菅沼定盈(読み)すがぬま・さだみつ

朝日日本歴史人物事典 「菅沼定盈」の解説

菅沼定盈

没年:慶長9.7.18(1604.8.13)
生年天文12(1543)
戦国・江戸前期の武将三河野田城(愛知県新城市)城主菅沼定村の子。母は松平忠定の娘。幼名竹千代,通称新八郎,のち従五位下・織部正に叙任されている。はじめ今川義元に属していたが,桶狭間の戦で義元が討たれた翌永禄4(1561)年,東三河の諸将と共に今川氏真から離れて徳川家康に属し本領を安堵された。このとき今川氏によって一時野田城を奪われるが,すぐ奪回している。永禄11(1568)年,家康の遠江侵攻に際し菅沼忠久,近藤康用,鈴木重時の井伊谷三人衆を誘降し,その功によって遠江で加増を受けた。天正1(1573)年1月から武田信玄に本拠の野田城を攻められ,最終的には水の手を断たれて落城。一時,武田方に捕らえられたが,奥平貞勝ら山家三方衆の人質と交換という形で釈放されている。天正3(1575)年の長篠の戦ののち野田城を回復し,同12年の小牧長久手の戦,同18年の小田原攻めにも従軍して戦功があった。家康の関東移封に際し,上野国(一説に武蔵国)の阿保で1万石を領したが,その後致仕し,家督を子定仍に譲っている。関ケ原の戦には家康から江戸城留守居を命ぜられ,戦いののち,定仍が伊勢長島2万石となって移っていったので,定盈もそれに従い同地で没した。

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菅沼定盈」の解説

菅沼定盈 すがぬま-さだみつ

1542-1604 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)11年生まれ。三河(愛知県)野田城主。はじめ今川氏,のち徳川家康にしたがう。天正(てんしょう)18年家康の関東入国で,上野(こうずけ)(群馬県)阿保(あぼ)城1万石城主となる。慶長9年7月18日死去。63歳。通称は新八郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の菅沼定盈の言及

【菅沼氏】より

…近世の武家。室町時代の中ごろ東三河の山間の作手(つくで)村菅沼に住し,菅沼氏を称する。天文ごろ,豊川流域の平野部まで南下し,東三河の有力な国人領主となった。この間,松平氏(徳川氏)と今川氏との間に服属,離反を繰り返し,徳川家康の三河統一後はその忠実な部将となった。とくに野田菅沼氏の定盈(さだみつ)は信任が厚く,関東入国時,上野国阿保で1万石を与えられる。孫定昭のとき嗣子なく丹波亀山城4万石は除封され,弟2人は三河国に1万石を与えられ交代寄合,旗本となった。…

※「菅沼定盈」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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