宇都宮氏綱(読み)うつのみやうじつな

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇都宮氏綱」の意味・わかりやすい解説

宇都宮氏綱
うつのみやうじつな
(1326―1370)

南北朝時代の下野(しもつけ)(栃木県)の武将。公綱(きんつな)の子、母は千葉宗胤(むねたね)の女(むすめ)。幼名加賀寿丸。四郎と称し、下野守(かみ)、伊予守、従(じゅ)五位下。南齢庵と号す。1337年(延元2・建武4)奥州の北畠顕家(きたばたけあきいえ)が大軍を率いて西上すると、家臣芳賀高名(はがたかな)とともに宇都宮城によって抗戦した。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1350~52)には足利尊氏(あしかがたかうじ)方に属し、恩賞として越後(えちご)(新潟県)・上野(こうずけ)(群馬県)の守護に補任(ぶにん)された。越後守護代は、高名の子高家(たかいえ)、高貞(たかさだ)。氏綱、高名は、上杉憲顕(うえすぎのりあき)の越後守護復帰を阻止しようとしたため、関東公方(くぼう)足利基氏(もとうじ)の軍勢に攻められ、いったん降伏するが、68年(正平23・応安1)武蔵(むさし)の平一揆(へいいっき)と結び、ふたたび反し、公方氏満(うじみつ)によって宇都宮城は攻落された。翌々年7月5日没。法名元山禅綱。

[新川武紀]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宇都宮氏綱」の解説

宇都宮氏綱 うつのみや-うじつな

1326-1370 南北朝時代の武将。
嘉暦(かりゃく)元年生まれ。南朝方であった父公綱(きんつな)に対し足利方に属した。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利尊氏につき,越後(えちご)(新潟県),上野(こうずけ)(群馬県)の守護となる。のち上杉憲顕と対立し,憲顕をささえる足利基氏,ついで足利氏満とたたかい降伏した。応安3=正平(しょうへい)25年7月5日死去。45歳。

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世界大百科事典(旧版)内の宇都宮氏綱の言及

【上野国】より

…まもなく直義は殺されるが,直義党の上杉憲顕らは南朝方の新田義興・義宗と結んで蜂起し,尊氏方と戦い(武蔵野合戦),敗北して越後に逃れる。尊氏は宇都宮氏綱を上野・越後の守護に任命し,宇都宮氏は約10年間上野・越後を支配するが,上杉氏と結ぶ在地武士の反抗で支配は安定しなかった。やがて63年(正平18∥貞治2)鎌倉公方足利基氏の要請で上杉氏は関東に復帰し,宇都宮氏綱を圧迫して上野守護となる。…

【下野国】より

… 50年(正平5∥観応1)足利尊氏・直義兄弟が対立した観応の擾乱(じようらん)は,東国社会にも深刻な影響を与えた。宇都宮氏綱は芳賀禅可(はがぜんか)(高名)とともに尊氏方に属して翌51年駿州薩埵山の戦で活躍し,賞として上野,越後の守護職に補任され,芳賀高名の子高家・高貞が越後守護代となった。ところが63年(正平18∥貞治2)鎌倉公方足利基氏の力添えで上杉憲顕が関東管領・越後守護に復帰し,氏綱は武力で阻止しようとして敗れ,68年(正平23∥応安1)武蔵の平一揆(川越,江戸,豊島氏等)と結んで再度兵を挙げた。…

※「宇都宮氏綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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