日本歴史地名大系 「烏山城下」の解説
烏山城下
からすやまじようか
〔創設〕
烏山城は応永年中(一三九四―一四二八)下那須氏の那須資重による築城と伝え、永正一三年(一五一六)城主那須資房が上那須・下那須の両流を併せて以後、資房の系統は同城を居城として那須郡域に勢力を伸張させた。永禄一三年(一五七〇)と推定される五月二七日付の佐竹義重書状写(秋田藩家蔵文書)に「烏山宿」とみえ、同月一一日に義重が同宿の根小屋を残らず打散らしたとあるので、戦国末期には城下に町場が形成され、宿場化していたことが知られる。天正一八年(一五九〇)那須資晴は豊臣秀吉に所領八万石を没収され、以後烏山城には織田信長の次男織田信雄、次いで成田氏(三代)、松下氏と入部したが、近世城下町としての骨格が形づくられるのは、松下氏移封後、寛永四年(一六二七)に入部した堀親良の嗣子親昌の治世下であった。親昌は万治三年(一六六〇)町屋敷の検地を行い、間口・奥行を実測、町民居住地を確定するとともに地子銭徴収の台帳とした(元禄一六年「明細帳」烏山町郷土資料館蔵)。
続いて入封した板倉氏の二代重種は延宝年間(一六七三―八一)城下区画整理を断行する。地方知行制の廃止に伴って、全家臣が城下に集住することとなり、城内にあった
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報