ジャヤバルマン7世(読み)ジャヤバルマンななせい(英語表記)Jayavarman VII

改訂新版 世界大百科事典 「ジャヤバルマン7世」の意味・わかりやすい解説

ジャヤバルマン[7世]
Jayavarman Ⅶ
生没年:1125ころ-1218ころ

カンボジアのアンコール朝最後の隆盛期の王。在位1181-1218年ころ。仏教徒ダラニーンドラバルマン2世の息子。諡号(しごう)マハーパラマソウガタ(〈偉大な至高の仏教徒〉の意)のとおり,仏教を篤信していた。内乱,王位奪(さんだつ),東隣のチャンパの侵入(1177)で混乱した国内を再統一し,1181年に即位した。90年に宿敵チャンパを討ち,1203年カンボジアに併合した。さらに近隣諸国を制圧し,北はラオスのビエンチャン付近から南はマレー半島北部まで,西はメナム川上流域まで席巻し,インドシナ半島の中央部をその勢力範囲とした。都城アンコール・トムの中心寺院バイヨンには,4面の観世音菩薩の大慈顔が塔堂に付けられ,王を神格化した特別な仏像ブッダラージャ(仏即王)〉が中央祠堂に祀られていたという。タ・プローム,プリヤ・カンなど,ほかにも多くの寺院を建立し,美術史上バイヨン様式といわれる。また国内に102ヵ所の施療院を建て,道路網を整備し,121ヵ所に宿駅を設けた。しかし打ち続く外征と建設事業で国力は消耗し,王の死後,アンコール朝は急速に衰退へ向かった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジャヤバルマン7世」の意味・わかりやすい解説

ジャヤバルマン7世
ジャヤバルマンななせい
Jayavarman VII

[生]1125
[没]1220頃
カンボジア,アンコール朝最盛時代を形成した王 (在位 1181~1220頃) 。この時代にカンボジアの勢威は大いに伸び,東は中部ベトナムにあったチャンパに,北方はラオス中部まで,西方はメナム (チャオプラヤ) 川流域に,南はマレー半島北部にまで及んだ。王は熱心な大乗仏教徒で,国内各地に大伽藍を建立したほか,首都を中心とした道路網の整備,102に及ぶ病院の建設などを行なった。

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世界大百科事典(旧版)内のジャヤバルマン7世の言及

【アンコール朝】より

…アンコールとは〈都城〉を意味する梵語ナガラのクメールなまりで,王都の後世の呼称である。 アンコール朝は,群雄割拠状態の国内を統一し,802年に登位したジャヤバルマン2世に始まる(インドラバルマン1世の877年から,あるいはヤショーバルマン1世の889年から,という説もある)。ヤショーバルマン1世(在位889‐910ころ)はアンコールに1辺4kmの環濠都城を造営し,王にちなんでヤショーダラプラと呼称した。…

【カンボジア】より

…真臘は3,4世紀ころからメコン川中流域よりダンレック山地を越えて広大な平野部へ南下し,扶南を吸収合併,7世紀前半には現在のカンボジアの範囲を領域とした。政治は地方拠点プラ(城市)の連合体制で,そのため隆替が激しく,705年ころ水真臘と陸真臘に分裂,国内は群雄が割拠したが,ジャヤバルマン2世が802年に新王朝を宣言した。
[アンコール時代]
 アンコールの地に王都を定め,約550年にわたり都城と寺院を次々と造営し続けた時代で,それらがアンコール遺跡にあたる。…

【真臘】より

…王都の伊奢那城(現在のサンボール・プレイ・クック遣跡で,コンポントム州にある)は,王が謁見する大会堂と戸数2万以上の大城であり,国内には30あまりの大城があったという。639年にはバババルマン2世が在位し,息子のジャヤバルマン1世Jayavarman I(在位657‐681)が南部のメコン川デルタ地帯までを征服し,国内を統一した。しかし後継者不在のため,まもなく国内は群雄が割拠する状況となり,中国史料によると,神竜年間(705‐706)に水真臘と陸真臘(別名は文単)に分裂した。…

※「ジャヤバルマン7世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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