神長村(読み)かながむら

日本歴史地名大系 「神長村」の解説

神長村
かながむら

[現在地名]烏山町神長

烏山城下の西にあり、集落は南流する川両岸の段丘上に位置する。北は月次つきなみ(現南那須町)、南はたき村。江川左岸には直刀・勾玉などを出土した塙平はなわひら古墳がある。永禄二年(一五五九)九月二〇日の那須資胤書状写(天性寺文書)に「神なかの石はたけの地」とみえ、烏山天性てんしよう寺に寄進されている。天正一三年(一五八五)薄葉うすばヶ原合戦の戦功として下神長村のうち永楽三〇〇疋の地が池沢左近に与えられた(三月二八日「那須資晴充行状」沢瀬貫一氏所蔵文書)


神長村
かみながむら

[現在地名]袋井市豊沢とよさわ

山名やまな郡に所属。赤尾あかお村の東、宝野ほうの新田・菩提ぼだい新田の西、小笠山おがさやま丘陵の西端部に立地する。北側を法多沢はつたざわ川、村内を小笠沢おがさざわ川が西流する。天正三年(一五七五)三月二四日の小笠原信興判物(尊永寺文書)によれば、武田勝頼方の信興が「神長之内弥陀薬師仏供田」二反ほかを法多山(尊永寺)一乗いちじよう院に安堵している。江戸時代、幕府領掛川藩預であったが、正保二年(一六四五)横須賀藩領(掛川預一万石郷村覚)正保郷帳に村名がみえ、田方八三石余・畑方一一石余、吉祥寺(現廃寺)領一石、横須賀藩領。元禄一一年(一六九八)旗本室賀領となり、幕末に至る(袋井市史)。元禄郷帳では高一一八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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