精選版 日本国語大辞典 「ラオス」の意味・読み・例文・類語
ラオス
- ( Laos ) インドシナ半島北東部の内陸にある人民民主共和国。西部国境近くをメコン川が流れる。住民の半数あまりはラオ族で、カー族、メオ族などの少数民族がいる。国教は仏教。一九五三年王国としてフランスから独立、翌年ジュネーブ協定で承認された。七五年に人民民主共和国となった。米、チーク材、コーヒー、錫などを産出する。首都ビエンチャン。
翻訳|Laos
基本情報
正式名称=ラオス人民民主共和国Lao People's Democratic Republic
面積=23万6800km2
人口(2010)=631万人
首都=ビエンチャンVientiane(日本との時差=-2時間)
主要言語=ラオ語,フランス語
通貨=キップKip
東南アジア,インドシナ半島北部にある内陸国。1975年王国から人民民主共和国になった。
山岳,高原とメコン川が自然地勢の特徴である。チベット高原から張り出したアンナン(チュオンソン)山脈が東隣のベトナムとの国境線をつくり,雲南から流れてくるメコン川は,国内を北から南へ約1500kmの距離を縦断し,北西部ではミャンマーとの,中部から南部ではタイとの国境線となっている。東のアンナン山脈に隣接する形で,チャンニン(別名ジャール平原),ボロベンなどの高原が屋根のようにつながっている。メコン川は上流の山岳・高原地帯では谷あいに狭い河谷平野をつくり,中流域では山間盆地や扇状地,平野をつくり出している。山岳・高原地帯と平野・盆地部は,山奥深くまで網目状に延びた無数の中小河川で結ばれ,雨季になると黄褐色の河流が山の斜面をメコン河谷に向かって流れる。
国土は地勢上から北部,中部,南部の3地域に区分できる。北部はポンサリからサムヌアにかけて山塊地帯が続き,中央部に標高1000m前後のジャール平原が位置し,各地方は孤立して横の連絡が困難である。平地部としては,ルアンプラバン盆地とビエンチャン平野がある。中部ではアンナン山脈からメコン河谷へかけて標高約800mの低い高原が続き,メコン川とセーバーンファイ川がマハーサーイ平野を,メコン川とセーバーンヒエン川がケンコク平野をつくり出し,穀倉地帯となっている。南部は標高700~1000mのボロベン高原に代表される紅土(ラテライト)地帯である。メコン川は中小河川との合流地点に河谷平野をつくり出し,なかでもチャンパサック平野は肥沃な米作地域である。
気候をみると,国土が南北約1000kmと細長く,地域により自然条件も異なるが,熱帯モンスーン気候に属し,雨季が6~10月,乾季が11~5月で,年降水量は約2000mmになる。気温は高原と平地部で違うが,例えばビエンチャンでは1月ころに最低気温が10℃くらいに下がる一方で,雨季直前には最高気温が40℃近くまで上昇する。
国土の大部分が山岳・高原地帯であるために国内各地の往来が困難で,地域割拠性が助長されてきた。主要民族はラオ族で総人口の6割強を占め,メコン川流域の平地部に住み,水稲耕作に従事する。タイ系のラオ族の故地は中国の南部といわれ,メコン川や中小河川に沿って南下してきた。山岳・高原地帯には多くの少数民族が割拠し,その数は100ともいわれ,まさに民族のるつぼである。ミヤオ族やヤオ族(両族はラオ・スン族とも総称する),タイ系諸族のヌン族,赤タイ族,黒タイ族などは,標高1000~1500mの地帯にモザイク状に居住している。中部から南部にかけての山腹やボロベン高原にはインドネシア系のカー族(ラオ・トゥン族)などが住んでいる。これらの少数民族は独自の文化と言語(多くは文字なし)をもち,自律的な小集落をつくり,焼畑によって雑穀や陸稲を耕作し,狩猟・採集などをあわせた自給的な生活を営んでいる。しかし,耕地が高原や山腹のためやせた土壌で,生産高も限定され,扶養人口も限られる。ほかに少数民族としては,都市部に華僑(中国人)が約10万人住み,ベトナム人が約3万人いる。両者ともフランス植民地時代に移り住んで来た人たちで,王制から人民共和制に変わった1975年以前の段階で商業・流通機構,金融業などを握っていたが,新政権下ではその役割が減じている。
ラオ族の村落は中小河川の縁辺部や合流地点に位置し,川に関した地名を冠称する場合が多い。河川流域ではヤシやビンロウの林に囲まれた50戸から70戸くらいの集落が点在するが,人口密度が高いのはチャンパサック平野である。山腹地帯では20戸ぐらいの小集落が小川のそばにあり,流水を利用した脱穀用の水車もある。主として傾斜地に田畑をひらき,平地に水田をつくっている。田植えは6月で,11月から12月にかけて収穫をする。茎の上の方,稲穂を刈り取る高刈りである。米はもち米がほとんどで,畑作地ではトウモロコシ,タバコ,綿花などを栽培している。家屋は竹,木,ニッパヤシなどでつくられた杭上住居である。農作業の後で,水牛や家畜を宅地内に追い込み,アブナーム(水浴)で1日の汗を流す。
村には必ず寺院や精霊信仰(プー・ター神など)の小祠があって,僧侶や小祠の霊媒たちは,村人の個人的な悩みごとから農耕儀礼までを受け持ち,一つの生活規範を与えている。村落は宗教行事や農作業などが共同で行われる自律的な社会であり,村人にとっては村が小宇宙,世界そのものである。上座部仏教(小乗仏教)が1947年憲法では国教に定められ,ラオ族のほとんどが敬虔な仏教徒である。寺院総数約2000,僧侶が約1万3000人で,僧侶による寺子屋教育は初等教育の一助となっていた。
現在のラオスの地に南下してきたラオ族は,《ランサン年代記》によれば,最初の統一国家を1353年に現在のルアンプラバンに建国した。この国はランサン王国(ランサンとは〈百万頭の象〉の意)といい,その領域はメコン川中流域から東北タイのコーラート高原までを占め,チエンマイなどを服属させた。16世紀半ばのセーターティラート王のとき,ビルマ(ミャンマー)の侵攻で首都をビエンチャンに移した。1637年に英傑スリニャウォンサー王が登位して富国強兵策をとった。41年にオランダ商人が交易のため渡来し,ラオスは初めて西欧世界に紹介された。18世紀初めに王位継承をめぐって内訌があり,ランサン王国はルアンプラバン,ビエンチャン,チャンパサックの3王国に分裂した。国土が山岳・高原地帯という往来の困難さから地域割拠性が助長され,3王国の対立・抗争が続いた。これら弱小の3王国は,強力な隣国ビルマ,シャム(タイ),ベトナムのかっこうの餌食となり,国土が蚕食された。18世紀後半シャムは3王国を属国とし,一部を併合した。19世紀に入るとベトナムのグエン(阮)朝が北部ラオスのシエンクアン地方を自国領に編入した。
19世紀後半になるとフランスは,ベトナム,カンボジアでの安定した植民地支配を継続するために,戦略的な位置を占めるラオスに触手を伸ばし始めた。グエン朝の北部ラオスへの宗主権を口実に,フランスは1886年フランス領事のラオス駐在をシャムに認めさせ,パビが副領事としてルアンプラバンへ赴任した。93年フランスはシャムに圧力をかけるため,シャムの都バンコクに軍艦を急派して武力で威嚇し,フランス・シャム条約を結んだ。この条約で,シャムはラオスに対するフランスの保護権を承認した。99年にフランスはラオスをフランス領インドシナに編入した。フランス植民地下では各民族が互いに敵愾(てきがい)心や憎悪をもつように仕向けられ,民族分断の統治が行われた。過酷な税金や賦役が住民に強制されると,自然発生的に反仏蜂起が起こった。南部のボロベン高原で1901年から36年まで続いたカー族の反乱や,19年から2年間続いたミヤオ族の蜂起などがそれであった。教育面では愚民政策が採られ,人材養成が欠落し,植民地経営に奉仕する経済体制がつくられた。
1945年4月に日本軍の後押しでルアンプラバン王シー・サワン・ウォンSi Savang Vongがラオスの独立を発表したが,日本の敗戦後すぐにフランスは降下部隊を使ってこの反仏の芽をつんだ。これに対して,日本の敗戦直後に結成されたラオ・イッサラ(〈自由ラオス〉の意)は,45年10月ビエンチャンにラオス臨時政府を樹立した。この政府はフランス軍に押されて46年4月にタイへ移り,亡命政府となったが,閣僚の中にはのちに活躍するプーマやスパヌウォンがいた。一方,フランス側についたシー・サワン・ウォン王のルアンプラバン王国は,46年8月にフランスと協定を結んだ。この協定は,ルアンプラバン王がラオスを代表することとし,ラオスに内政の自治を与えた。こうして成立したラオス王国は47年に憲法を制定し,49年7月フランス連合内での協同国として独立した。しかし協同国にはいろいろな制限がつけられ,完全な主権国家ではなかった。タイにあったラオ・イッサラ亡命政府はこの独立によって解散を発表したが,王国政府の懐柔に妥協しなかった左派はスパヌウォンを中心に50年8月,ネオ・ラオ・イッサラ(自由ラオス戦線。1956年にはラオス愛国戦線と改称。この戦闘部隊をパテト・ラオと呼ぶ)を結成し,臨時抗戦政府をサムヌア省に樹立した。54年ベトナムにおけるディエンビエンフーの勝利を可能にしたのは,パテト・ラオ勢力がラオス北部のポンサリ省とサムヌア省を解放区としていたことが大きかった。1953年10月に王国政府はフランスとの間で〈友好連合条約〉を結び,これによってラオスは完全独立を達成した。
54年のジュネーブ会議でまとめられたジュネーブ協定のなかのラオス条項は,休戦,外国軍の撤退,休戦監視委員会の設置,国内統一のための総選挙,パテト・ラオの北部2省への集結などを定めた。しかしアメリカは,東南アジア条約機構(SEATO)を発足させ,王国政府へ軍事援助を始めた。56年3月に成立したプーマ内閣は,ジュネーブ協定で定められた連合政府の樹立などについてパテト・ラオのスパヌウォンとの交渉を開始した。右派勢力の反発から国内は混乱し,政治空転があったが,57年11月に両勢力の合意による第1次連合政府が成立した。ジュネーブ協定後,実に3年5ヵ月の歳月がかかった。危機感を深めた右派は,58年8月にプイ・サナニコーン内閣を成立させ,親米政策とパテト・ラオ閣僚の逮捕,投獄などを強行したため,内戦が再び始まった。この内戦には東西両陣営の対立が影を落とし,東南アジア条約機構の圧力やベトナム統一問題がからみ,代理戦争的様相を呈した。60年8月にコン・レ大尉のクーデタが起こり,平和・厳正中立を掲げたプーマ内閣が成立した。これに対して同年12月,右派のノーサワン将軍の軍隊がコン・レ軍を破ってプーマ内閣を倒し,右派内閣を成立させた。コン・レ軍とプーマ中立派はジャール平原に逃れて本拠をかまえ,パテト・ラオ勢力は北部2省を拠点とした。
国内は混乱を重ねたが,61年から62年にかけての3派間の停戦調印,ジュネーブでのラオスに関する14ヵ国会議,ジャール平原会談を経て,62年6月第2次連合政府が誕生し,翌7月にはラオスの中立を定めたジュネーブ協定が国際的に承認された。しかし,3派の対立と不信は増幅するばかりで,第2次連合政府も63年4月わずか10ヵ月間で事実上崩壊した。64年には右派と中立派の統合,アメリカ軍の偵察飛行と解放区への爆撃開始,右派のクーデタ失敗,65年にはパテト・ラオと中立左派の政治協商会議,66年にはコン・レ将軍の失脚など,混乱が続くなかで,右傾化したプーマ政権とパテト・ラオ勢力とが国内を二分し,一進一退の攻防戦が展開された。ベトナム戦争の激化とカンボジアの内戦の拡大の中で,パリにおけるベトナム和平会談(1968年5月から)の進展とともに,ラオスでも72年10月から和平会談がビエンチャンで開始された。その結果,74年4月に第3次連合政府が難産のすえ誕生した。この和平協定の特色は,ビエンチャン,ルアンプラバン両市の中立化,両派による合同軍,警察の発足,両市周辺からの武装勢力の撤退,大使館内の偽装軍事要員の排除などであり,プーマ政府が形式上第2次連合政府を継承していることから,第3次連合政府は内閣改造の形をとったが,実質的には新政府とした点であった。この協定ではパテト・ラオの主張が大幅に取り入れられ,この新政府が1年8ヵ月後に新発足するラオス人民民主共和国への一里塚となるのであった。
パテト・ラオは75年には事実上全土を制圧する勢いであった。さらに同年4月のプノンペン,サイゴンの陥落は,奪権闘争中のパテト・ラオを勇気づけた。王国政府の高官や軍人などはメコン川を渡り,タイへ脱出した。同年12月,新生ラオス人民共和国が成立し,大統領にスパヌウォン,首相にカイソンが就任した。退位したワッタナ王とその関係者がしばらくして逮捕・拘禁され,国内外を震撼させた。人々の動揺は隠しきれなかった。この新体制を推進したのはラオス人民革命党であり,同党はインドシナ共産党のラオス委員会から作られた。新国旗には上下両端が赤(人民)地,中央が青(国土)地で,白い丸(清潔)が中心にある,愛国戦線が以前から愛用していた旗を採用した。新政府は治安の確保と社会主義経済建設を掲げ,援助物資を西側諸国に代わってソ連,東欧諸国,ベトナムに要請し,カイソン首相は援助取りつけの経済外交の日程をこなした。外交面ではベトナムとの結びつきを強めた。86年にスパヌウォン大統領は病気のためその職をウォンウィチト(代行)に譲った。92年からはヌハク・プームサバンが大統領を務めている。88年に地方議会の選挙を実施し,89年には最高人民評議会(国会)の選挙を解放後はじめて行った。86年の人民革命党第4回大会からラオス版ペレストロイカが始まった。この改革は〈チンタナカーン・マイ(新しい理念)〉もしくは〈ラボップ・マイ(新制度)〉と呼ばれ,国家の建て直しというスローガンが打ち出された。ソ連,東欧の政治変動と援助の大削減はラオスに大きな打撃を与えた。その結果,89年は日本,フランス,タイに援助を求めるという大転換の年になった。
1947年憲法によって立憲君主制となり,53年の完全独立後も同様の体制を継承してきたが,75年12月のワッタナ国王の退位宣言により王制に終止符を打ち,人民共和制へ移行した。行政制度では閣僚評議会の議長が首相にあたる。地方行政単位としては16省,1自治市(ビエンチャン),県,郡,村があり,ほかにサイソムブーン特別区がある。省以下それぞれに人民評議会が設置されている。かつて5万人ほどが駐留したベトナム軍は88年に完全撤退したという。
共和国成立後は憲法がなく,最高人民評議会が国会に代わる立法機関として機能していたが,89年の同評議会選挙で選ばれた議員によって91年に新憲法が制定された。94年には経済開放と市場経済に向けての法整備を進め,97年7月,東南アジア諸国連合(ASEAN)に正式加盟した。91年に就任したカムタイ首相は人民革命党の議長でもあり,党の組織強化,汚職摘発につとめ,対ベトナム関係の強化,タイとの実務関係の進展に成果をあげた。
ラオスは国土の大部分が山岳地帯で,平野はメコン川沿いに河谷平野が開けているにすぎない。これまで交通網の未発達と人口密度の希薄なことなどが経済の障害になってきた。第1の問題点は,30年間続いた内戦のために経済建設が遅滞したことである。第2の問題点は,1975年以前には国家予算の約50%を外国援助と中央銀行(ラオス国立銀行)からの借入れで補うという異常な経済体制下にあったことである。第3の問題点は,1975年以前は財政・経済を実質的に支えてきたのが西側諸国からの援助であったことである。75年以降はこうした援助をソ連,東欧諸国が代行してきたが,これも89年以降はほとんどなくなってしまった。第4の問題点としては,資本と技術の不足,農業開発の不徹底などがあり,これらが経済的自立をはばんでいる。
ラオス経済の基盤は農業で,国民の約80%が農民であるが,耕地面積は国土の約8%とわずかである。主要農産物は米で,生産高は1972年に50万t,82年に110万t,88年は干ばつの被害もあって100万tとみられ,89年は良好で140万t,92年は150万tであった。粗放的な農業であるために生産性がきわめて低い。米作地帯はビエンチャン,ルアンプラバン,チャンパサックなどであるが,中部と北部は毎年米不足でタイから輸入し,南部では余剰米が出ている。こうした国内の経済矛盾を克服しようとしても,輸送手段が不十分である。ほかの農作物では,換金作物としてトウモロコシ,ボロベン高原のコーヒー,タバコ,綿花,木材などが挙げられる。輸出品としてはスズ,木材,コーヒーなどがあるが,近年はビエンチャン北方のナムグム・ダムを主にした水力発電による電気のタイへの送電が重要な外貨獲得源になっている。95年の輸出は3億5000万ドル,輸入が5億3000万ドルであり,大幅な赤字が続いている。経済改革を推進するためにタイとの経済交流が活発になっている。89年からソ連,東欧の援助が大幅に削減され,これに代わる援助を求めて,日本,フランス,タイをカイソン首相が訪問した。さらに中国,アメリカとも経済外交を進め,成果をあげている。その中で電力生産が堅調に伸び,工業生産を引張っている。国営企業の民営化が進み,90年に約600あった国営企業が,93年には6社のみとなった。92年にASEAN加盟の意思表明を行い,97年に加盟を認められた。地域内協力も活発となり,94年にはメコン川をまたぐラオス・タイ友好橋が開通した。93年ごろからGDP(国内総生産)の成長率が高くなりつつあり,96年は7.5%であった。人民革命党の指導者は〈貧困と後進性がラオス社会に広がった二つの恒常的な害毒である〉と指摘したが,ラオス国民は地道な経済建設と教育の普及により,これらの害毒を克服しつつある。
執筆者:石沢 良昭
この国の古い歴史や文化は不明のため,古い時代の美術作品はタイやカンボジア(クメール)の美術との比較によって論じられる。タイ美術史上のドバーラバティ期(7~11世紀)様式を思わせる石仏や,クメール美術に属するロッブリー期(11~13世紀)様式の石彫が残っているが,それらがいつごろのものかは正確にはわかっていない。ただロッブリー期のクメール族の遺跡として,ワット・プーの石造の寺院建築が重要視される。これはラオス南部にあるが,かつてクメール族の支配があった頃のヒンドゥー教の遺構である。
この国の主要民族であるタイ系のラオ族が,自らの国を初めて形成したのは14世紀半ばのランサン王国で,首都は初めルアンプラバンにあり,16世紀中ごろにビエンチャンに移った。ラオスの美術はこの二つの都を中心に繁栄したが,その全体的な性格は,タイ美術からの影響を濃厚に受けていることである。タイ美術と同様に上座部仏教美術で,そのため仏像は釈尊像のみがつくられた。ルアンプラバンとそれより以北ではタイ北部のチエンセーン王国の美術様式(後期)から,またビエンチャンではタイ中部のアユタヤ朝の美術からそれぞれ多大の恩恵を受けた。建築はタイ建築と同様に仏教寺院が注目され,その全体的な仏堂の形はタイ建築とほぼ同じであるが,左右に大きく流れる急傾斜の二段屋根の線の美しさに魅力がある。その他,寺院の入口の扉や壁面に施された浮彫装飾にすばらしい作品がある。これらの建築や美術品はおもにルアンプラバンに見いだされる。またラオス独自の形をもった建築として,ビエンチャンにあるタート・ルアン寺院の仏塔が注目される。これは1566年の建立であるが,後世に何度も修復がなされている。
執筆者:伊東 照司
民族的にも音楽的にも隣接するタイと密接な関係をもつ。タイでは,カンボジアをはじめとする外来の音楽文化を巧みに摂取し,自国のものとしてきたのに対し,ラオスは,地理的にも,周辺の国々に比べ閉鎖的であり,タイのような華やかさをもっていない。タイ国境に近いビエンチャンの音楽は,タイとの交流を反映し,タイ風に洗練されたものであるのに対し,北のルアンプラバンの音楽は保守的で,古い形を残している。また,山岳地帯に住む少数民族(ラオ・トゥン,ラオ・スンなど)も,それぞれ独自のものをもっている。
音楽は芸能や踊り,宗教儀式と結びついて行われることが多く,通過儀礼,年間行事など,民衆の生活に欠かせない。器楽合奏としては,古典芸能や儀式に用いられる,大楽団のセープ・ニャイsep gnai(タイのピー・パート編成に相当)と,代表的な民俗楽器ケーン(14管の笙)を含む小楽団のセープ・ノーイsep noi(タイにならってマホーリーとも呼ばれる)がある。一般に器楽よりも声楽の方が好まれており,セープ・ノーイ(とくにケーン)は日常的な歌や踊りの伴奏に用いられる,よりポピュラーな合奏である。声楽には,長い叙事詩を即興を交えて朗唱するものと,言葉の意味に重きを置き,音調を生かしたリズミカルなものとがある。近年は,フランス支配の影響もあり,アコーディオンやバイオリンなどの西洋楽器もセープ・ノーイに含まれることがある。
執筆者:桜井 笙子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
インドシナ半島中・北部の内陸国。人口の約半数を占めるラオ人をはじめ,数十の民族が居住する多民族国家。ラオ人による国家建設の歴史は14世紀のランサン王国に始まる。18世紀に3分裂したランサン王国の後継王朝はシャムの支配を受けたが,1893年のシャム‐フランス条約によりメコン川以東がフランス領ラオスとなり,99年にフランス領インドシナ連邦を構成する一国とされた。ラオスという領域の呼称はフランス領植民地支配に由来する。1953年,唯一残った王朝ルアンパバーンが代表するラオス王国がフランスからの独立を果たした。57年に親仏王国政府に反対したパテト・ラオ勢力を含む連合政府が成立したが長続きせず,米ソの介入を招いた。62年の三派連合政府も瓦解し,内戦が長期化。ベトナム戦争の激化に伴いパテト・ラオと北ベトナムの関係が緊密となり,75年のベトナム解放後攻勢に出たラオス人民革命党により,同年12月に王制が廃止され,ラオス人民民主共和国が成立した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
インドシナ半島メコン川中流域の内陸国。漢字表記は老檛。ほとんどが高原・山岳地域で,14世紀頃から仏教王国を形成,ビルマ,タイ,ベトナムに従属したこともあった。1886年フランス領インドシナに編入された。1940年(昭和15)日本軍が北部仏印に進駐し,45年3月名目的な独立を認められたが,日本の敗戦によりフランスが復帰し独立を否定。54年にはフランスも王国の独立を認めたが,王制支持の右派とラオス愛国戦線(パテト・ラオ)の左派が対立。75年にラオス愛国戦線が全土を掌握して共和国が成立してからも混乱が続いた。この間日本は,ラオスが対日賠償請求権を57年に放棄したのに対応して技術協力,10億円相当の無償援助を提供し,各種建設工事を行い,内戦中も経済援助を拡大した。正式国名はラオス人民民主共和国。首都ビエンチャン。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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