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足利氏 あしかがうじ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利氏
あしかがうじ

清和源氏源義家の子孫。義家の孫義康が下野足利に住して,足利氏を称した。その子義兼は源頼朝に従って御家人となり北条時政の娘を妻とし,さらに義氏,泰氏も北条氏と通婚して鎌倉幕府に重用され,上総,三河の守護。

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百科事典マイペディアの解説

足利氏【あしかがうじ】

清和源氏。源義家の孫義康が祖。本拠は下野(しもつけ)国足利荘鎌倉時代上総(かずさ)・三河の守護。14世紀尊氏のとき政権を握り,室町幕府を開いた。義満のころ最盛期を迎えたが,応仁・文明の乱後勢威を失い,1573年織田信長に滅ぼされた。
→関連項目秋月荘一色氏今川氏神崎荘斯波氏崇光天皇日野家室町幕府

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世界大百科事典 第2版の解説

あしかがうじ【足利氏】

下野国足利(現,栃木県足利市)を名字の地とする武士。藤原秀郷流と源氏との2流がある。
藤原足利氏
 藤原秀郷の後裔成行の代から足利を称したと伝え,薗田,大胡,佐野,阿曾沼などの諸氏を分出する。成行の養子(実は孫)家綱は12世紀半ばに隣庄簗田(やなた)御厨をめぐって源義国・義康らと争い,また足利荘をめぐって新田義重と争っている。その子俊綱は数千町を領する郡内の棟梁といわれ,同じ秀郷流の小山氏と権勢を争っていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利氏
あしかがうじ

清和源氏(せいわげんじ)。鎌倉~室町時代の豪族。源義家(みなもとのよしいえ)の子義国(よしくに)の次子義康(よしやす)に始まる。下野国(しもつけのくに)足利荘(あしかがのしょう)(栃木県足利市)を本拠とした。義康は保元(ほうげん)の乱(1156)に活躍し、その室は源頼朝(よりとも)の母の妹にあたる。義康の子義兼(よしかね)は頼朝の鎌倉幕府創業に参画、北条時政(ほうじょうときまさ)の女(むすめ)を室とし、続く義氏(よしうじ)、泰氏(やすうじ)らも北条氏と姻戚(いんせき)関係にあった。仁木(にき)、細川、畠山(はたけやま)、岩松、桃井(もものい)、吉良(きら)、今川、斯波(しば)、渋川、石塔(いしどう)、一色(いっしき)らの諸氏を分出し、鎌倉時代を通じて嫡流の新田(にった)氏をしのぐ強大な一族となった。三河、上総(かずさ)両国の守護職をはじめ、上野(こうずけ)、下野、相模(さがみ)、美作(みまさか)、陸奥(むつ)などに所領をもった。義康より8代目の高氏(たかうじ)(のちに尊氏)は建武新政(けんむのしんせい)の成立に貢献し、ついで新政が行き詰まると後醍醐(ごだいご)天皇を吉野に追い、1338年(延元3・暦応1)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって室町幕府を開いた。初期の幕府は尊氏と弟直義(ただよし)の対立をはじめ、諸大名の抗争も加わって、約半世紀にわたりいわゆる南北朝の内乱期を現出した。3代将軍義満(よしみつ)になって、南北に分かれていた皇統も1392年(元中9・明徳3)に合一し、比較的安定した時期に入った。1441年(嘉吉1)6代将軍義教(よしのり)が赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺された嘉吉(かきつ)の乱ごろより諸大名間の対立がふたたび顕在化し、8代義政(よしまさ)、9代義尚(よしひさ)のときには応仁(おうにん)の乱(1467~1477)が始まった。これ以降15代義昭(よしあき)に至る時期は戦国時代とよばれ、幕府の権威は著しく低下した。一方、尊氏の子基氏(もとうじ)は鎌倉にいて鎌倉公方(くぼう)(関東公方)とよばれ、基氏より5代目の成氏(しげうじ)は下総(しもうさ)古河(こが)に移り、古河公方とよばれた。[桑山浩然]

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世界大百科事典内の足利氏の言及

【相模国(相摸国)】より

…鎌倉時代の武家政権の本拠地鎌倉には義詮がおかれ,関東10ヵ国(室町以降12ヵ国となる)を管轄する地方機関鎌倉府が成立した。相模国は政庁の所在地として重要視され,鎌倉公方足利氏と信頼関係にある上杉氏,三浦氏,一色氏等が守護をつとめた。永享の乱(1438‐39)で鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に討伐されたあと,相模国に勢力を張ったのは上杉氏であった。…

【下野国】より

…氏綱の後を継いだ基綱は80年(天授6∥康暦2)下野守護小山義政と対立して殺された。鎌倉公方足利氏満はただちに関東の諸将に義政追討を命じ,義政は鷲城,祇園城,粕尾城などに拠って抗戦したが,82年(弘和2∥永徳2)自害し,ここに名族小山氏は断絶した。公方氏満は名族の断絶を惜しみ,同族の結城基光の次男泰朝をして再興させた。…

【幕府】より

…したがって清和源氏でない織田・豊臣両氏は征夷大将軍になれず,幕府を開かなかったと見られている。徳川氏が清和源氏で,足利氏に対立した新田氏の支流だと称したのも,武家統合の官職である征夷大将軍に就任することを望んだためである。それゆえ徳川氏は,室町幕府の例にならって殿中の儀礼を定め,足利将軍に近侍していた吉良氏,伊勢氏らを用いて儀式典礼をつかさどらせた。…

【三河国】より

…安達氏の守護解任の理由は不明であるが,13世紀後葉まで渥美郡内で地頭職を保持していた。 足利氏は義氏より尊氏までの5代約100年間守護職を世襲し,碧海郡矢作(現,岡崎市)に守護所と家政機関の額田郡公文所を置き,一族,被官に所領を分与した。義氏の庶長子長氏は吉良荘,その次男国氏は同荘今川,義氏の孫公深は一色,再従兄弟の実国は額田郡仁木,義季は同細川に分立して,それぞれ名字の地とした。…

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