,漆器製の鼎もつくられた。 殷・周代の鼎には銘文があるものが多く,金文(きんぶん)ともいわれる。殷代のものは数文字で作器者名などだけであるが,殷代末期からは鼎をつくった事情を,紀年・人名などを入れて書くようになり,周代にはさらに詳しく書かれて,祭事・叙任などに関しての賞賜をうけた冊命(さくめい)形式の文章が定型化していき,長文のものでは,約500字に及ぶ毛公鼎(もうこうてい)のようなものがあり,同時代史料として第一級の価値をもっている。…
※「金文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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