富浜塩田(読み)とみはまえんでん

日本歴史地名大系 「富浜塩田」の解説

富浜塩田
とみはまえんでん

[現在地名]向島町向島

延宝五年(一六七七)尾道町の南対岸、向島西むかいしまにし村の大潟おおがた広島城下の豪商天満屋治兵衛が塩田を開発。当初の富浜古浜は一一軒。元禄四年(一六九一)には新浜一四軒分が築造された。なお元禄元年には尾道水道を隔てた対岸御調郡栗原くりはら(現尾道市)の沖に富浜の手代正兵衛によって栗原沖浜四軒が築調されたが、同七年天満屋に買取られ、天満屋所有塩田は二九軒前となった。この新旧富浜および栗原沖浜を含めて富浜と称する(正徳元年富浜開地覚書「日本塩業大系」所収)

栗原沖浜四軒のうち一軒は元禄一〇年、一軒は同一四年に荒浜となった。また元禄一〇年向島西村津部田つべた沖に鰯屋平三郎によって塩浜二軒が築調されている(同覚書)。この津部田浜も富浜に含まれる。文政二年(一八一九)の「国郡志下調書出帳」によると、塩浜面積は富浜古浜七町七反三畝(一一軒)、同新浜八町五反九畝二七歩(一四軒)、栗原沖浜一町七畝三歩(二軒)、津部田沖浜二町一反九畝二一歩(二軒)である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の富浜塩田の言及

【向島[町]】より

…向島は古代の歌島(うたのしま)郷(《和名抄》)の地に比定され,中世には大炊寮(おおいりよう)領歌島荘となっており,塩年貢を納めていた。南部の高見山(283m)を中心に丘陵や台地が広がるが北部は平地で,江戸時代には城下の豪商天満屋によって富浜塩田が開かれ,昭和30年代まで製塩業が続けられた。温暖な気候にめぐまれてかんきつ類や野菜,花卉が栽培されている。…

※「富浜塩田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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