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ラオス ラオス Laos

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ラオス
ラオス
Laos

正式名称 ラオス人民民主共和国 Sathalanalat Paxathipatai Paxaxôn Lao。面積 23万6800km2。人口 639万2000(2011推計)。首都 ビエンチャン

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デジタル大辞泉の解説

ラオス(Laos)

インドシナ半島の中東部にある人民民主共和国。首都ビエンチャン。大部分が山岳・高原で、西をメコン川が流れる。チーク材・錫(すず)などを産出。14世紀に統一王国が成立したが、のち三王家に分裂し、1893年にフランスの保護領となった。1949年フランス連合内の独立王国となり、1953年完全独立、1975年共和制。住民はラオ族が多く、ほとんどが仏教徒。人口637万(2010)。ラーオ

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百科事典マイペディアの解説

ラオス

◎正式名称−ラオス人民民主共和国Satharanalat Pasathipatthai Paxaxon Lao/Lao People's Democratic Republic。
→関連項目東南アジア

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世界大百科事典 第2版の解説

ラオス【Laos】

正式名称=ラオス人民民主共和国Lao People's Democratic Republic面積=23万6800km2人口(1996)=504万人首都=ビエンチャンVientiane(日本との時差=-2時間)主要言語=ラオ語,フランス語通貨=キップKip東南アジア,インドシナ半島北部にある内陸国。1975年王国から人民民主共和国になった。
[自然]
 山岳,高原とメコン川が自然地勢の特徴である。チベット高原から張り出したアンナン(チュオンソン)山脈が東隣のベトナムとの国境線をつくり,雲南から流れてくるメコン川は,国内を北から南へ約1500kmの距離を縦断し,北西部ではミャンマーとの,中部から南部ではタイとの国境線となっている。

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大辞林 第三版の解説

ラオス【Laos】

インドシナ半島北東部にある人民民主共和国。メコン川中流東岸に位置し、国土の大部分を山岳・高原が占める内陸国。米・チーク材・スズなどを産する。住民はラオ族が主で仏教を信奉。1893年フランスの統治下に入ったが1953年独立。75年に立憲君主制から共和制に移行。首都ビエンチャン。面積23万7千平方キロメートル。人口590万( 2005)。正称、ラオス人民民主共和国。 〔「羅宇」とも当てた〕

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ラオス
らおす
Laos

インドシナ半島の東寄りに位置する国。正称はラオス人民民主共和国Satharanalat Pasathipatthai Paxaxon Lao(Lao People's Democratic Republic)。東はベトナム、北は中国、北西はミャンマー(ビルマ)、西はタイ、南はカンボジアに接する内陸国である。国土は南北に1000キロメートル、東西に150キロメートル(広い所で500キロメートル)という細長い山国である。面積は23万6800平方キロメートル(日本の本州とほぼ同じ)。人口は585万9000(2007推計)。首都はビエンチャン[丸山静雄]

自然・風土

国土は上ラオス(北ラオス)、中ラオス、下ラオス(南ラオス)からなる。上ラオスはフォンサリからサムネワに至る北東部の山地帯、ルアンプラバン、サヤブリを含む北西部の山地帯、ほぼ中央に広がるジャール平原(ムォン・フエン平原、チャンニン平原ともよばれる)の3地区に分かれる。ジャール平原は高原としては標高がもっとも高く、ラオスの最高峰ビア山(2820メートル)をはじめ2000メートル級の山を周辺にいくつももつ。インドシナで最初に人骨が発見されたフロイ山(2257メートル)も高原の北方にある。ここはシエン・クアンを中心とする広大な高原である。上ラオスは地勢、気象ともに厳しく、ベトナムに近い。早くから、ラオスの左派勢力ともいうべきパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)の地盤となっていた。
 中ラオスはカムムオン(タケク)州とサバナケット州にまたがり、チョンソン(アンナン)山系からメコン川にわたる山地と平地である。国土のうちもっとも狭い地域にあたる。北東部はチョンソン山系につながる山地で、ジャングルに覆われ、その南にはマハサイ平野、ケンコク平野が広がる。この地域は肥沃(ひよく)な米作地帯でラオスの穀倉である。
 下ラオスも三つの地域からなる。東部はチョンソン山系沿いの山地帯で、ベトナムのコントゥム高原につながる。中部はボロベン高原である。ボロベン高原は標高700~1200メートルで、広さは1万平方キロメートルに達する。下ラオスの10分の1を占める。米、コーヒー、ミョウガ、キナを産出する肥沃(ひよく)なテル・ルージュ(紅土)地帯である。かつてフランスはここを熱帯性工業用作物の栽培地、牧場、保養地にしようとしていた。西部はメコン川右岸のチャンパサック地区で、米作地帯である。中ラオス、下ラオスは平野、高原からなる豊かな農作地帯で、古来、保守勢力の地盤となっていた。
 ラオスは、その東側をチョンソン山系が北から南に走ってベトナムとの国境を形成し、西側をメコン川が北から南に流れて、ときにはラオス領内に深く入り、ときには西に南に動いて、ミャンマー、タイ、カンボジアとの国境を形づくる。メコン川はラオス北部では幅300メートルほど、ビエンチャンでは1キロメートル、河口では洋々たる大海の趣(おもむき)をもつ。メコン川は国際河川開発の焦点とされ、その本流、支流にさまざまな開発計画が提起されている。道路、鉄道の十分に発達していないラオスでは、メコン川の水運が重要な交通、輸送手段となる。しかしコーン滝、ケマラート滝の急流で舟の航行は阻害される。内陸国はひたすらに海への出口を求める。ラオスにとって、それはサバナケットから9号道路によってベトナムのクアンチに出るか、タドアでメコン川を渡り、ノン・カイから長駆タイ領内を走ってバンコクに出るかの二つの道しかない。後者については1994年4月、タドアとノン・カイの間に「ミタバイ橋」(ラオス・タイ友好橋)が完成、ビエンチャンとバンコクが結ばれ、前者についても整備が進められている。
 気候は熱帯モンスーン型。1年は乾期と雨期に分かれ、乾期は10月~4月、雨期は5月~9月。年間の降水量は1563ミリメートル。平均気温は26.5℃。11月~2月は比較的涼しいが、雨期は湿気が強く、暑い。山地ではケシが栽培され、焼畑農業が行われる。森林にはゾウ、トラ、イノシシ、サルがすみ、その他希少な昆虫、植物も多い。[丸山静雄]

歴史

ジャール平原の北100キロメートルほどにあるフロイ山の麓(ふもと)では人骨と斧(おの)型の石器、ルアンプラバン付近では磨製(ませい)石器が発見され、旧石器時代、新石器時代に、ラオス北部に人が住み着いていたものと考えられる。おそらく、この時代、ベトナム北部からラオス北部、ビルマにかけてのインドシナ半島北部には中国大陸、太平洋諸島の人たちと連なるさまざまな民族集団が形成されていたのであろう。
 彼らは生活手段を開発し生産を高め、中国あるいはインドからその文化を受け入れて成長し、1世紀前後から各地に小王国がつくられた。しかしやがて彼らは国づくりや争いに疲れて、活力を失っていった。すると、タイ系種族(タイ、ラオ、ビルマのシャン地方に住むシャンなど)やビルマ人が中国の雲南(うんなん)地方から南下してきた。8世紀ごろから12、13世紀にかけて、彼らによってその王国が各地に建設された。ラオスでは、ラオ人によってルアンプラバンとシエン・クアンに小王国がつくられ、1353年、両王国を合併してランサン王国が樹立された。ランサンとは100万のゾウを意味し、ゾウは富と力を象徴する。14世紀、ランサンはインドシナ最強の王国となったが、のち、王国はルアンプラバン、ビエンチャン、チャンパサックの3王国に割れ、3王朝が併立する形となった。
 分裂は力を弱める。19世紀末、タイの侵攻を受け、ラオスはその保護下に置かれた。やがてフランスが登場し、フランスはカンボジア、ベトナムを征服したあと、ラオスに対する宗主権をタイに放棄させ、1899年、ラオスを仏領インドシナ連邦に編入した。フランスはルアンプラバン王国を保護国、それ以外は直轄植民地としてラオスを支配した。ラオスでは地勢の関係で各地に小王国(小王室)がつくられたが、そのなかでルアンプラバン王国(王室)はいつも主導的地位に立っていた。
 ラオスの主体性を守るにはルアンプラバンが最適の地と考えられたのでもあろう。太平洋戦争末期の1945年3月、日本はこの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、同年4月8日、ルアンプラバン王国の独立を認めた。国王はシサバン・ウォン、副王兼首相はベッサラートである。しかし8月、日本は降伏した。フランスはベトナム、カンボジアに次いでラオスでも復帰を試みようとした。それに対し国内には、独立を貫こうと、ベッサラートを主導者とするラオ・イサラ(自由ラオス)、フランスとの協調を訴えるシサバン・ウォン国王派、フランスに対する徹底抗戦を主張しスファヌボンを主導者とするネオ・ラオ・イサラ(自由ラオス戦線。のちパテト・ラオ=ラオス愛国戦線と改称)など、さまざまの運動があった。そうしたなかで、ベッサラートが主導権を握り、1945年10月、ビエンチャンにラオス臨時政府が樹立された。首相はベッサラート、建設相スバナ・プーマ、国防相はスファヌボンであり、国王シサバン・ウォンは退位した。
 ラオスにはプリンスが多い。プリンスはかならずしも皇子、皇太子を意味しない。王族出身者は個人でもすべてプリンスとよばれる。ラオ語にはチャオ(Chao、Tiao)という尊称がある。長の意味である。プリンスはそうした尊称の一つである。ただし日本語で表すにはほかに適訳がなく、一般に殿下とされている。ベッサラート、スバナ・プーマ、スファヌボン、ブン・ウムなど、いずれもプリンスとよばれる。ベッサラート、プーマ、スファヌボンは兄弟で、ベッサラートは長兄、プーマが弟、スファヌボンは異母弟だった。彼らはルアンプラバン王家の弟の家系に属する。ブン・ウムはチャンパサック藩王だった。藩王とは現王室以外の、かつての王族をいう。
 1946年4月、フランス軍がビエンチャンに復帰した。シサバン・ウォンは復位を認められてふたたび国王となり、王朝政府が登場した。王朝政府は1946年12月のインドシナ戦争勃発(ぼっぱつ)後、1949年7月、フランス連合内での独立を認められ、1953年10月、完全独立を得た。インドシナ戦争は1954年7月に終結、フランスの植民地支配も終わりを告げた。
 その後、国内の対立は、ビエンチャンを中心とする中立派(首相スバナ・プーマ)、チャンパサックの親米右派(ブン・ウム)、北部のフォンサリ、サムネワの親越(ベトナム)左派パテト・ラオ(スファヌボン)の3派の抗争と形を変えて続けられた。冷戦が激しくなるや、アメリカは北ベトナムの共産主義勢力が南下するのを阻止しようとしてラオスに膨大な軍事・経済援助を投入した。ベトナム戦争はラオスで始まったともいえる。戦争が始まると、北ベトナム、中国はラオスの左派を支援し、アメリカ、南ベトナムは右派に肩入れし、ラオスは代理戦争の場とされた。ラオスは中立政策によって国の独立と平和を必死に守ろうとしたが、冷戦のなかで国を徹底的に揺さぶられた。冷戦構造に組み入れられた以上、その構造が破綻(はたん)しない限り「独立ラオス」は戻らない。1975年4月、アメリカはベトナム戦争に敗れ、ベトナムから引き揚げた。パテト・ラオは息を吹き返し、民衆の支持を得て全土を解放した。
 1975年12月1、2日の両日、ビエンチャンで全国人民代表大会が開かれ、ラオス人民民主共和国の樹立が宣言された。国家首席(大統領)にはスファヌボン、首相にはカイソン・ボムビハンが選任された。これに伴って国王シサヴァン・バッタナ(前国王シサバン・ウォンの子息)は退位し、622年にわたる王制は廃止された。前国王バッタナは大統領の最高顧問に、前首相プーマは政府顧問にそれぞれ就任した。王朝と仏教の国は一転して社会主義の国となった。[丸山静雄]

政治

共和制の下、1989年3月、社会主義体制後初めての直接選挙による最高人民議会選挙が実施され、1991年8月の議会では、新憲法が制定され、最高人民会議に代わって、国民議会が成立した。元首は国家首席で、国民議会で出席議員の3分の2以上の賛成によって選出される。議会は一院制で、任期は5年、115議席からなる。政党は旧インドシナ共産党が母体のラオス人民革命党(LPRP)のみが憲法に規定されており、他の政治組織・機関として人民革命党を母体とするラオス国家建設戦線(LFNC)、ラオス労働組合連盟、ラオス女性連合などがある。
 1991年3月、首相のカイソンが国家首席となったが、まもなく病死、ヌハク・プームサワンが国家首席に、カムタイ・シパンドンが首相にそれぞれ就任し、この2人を中心とする指導体制に移行した。1998年2月、ヌハクの辞任に伴い、カムタイが国家首席に就任し、首相にはシサワット・ケオブンパンが選任された。シサワットは2001年3月に辞任、後任の首相にブンニャン・ウォラチットが就任した。2006年6月に国家首席、首相ほか主要閣僚の交代が行われ、国家首席にはチュンマリー・サイニャソーン(ラオス人民革命党書記長)、首相にはブアソーン・ブッパーヴァンが就いている。
 地方自治は全国を16州と1自治市(ビエンチャン)に分け、その下に町、郡、村がある。司法制度は最高裁判所を頂点に州、自治市、区に人民裁判所がある。
 1955年、国連加盟、1997年にはASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)への加盟が実現した。これによって、外交は活気づき、ベトナムはもちろん、カンボジア、インド、タイ、中国などとの関係を深めている。兵力は徴兵制で陸軍2万5600人、海軍600人、空軍3500人、地方防衛用の民兵、自衛隊は10万人といわれる。[丸山静雄]

経済

耕地面積は国土の8.3%にすぎず、メコン川流域の低地帯で水稲、高地帯で焼畑農業が営まれる。フランスの植民地時代は放置され、その後は内戦と政情不安でほとんど開発は行われなかった。1975年以降、社会主義経済計画の下で農業の集団化などが図られた。初期は天候不順などで生産が思うに任せなかったが、1984年に米の生産が132万トンに達し、初めて食糧を自給できるようになった。米以外の自給作物にはトウモロコシ、イモ類があり、商品作物としてコーヒー、葉タバコ、綿花などがある。
 政府は1986年11月から「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策を導入した。これは経済開放を意味し、国営企業の独立採算制、民営企業の復活、不採算企業の清算、為替(かわせ)レートの統一など、市場経済化への積極的な取り組みが始められた。1988年には外国投資法が制定され、外国からの投資、経済援助にも道が開かれた。
 当時、工業は木材加工業と水力発電だけであった。ナム・グム川に建設された水力発電所は出力17万キロワットあったが、電力の大部分はタイに輸出され、最大の外貨獲得源となっていた。貿易規模は小さく、恒常的輸入超過であった。1994年の輸出は3億4800万ドル、輸入は5億8700万ドル。輸出品は電力、木材、コーヒー、輸入品は石油製品、機械、食糧などで、工業製品の大半は輸入に頼っていた。2007年(2006年10月~2007年9月)の輸出額は9億2560万ドル、輸入額は9億1640万ドルで、920万ドルの輸出超過となっている。おもな輸出品目は金・鉱物(59%)、工業・手工芸品(15.5%)、農産品(8.1%)、木材製品(7.9%)、輸入品目は燃料(25.7%)、工業製品(16%)、衣料用などの原料(11.5%)、自動車部品(4.9%)となっている。おもな貿易相手国は輸出においてはタイ(30.7%)、ベトナム(12.1%)、オーストラリア(9.3%)、シンガポール(9.1%)、台湾(8%)、韓国(7.7%)で、輸入ではタイ(61.6%)、ベトナム(15.9%)、中国(9.1%)、日本(4.2%)、以下ドイツ、フランスなどである。国内総生産(GDP)は39億8400万ドル、一人当りGDPは678ドルで、経済成長率は8%に達している。
 2009年3月にタイのノン・カイとタナレーンを結ぶ鉄道が開通したが、国内を網羅する鉄道はない。また内陸国のため海港もなく、メコン川の水運がもっとも有効な交通手段である。国営のラオス航空がビエンチャンを起点に飛び、またビエンチャンからは国際航路が開かれている。[丸山静雄]

民族・社会

ラオスは多民族国家である。それは主として土地の高度による民族の住み分けによって成り立っていたようである。住み分けは3層からなる。第一層はメコン川河畔の低地帯(平野部)で、ここにはラオスの主要民族であるラオ(60%)が住む。ラオは華南から南下してきたタイ系種族の一つで、ラオ・ルム(ルムは低地の意味)ともよばれる。このほか、タイ系種族にはタイ・デン(赤タイ)、タイ・ダム(黒タイ)、タイ・カオ(白タイ)、ルー、フー・アンなどがある。ラオ・ルムは一般に水稲耕作を営む。大きな都市は平野部に発達し、中国人(華僑)、ベトナム人(越僑(えっきょう))はおもにそこで商業活動に従事する。ラオの大多数は仏教徒(上座部仏教)で、仏教信仰が厚い。若者は少なくとも3か月、僧侶(そうりょ)の修業を積むことが期待される。また精霊崇拝も存在する。
 第二層は平野部よりやや高く、1000メートル前後の山腹部である。ラオスに分布する種族の総数は約50で、ラオ以外は少数民族とされ、いずれも第二層、第三層に住む。第二層に住む種族はラオ・トゥン(トゥンThongは山地の意味)とよばれる。山地民族である。彼らはインドネシア系の種族で、カー、タ・オイ、ラーベ、ラーベン、ナ・フン、ゲー、タ・リエン、アラク、カタン、タ・リエウ、カムー、フー、ノイ、コー、ビット、カー・セン、クイなどに分かれる。クメール系のセダンも山腹部に居住地を定める。カーはベトナムではモイとよばれ、モイは裸、カーは奴隷を意味する蔑称だが現在は用いられず、トゥン(山地民族)とよばれる。平野部からラオ・ルムに追い出され、山地斜面に定着したのである。彼らは斜面に杭上(こうじょう)家屋を建て、陸稲耕作を営む。一般に多神教である。おそらくラオ・トゥンはかつてラオスの支配民族だったのであろう。ジャール平原に残る大小さまざまの、無数ともいえる石の壼(つぼ)(ジャール平原の名はこの壼に由来する)は葬祭儀礼に使われたものであろうが、一種の巨石文化の跡であると考えられる。その規模は大きく、製作技術は高度である。ラオ・トゥンはラオスのほとんど全域に分布している。ラオ・トゥンは文字をもたないが、フランス支配に対してしばしば反乱した。ジャール平原は涼しく、花の咲く美しい台地であったが、その中心地シエン・クアンには堅牢(けんろう)な監獄があった。フランスの植民地時代、「最重罪」の政治犯はプロコンドール島(コンソン島)に流され、次の「重罪犯」がここに収容された。
 第三層は1500メートル以上の山頂部で、ラオ・スン(スンは高原の意味)とよばれる高地民族が住む。ミャオ(苗)、ヤオ()、ロロ(羅羅)、モン、マン、ホー、ムースー、ラン・テンなどである。彼らは焼畑耕作により陸稲、トウモロコシ、ケシを栽培し、数年で移動する。精霊崇拝である。ミャオ、ヤオは葬祭儀礼にはいまなお漢字を用いており、中国、朝鮮、日本、台湾、ベトナムとともにいちおう、漢字文化圏に入るといえるだろう。
 近年、人口の増加や政情不安(内戦)、経済社会の変容によってこうした住み分けは乱れてきたが、部族社会の伝統はかたく守られ、依然として主要民族の社会とは一線を画して別個の社会を営んでいる部族も多い。
 教育制度は小学校5年間、中学校3年間、高校3年間となっている。小学校の5年間が義務教育である。高等教育機関は大学5年間(医科大学は6年間)のほかに技術学校、専門学校がある。大学はビエンチャンにラオス唯一の総合大学であるラオス国立大学がある。新聞は人民革命党機関紙『パサーソン』などがあるが、発行部数は少ない。国営ラジオ9局とテレビ2局がある。[丸山静雄]

日本との関係

太平洋戦争期、日本軍は南方軍の展開を援護するためチエポン(サバナケットとベトナムのクアンチを結ぶ9号道路沿いの要衝(ようしょう))に飛行場を建設し、一個中隊の兵力を置いていた。終戦間近、日本は軍をラオスに入れて、フランス軍を武装解除し、ルアンプラバン王国に独立を「許容」した。戦後は、1951年国交を樹立、ラオス政府は1957年、対日賠償請求権を放棄した。それを受けて日本政府は2年間に10億円にのぼる無償援助を供与することを約束、それによってビエンチャンの上水道、同発電所、ナム・グム川、バンナムカジン川の架橋、ナム・グムダム(水力発電所)などの建設が行われた。
 1950年代末から1960年代末にかけて、アジアの冷戦(米中対決)に巻き込まれ、ラオスが右派サナニコン政権と左派パテト・ラオとの対立で激しく揺れたとき、国連は調査団を送って現地調査を行った。調査団の団長には駐タイ大使・兼駐ラオス大使の渋沢信一が任じられた。調査団は1959年8月から調査に入り、「北ベトナム正規軍が国境を越えたことは明らかにしえなかった」とし、国内の「敵対行動はゲリラ的なものである」との報告書を国連に提出した。これは紛争の国際化をある程度防ぐ効果はあった。
 その後、日本版「平和部隊」といわれる青年海外協力隊(1965年発足)がいち早くラオスに派遣され、農業、漁業、鉱工業、交通・通信、土木・建設、保健・衛生、教育・スポーツの各分野で技術指導にあたった。ラオスのタドアとタイのノン・カイを結んで初めてメコン川に架(か)けられた「ラオス・タイ友好橋」の架橋工事では、日本は開発調査(フィジビリティ・スタディ)を担当して協力した。架橋工事はオーストラリアの無償資金協力で実施され、工事着工は1991年10月、完成は1993年12月、開通は1994年4月であった。その他ODA(政府開発援助)による無償・有償資金協力、海外協力事業団による技術協力など多岐にわたってラオスの経済開発に協力している。日本のラオスに対する援助額(ODA)は年間(2005年10月~2006年9月)6218万ドルで、各国総計の約28%を占め、ラオス最大の援助国となっている。[丸山静雄]
『丸山静雄著『東南アジア』(1962・みすず書房) ▽ジョルジュ・セデス著、辛島昇・内田晶子・桜井由躬雄訳『インドシナ文明史』(1969・みすず書房) ▽プーミ・ボンビチット著、藤田和子訳『人民のラオス』(1970・新日本出版社) ▽天川直子・山田紀彦編『ラオス 一党支配体制下の市場経済化』(2005・アジア経済研究所) ▽石田正美編『メコン地域開発』(2005・アジア経済研究所) ▽天川直子編『後発ASEAN諸国の工業化』(2006・アジア経済研究所) ▽石田正美・工藤年博編『大メコン圏経済協力』(2007・アジア経済研究所)』

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