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カンボジア Cambodia

翻訳|Cambodia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

カンボジア
Cambodia

正式名称 カンボジア王国 Preahreacheanachakr Kampuchea。カンボジア語ではカンプチア Kampuchea。
面積 18万1035km2
人口 1520万6000(2013推計)。
首都 プノンペン

インドシナ半島南部にある国(→東南アジア)。東はベトナム,北はラオス,北から西にかけてはタイと国境を接し,南はタイ湾に面する。南を除く三方をアンナン山脈ダンレク山脈クラバン山脈などの低い山脈に囲まれて広がる中央平野が国土の約 4分の3を占め,その東部寄りを北から南へメコン川が貫流する。西部にはトンレサップ川によってメコン川と結ばれたトンレサップ湖が横たわり,メコン川の洪水を制御する天然の調節池の役割を果たしている。プノンペンはメコン川の河港都市で,トンレサップ川が合流し,バサック川が分流する地点に位置する。気候は典型的な熱帯季節風気候で,タイ湾の湿気を含んだ南西季節風が吹く 5~10月が雨季,北東からの比較的弱い風が吹く 11月~4月が乾季となっている。年降水量は南西風を直接受ける南西部の山地斜面では 4000mm以上であるが,中央平野では 1000~1500mmと地域差が大きい。住民の 80~90%がクメール族(カンボジア人)で,おもに米作を中心とした農業を営む。ほかに山地クメール,チャムなどの少数民族や,中国人,ベトナム人などが住む。公用語はカンボジア語
1953年にフランスから完全に独立したのち,サンクム(人民社会主義共同体)を基盤に実権を握ったシアヌークが 1970年3月に追放され,同年 10月王制廃止とともにクメール共和国が発足した。その後外国勢力の支援を背景に内戦が続いた。1976年民主カンプチア(1990カンボジアと改称)が樹立され,ポル・ポト政権下に独自の社会主義建設が進められた。1979年ベトナムの支援を受けたカンプチア救国民族統一戦線が首都に進攻,カンプチア人民共和国(1989.4.カンボジア国と改称)の樹立を宣言,内戦が再開された。1980年にかけて多数の住民が難民となって国境を越えてタイ領へ流出し,国際的に注目を浴びた。1991年10月パリで和平協定が調印され,内戦は終結。1992年に国連カンボジア暫定統治機構 UNTACが設立・発足し,停戦監視,選挙実施などを行なった。1993年5月には総選挙が実施され暫定政府が発足,同年 9月に新憲法が制定され,カンボジア王国が成立してシアヌークが初代国王に即位した。しかし,その後も赤いクメールのゲリラ戦,カンボジア政府内の対立などがあり,政情は不安定だった。1997年7月,ラナリット第1首相とフン・セン第2首相の対立が激化し武力衝突へと発展,ラナリットは事実上国外追放され,フン・センが全権を手中に収めた。1998年7月の総選挙でフン・セン率いるカンボジア人民党が勝利,11月よりフン・センが単独の首相に就任した。国民経済は内戦により大きく破壊されたが,もともとメコン川がもたらす肥沃な土壌に恵まれた農業国で,イネを中心に,トウモロコシ,ワタ,タバコ,ゴム,コショウなどが栽培され,しだいに経済は好転した。メコン川,トンレサップ湖では漁業が盛んで,魚類が国民の主要な蛋白質源となっている。工業は農産物加工が中心で,軽工業の域を出ないが,内戦中に多くの工場が破壊,閉鎖され,工業生産は激減した。主要交通路はプノンペンを中心とした鉄道,道路で,鉄道はプノンペンから西へ,バッタンバンを経てタイ国境のポイペトへいたる線と,南へ延びて主要港コンポンソムへいたる線がある。1999年東南アジア諸国連合加盟。(→カンボジア史

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百科事典マイペディアの解説

カンボジア

◎正式名称−カンボジア王国Preah Reach Ana Pak Kampuchea/Kingdom of Cambodia。◎面積−18万1035km2
→関連項目東南アジア

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世界大百科事典 第2版の解説

カンボジア【Cambodia】

正称=カンボジア王国Kingdom of Cambodia 面積=18万1035km2人口(1996)=1027万人首都=プノンペンPhnom Penh(日本との時差=-2時間)主要言語=クメール語(カンボジア語)通貨=リエルRielインドシナ半島の南西隅に位置し,北海道の2倍強の面積をもつ国。カンボジアといえば,王国,敬虔な仏教徒,アンコール・ワットなどで知られていたが,1970年3月のシアヌーク元首の解任により,インドシナ戦争に大きく巻き込まれ,混乱と戦争が続き,鎖国,難民,首都プノンペンの無人化,虐殺という不可解な変事が続発した。

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大辞林 第三版の解説

カンボジア【Cambodia】

インドシナ半島南部、タイランド湾に面する立憲君主国。1863年フランス保護領になったが1953年独立。70年クーデターで王制から共和制に、76年民主カンボジア政府を樹立。その後内戦が続き、79年ベトナムに支援されたヘンサムリン派が国土の大部分を支配してカンボジア人民共和国を樹立。民主カンボジア(日本が承認)側はタイ国境の山地に逃れて二つの政府が並立していたが、91年国連による和平協定が締結されて内戦が終結、93年シアヌークを擁して現国名に改称。古くインド文化の影響を受けたクメール族の国で、メコン川の中流域とトンレサップ湖岸で米作が盛ん。アンコール-ワットやアンコール-トムなどの遺跡がある。住民は小乗仏教を奉ずる。首都プノンペン。面積18万1千平方キロメートル。人口1410万( 2005)。カンプチア。正称、カンボジア王国。 〔「柬埔寨」 「柬蒲塞」とも当てた〕

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

カンボジア
かんぼじあ
Cambodia

インドシナ半島の南東部に位置する国。東はベトナム、北はラオス、北西部はタイに接し、南はタイランド湾に臨む。面積は18万1035平方キロメートル(北海道の2倍強)、人口は1338万8910(2008センサス速報値)。正称はカンボジア王国。カンボジア語(クメール語)ではReacheanachak Kampucher、フランス語ではRoyaume du Cambodge、英語ではKingdom of Cambodia。政治体制は立憲君主制。首都はプノンペン。[丸山静雄]

自然・風土

国土はメコン川下流域の沖積平野に開け、三方(北東部、北部、南部)を山系で囲まれる。沖積平野といっても一様ではなく、南東部はメコン川下流域の、より低い湿潤地帯となり、北西部はやや土地が高く降雨の少ない、乾燥した丘陵地帯となる。したがって南東部は水の氾濫(はんらん)に、北西部はしばしば無雨・干魃(かんばつ)に悩む。中央部の平地には点々と丘や小山のような高所がある。これをプノンという。小山という意味である。100メートルを超える高さのものもあるが、だいたいにおいて数十メートルの高さである。メコン川はしばしば氾濫する。氾濫となると、平地はたちまち水浸しとなる。そのとき避難場所を提供してくれるのがプノンである。そこには草と木があって家畜を飼うことができたし、また燃料用の薪炭も得られる。平地に住む人たちにとってかけがえのない大事な場所であった。もともと丘の上や山頂は、天が大地と接触し天地が融合する所で、神々が降臨する神聖な場所とされ、人々はそこに宮殿、寺院を建てた。
 カンボジアは平地を取り囲む形で周囲に山系、台地が連なる。北東部はベトナムのダルラク高原、コントゥム高原、ラオスのボロベン高原に接して標高は高く、森林も濃密である。台地には玄武岩の風化したテル・ルージュ(紅土)地帯がある。ベトナム国境沿いのモンドルキリ、ラタナキリ高原はベトナム戦争期、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線軍によって「聖域」とされ、解放戦線軍はここから出撃してサイゴン政府軍、アメリカ軍を攻撃した。北部はダンレック(ドンレク)山脈が東西に走ってタイとの国境をなしている。標高200~550メートル、延長300キロメートルの長い山系である。山系は砂岩からなり、そこで切り出された石をゾウがひいてアンコールに運び、それによってアンコール・ワットは建造された。山系の東部国境地帯の山頂にはプレア・ビヒアPreah Vihearが建っている。小さなヒンドゥー寺院だが、1950年代後半、その帰属をめぐってタイ、カンボジア間で激しく争われ、のちハーグの国際司法裁判所でカンボジア帰属が決定された。南部はカルダモウム山系、エレファント山系で、カルダモウム山系のオーラル山(1813メートル)はカンボジアの最高峰である。エレファント山系のキリロム高原は鬱蒼(うっそう)たる密林に覆われているが、1950年代のシアヌーク政権時代、日本人50万人を入植させる計画が出て話題になった。カルダモウム山系には一時、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)の基地が置かれていた。クメール・ルージュは国境地区の山系、高原に拠(よ)って、平野部の政府軍陣地をゲリラ攻撃する戦術をとっていた。
 カンボジアはメコン川がつくりだした国ともいえるほどに、メコン川の影響を強く受ける。メコン川は国土の東部をほぼ南北に縦断する。メコン川の水位は4月最低になり、5月、6月と上がり、9月、10月には8~10メートルにも達する。この大河は増水期(雨期)には水量が膨れ上がり、流路だけでは水を吸収しきれない。しかし水をそのまま海に吐き出せば減水期(乾期)に渇水に悩まなければならない。そこで増水期にはメコン川の水は逆流して低地の平野部に入り込み、そこにいすわって大湖を形成し、減水期に徐々に水を吐き出す。それによってメコンの流水は自然に調整される。それがトンレ・サップ湖(大湖という意味)である。トンレ・サップ湖は自然の大貯水池で、表面積は乾期には3000平方キロメートル、雨期には1万平方キロメートルとなる。雨期と乾期の水を調整する流路はトンレ・サップ川とよばれる。トンレ・サップ湖は雨期になるとあふれて周囲の森林を呑(の)み込む。そのためプランクトンが大量に発生して魚類が繁殖し、好個の漁場となる。メコン川はカンボジア、ラオスの国境のあたりではコーンの滝によって舟艇の航行を妨げられるが、それから下流は舟運もよく、クラチェから海口まではかなりの大型船も年間を通じて航行が可能である。チベット、中国、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、タイの水を集めるメコン川は、下流のカンボジア領内ではトンレ・サップ湖によっていちおうコントロールされるが、その勢いは一本の流れにおさまらず、ベトナム領内では九つの流路に分かれて(九竜(クーロン)川という)ようやく怒りが静まったかのように、穏やかに南シナ海に消えてゆく。
 気候は熱帯モンスーン型で、乾期と雨期に分かれる。乾期は11月から4月まで、北東モンスーンが吹き、雨期は5月から10月まで、南西モンスーンが吹く。雨量は地域によってかなりの差があり、タイランド湾沿いの海岸地帯とカルダモウム山系一帯では年間4000ミリメートルに上り、内陸平野部では1500ミリメートル前後である。気温は年間を通じて高く、もっとも高い4月ともっとも低い12月との月平均較差は5℃前後にすぎない。プノンペンでは4月に40℃を超え、平野部における年平均気温は27~28℃。国土の53%は森林が占める。樹種は豊富で、南部の海岸地方ではマングローブが密生する。内戦が終了した1990年代以降は国土開発が進んで森林面積が減少し、資源保全が課題となっている。[丸山静雄]

歴史・民族

カンボジアには新石器時代に人が住みついたようで、そのことはサムロンセン、ムルプレイなどの貝塚から出土した遺物によって示されている。その後、メナム川からメコン川にかけての流域にはインドネシア系の種族が定着し、ついでインド系の種族が入りこみ、混血してクメール人となった。現在のカンボジア人の祖先である。
 クメール人はインド文化を吸収して成長し、勢力を延ばし、1世紀ごろバプノム(現、プレイベン)に扶南(ふなん)王国を建設した。その支配地域は現在のカンボジア南部からコーチシナにわたり、オケオを外港とした。インドとの人の往来、交易、文化交流は紀元前、しかもかなり古くからあり、古代、インド文化(バラモン教、大乗仏教、葬祭儀礼、行政・法制組織、美術・工芸、農耕・水利技術)を受け入れ、インド文化によって栄えた王国にはチャンパ王国、ドバーラバティー王国、シュリクシェトラ王国、パガン王国などがあったが、そのうち最初のインド化された王国が扶南(1~6世紀)であった。
 扶南は5世紀末には周辺地域を勢力下に置く強大な王国となったが、まもなくラオス南部のチャンパサックに派遣した封侯が同地に真臘(しんろう)王国(6~8世紀)を樹立し、扶南はこれにとってかわられた。のちに真臘王国は分裂し、これを再統一してアンコール王国(9~15世紀)が建設された。歴代王のうち初代のジャヤバルマン2世(在位802~850年。1世は真臘王で、在位は657年ごろ~687年)、スールヤバルマン2世(1113~1150年ごろ)、ジャヤバルマン7世(1181~1218年ごろ)の時代に国はもっとも繁栄し、その版図(はんと)は東はベトナム中南部、北はラオス中部、西はメナム川の下流域、南はマレー半島の北部にわたった。王国は海上交易を盛んに行い、水利事業を起こし、都市や寺院を建設し、インド文化の花を燦然(さんぜん)と咲かせた。その代表的な遺跡がアンコール・ワット、アンコール・トム、バンテアイ・スレイなどである。
 しかし王国は壮大な都市・堂塔の建築、大規模な水利事業、悪疫(あくえき)の流行によって疲れ、自らの活力を徐々に失っていった。そこに北からタイ系諸民族やビルマ人がメコン、メナム、サルウィン、イラワジ川沿いに南下し、13世紀から15世紀にかけて各地に王国が建設された。中部ビルマにアバ王国、北部タイにランナータイ王国、中部タイにスコータイ王国、南部タイにアユタヤ王国、トンブリー王国、バンコク王国などである。これはアンコール王国にとって重大な脅威だった。元(モンゴル)も侵入してきた(元冦(げんこう))。元は朝鮮、日本、ジャワ、ビルマ、ベトナム、チャンパを侵攻したが、カンボジアには1283年襲来した。各国は厳しい戦いを強いられた。かくてインド化された王国は次々に崩壊し、1431年アンコール王国も王都アンコールを放棄してプノンペンに遷都した。
 その後、王位継承をめぐる内紛が続き、シャム(アユタヤ王朝)、ベトナム(阮(げん)朝=グエン朝)の侵入も繰り返され、カンボジアはシャム、ベトナム両国の激しい角逐の場とされた。カンボジアはフランスに救いを求め、フランスの保護国になることによって安全保障を得ようとし、1863年フランスとの間に保護条約が締結された。フランスはそれに乗じて発言力を強め、1887年カンボジアを「フランス領インドシナ連邦」に編入した。フランスによるカンボジアの植民地化である。フランスは王制を認め、その存続を許したが、それは形のうえだけのもので、実際にはフランス人の理事長官をトップに、各地にフランス人の理事官を配置して徹底的なフランス化を試みた。
 第二次世界大戦期、当初はベトナム、ラオスとともにカンボジアでも日仏共同防衛(1941年7月、「仏領印度支那の共同防衛に関する日仏間議定書」調印)の建前のもとにフランスの主権が認められたが、1945年3月日本はフランス軍を武装解除し、カンボジアをベトナム、ラオスとともに日本の単独支配下に置き、名目的な独立を与えた(3月11日アンナン、3月13日カンボジア、4月8日ルアンプラバン)。このとき、国王はノロドム・シアヌークであったが、シアヌークはそのまま国王として残り、首相には日本に亡命していたソン・ゴク・タンが任命された。
 しかし日本の降伏によって独立政権は泡のように消えた。そのあとには共産主義者、共和制主義者、王党派によるさまざまの独立運動があったが、シアヌークが指導権をもち、王制は存続した。シアヌークは1947年5月、憲法を制定してカンボジアが立憲君主国であることを宣言したあと、フランスとねばり強く独立交渉を行い、1949年11月フランス連合内での独立を、1953年8月には司法権と警察権をかちとり、同年10月には軍事権を獲得して完全独立を達成した。
 主要民族はクメール人で、総人口の90%を占める。少数民族としてはチャム人(チャンパ王国が滅びたあと、カンボジアに住みついたもので、トンレ・サップ湖畔で漁業に従事するものが多い)、ラデ人、ジャライ人、スティエン人、クイ人、ピア人などがあり、ほかにベトナム人(越僑(えっきょう))、中国人(華僑)も多い。中国人はフランス植民地時代からカンボジアに根を張り、商業、流通部門に独占的な地位をもっていた。[丸山静雄]

政治・政権の推移

独立以来、政情はめまぐるしく変転し、政権の交代が相次いだ。[丸山静雄]
第1期 シアヌーク王制時代(1953年10月~1970年3月)

 カンボジアは1953年10月完全独立を得たが、翌1954年7月ジュネーブ協定(インドシナ休戦協定)の調印によって独立国としての地位を国際的に認められることになり、シアヌーク体制が整えられた。シアヌークは翼賛政党サンクム(人民社会主義共同体)を組織して王制護持、仏教信仰、中立外交を柱に、国内の統一、平和の回復、経済・社会開発の推進を図った。しかし財政は悪化し、サンクムは左右両派に割れ、反政府陰謀や反乱が相次いだ。シアヌークは中立外交によってカンボジアがベトナム戦争に巻き込まれるのを防ごうとしたが、右派は容共政策だとして非難し、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線はそれに乗じて東部国境地帯に入り込み、そこにいすわり、聖域化してベトナム戦争を戦った。戦争が拡大すると、危機意識が高まり、右派が台頭した。シアヌーク政権は追いつめられていった。[丸山静雄]
第2期 ロン・ノル共和制時代(1970年3月~1975年4月)

 シアヌークは1970年1月、療養のためフランスに赴いた。その留守中の3月18日、国民議会と王国会議との合同会議は、主席解任を決議した。ロン・ノル派のクーデターだった。新国家主席(臨時代理)にはチェン・ヘン(1970年3月21日主席就任)、首相にはロン・ノルが就任した。1970年10月9日、王制は廃止されて共和制が宣言された。親米政権「クメール共和国」の登場である。その後、ロン・ノルは、1972年3月10日にチェン・ヘンにかわって国家主席、3月13日には大統領となった。
 これに対し、外遊先のフランスからソ連を経て北京(ペキン)に滞在していたシアヌークは、ただちに北京で新政権を樹立した。新政権はカンボジア民族統一戦線(FUNK)、カンボジア王国民族連合政府(GRUNC)、民族解放軍(司令官はキュー・サムファン)からなり、ロン・ノル政権の打倒を呼びかけた。これを受けて国内ではロン・ノル軍との戦いが開始された。戦いの中心勢力はクメール・ルージュであった。クメール・ルージュはカンボジアの共産党で、シアヌーク王制時代から反政府活動を行っていたが、ここで一転、シアヌークの呼びかけに応じたのである。クメール・ルージュは中国、北朝鮮からの援助による兵器、装備を身につけて戦いを有利に進めた。アメリカ軍、南ベトナム政府軍は、1970年5月カンボジアに侵攻した。北ベトナム軍、南ベトナム解放戦線兵力を東部地域から追い出し、ロン・ノル政権にてこ入れしようとしたのである。しかし戦争は拡大、軍事情勢はロン・ノル政権側に不利となった。やがてクメール・ルージュは勢力を広げ、国土の大半を支配するに至る。大きな転機がきた。1973年1月ベトナム和平協定が成立し、アメリカは同年8月カンボジアでの戦闘行動を停止した。1975年4月ロン・ノル政権は倒れ、クメール・ルージュはプノンペンを解放した。[丸山静雄]
第3期 ポル・ポト共産党独裁時代(1975年4月~1979年1月)

 全土を制圧したクメール・ルージュは、1976年4月プノンペンにカンボジア人民代表大会を開いて新国家の樹立を宣言した。新国家は「民主カンボジア」とされ、元首にはキュー・サムファン、首相にはポル・ポトが選出された。政府は私有財産制の廃止、生産手段の集団所有化、通貨の廃止、流通商品経済の否定、農業労働への国民総動員を新政策として掲げた。これは農業を主体とする原始共産主義ともいうべき特異な思想に基づく国家の建設を構想するもので、徹底した平等主義、人間・社会の改造、旧秩序の否定(古い価値観の放棄)が主張された。ポル・ポトは「われわれの新しい社会にはモデルがない。これはモデルなき新しい社会だ」といった。新しい国づくりに従わないものはほとんどすべて排除された。ヘン・サムリン政権が1979年8月、プノンペンに開設した「カンボジア人民革命法廷」によると、ポル・ポト政権下に殺害された者の総数は300万人、生存者のうち肉体的、精神的に深刻な傷手を被った者は400万人以上に達したという。
 文化大革命を展開中の中国は、文革の海外版として「ポル・ポト革命」を支持した。ベトナムは同政権に強い不信感をもった。カンボジア・ベトナム関係は悪化、両国の国境紛争は激化し、1978年12月23日ポル・ポト軍はベトナムに対して総攻撃の挙に出た。12月25日ベトナム軍は反撃に出てポル・ポト軍を撃退、ポル・ポト政権は1979年1月崩壊、ポル・ポト軍はカルダモウム山系に落ちのびた。[丸山静雄]
第4期 ヘン・サムリン政権時代・国際政治戦の時代(1979年1月~1993年10月)

 ベトナム軍によってクメール・ルージュが駆逐されるや、1979年1月プノンペンにはベトナムの強力なバックアップを受けてカンボジア人民共和国が樹立された。親ベトナム政権の登場である。首相にはポル・ポト軍東部方面部隊の大隊長で、のちにクメール・ルージュから離脱したヘン・サムリンが選任された。ヘン・サムリン政権はベトナムの全面的支援の下、治安の回復、社会の安定、戦災復興にあたった。1981年6月国会が開かれ、新憲法を採択、国家評議会議長にヘン・サムリン、首相にペン・ソバンが選出された。1985年10月にヘン・サムリンは再選、首相にはフン・センが選ばれた。支配地域は漸次広がり、ほぼ全土に及び、ヘン・サムリン体制は確立された。与党はカンボジア人民革命党で、書記長ヘン・サムリン、のちカンボジア人民党(CPP)と改称し、党首はチア・シムとなった。これに対しクメール・ルージュはカルダモウム山系からタイ・カンボジア国境地帯に移動し、そこに拠点を設け、ゲリラ抗戦を続けた。
 「民主カンボジア」は三つのグループからなっていた。一つはクメール・ルージュ(民族統一民主愛国戦線。議長キュー・サムファン、副議長ソン・セン)、もう一つはソン・サン派(カンボジア人民民族解放戦線=FNLPK。議長ソン・サン)、第三はシアヌーク派(独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線=FUNCINPEC(フンシンペック)。党首はシアヌークの息子ノロドム・ラナリット)である。1982年7月、3派は連合政府をつくることで合意、民主カンボジア連合政府(GCKD)が樹立された。大統領はシアヌーク、副大統領キュー・サムファン、首相ソン・サンである。
 ヘン・サムリン派と、クメール・ルージュとの対決はベトナムと中国、タイとベトナムとの対決でもあったが、やがてヘン・サムリン政権側にはソ連、東欧諸国が、クメール・ルージュ側には中国、タイをはじめとするASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)諸国やアメリカ、日本が同調し、国際政治戦の趣きを呈するようになった。国連の代表権は終始、「民主カンボジア」側に与えられた。[丸山静雄]
総選挙実施・その後(1993年5月~)

 内戦終結のための和平交渉、和平会談は、1987年7月からパリ、ジャカルタ、バンコク、プノンペン、東京、ニューヨークなどで、さまざまな形で行われた。1990年9月、国連安全保障理事会の提案する包括的和平案に当事者、関係者が合意し、1991年10月、「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ和平協定)としてパリで調印された。同協定の合意内容は、
(1)国家の最高機関としてカンボジア最高国民評議会(SNC)を設置する
(2)国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC(アンタック))を設立する
(3)UNTACの監視下に停戦を実施し、制憲議会選挙を行う
(4)制憲議会は国家元首の選出、国民政府の樹立、憲法の制定にあたる
というものであった。カンボジアに駐留していたベトナム軍は1989年9月カンボジアからの撤退を終え、SNCは1990年9月暫定的に設置され、1991年7月同議長にシアヌークが選出された。これによって国連安保理からUNTACの要員として2万2000人(代表は国連事務次長明石康(あかしやすし))が派遣された。同機構は1992年3月発足、1993年5月総選挙が実施された。クメール・ルージュは総選挙をボイコットしたが、国民の90%が参加し、その意思を自由に表明した。総選挙ではFUNCINPEC(党首ラナリット)が第一党、CPP(代表フン・セン)が第二党になった。1993年6月制憲議会が開かれ、シアヌークが正式に国家元首に選出され、7月複数首相制(第一首相ラナリット、第二首相フン・セン)により初の統一政府が樹立された。ここにヘン・サムリン政権の時代は終わった。カンボジア国民は初めて自らの手で国民の代表者を選び、一つの政府をもったのである。総選挙後の新政権には三つの課題があった。一つは内戦や独裁体制によって増殖された不信、敵対、憎悪の感情の相互関係を修復して、国民を和解と安定の方向に推し進めること。これにはジェノサイド(大量虐殺)に対する問罪が伴う。もう一つは1000万個ともいわれる地雷を撤去し、国民総難民ともいうべき不安定な生活環境を改善し、荒廃した施設を復旧、経済を再建することである。第三はASEANをはじめ国際機関に復帰し、国際社会の一員としての地位を確立することであった。1993年9月新憲法が公布され立憲君主制のカンボジア王国となり、シアヌークがふたたび国王に即位した。なお、国王は国家の象徴的存在であり統治権はもたない。
 こうして国家の再建は進められたが、ラナリット第一首相派とフン・セン第二首相派の対立は激化し、フン・センは1997年7月5、6日、国軍を動員してラナリット派の警備隊とラナリット支持勢力を一掃した。ASEANは、これをクーデターによる権力奪取だとして、7月10日の緊急外相会議でカンボジアのASEAN加盟を見送ることを決定した。カンボジア国会は8月6日、ラナリットにかわってウン・フォトを第一首相に選出した。フン・センは警察、軍、地方行政を掌握して優位に立った。
 1998年7月、カンボジア王国初の総選挙が実施され、国会122議席のうち64議席をCPP、43議席をFUNCINPEC、15議席をサム・レンシー党(SRP。FUNCINPECからの分派「クメール国民党」から改称)が獲得した。フン・センのCPPは第一党にはなったものの、憲法上組閣に要する議席数(3分の2)に達しなかったため、不足分の18議席を他党との連立で獲得しようとした。これに対し、FUNCINPECとSRPは選挙の無効を訴え、フン・セン派との対決色を強めた。しかし、国際社会の大勢は選挙を容認したため、同年11月シアヌークの調停により、CPPのフン・センを首相、FUNCINPECのラナリットを国会議長とする連立政府が発足した。1999年3月カンボジアに上院(定数61)が発足したことにより、ASEANはカンボジアが政変からの正常化を完結したとみた。これを受け同年4月、カンボジアのASEAN正式加盟が実現した。
 2003年7月の総選挙ではCPPが73議席を獲得し第一党になったが、組閣をめぐる交渉が長引き、ようやく2004年7月に首相をフン・センとする連立内閣が発足した。同年10月シアヌークは退位、息子のシハモニが新国王となった。2008年7月の総選挙では与党のCPPが90議席を獲得し、副党首のフン・センが引き続き首相となっている。
 一方、クメール・ルージュは分裂し、脱落者が相次ぎ衰退。ポル・ポトも拘束され、1998年4月に死亡した。さらに1999年3月、唯一抵抗を続けてきたタ・モク参謀総長が政府側に逮捕されたことによって、クメール・ルージュは完全に壊滅した。タ・モクは2006年7月に死亡した。同年クメール・ルージュによる自国民の大量虐殺の罪を裁くための特別法廷が国連の支援を受けて設置され、2009年2月より公判を開始している。
 カンボジアは長い内戦の疲れから国土は荒廃し、権力の腐敗にも苦しんだ。輝く歴史をもつ偉大な民族であるだけに、内戦による混迷はより悲劇的であった。[丸山静雄]

国会・軍事

国会は二院制で上院は61議席で任期は6年、下院の国民議会は123議席で任期は5年。2006年の憲法改正により組閣に要する下院の議席数は3分の2から過半数に変更となり、過半数の支持を得られた政党に属する下院議員の高位の者が首相に任命され組閣する。
 軍隊は総兵員数推定12万4300で、陸軍7万5000、海軍2800、空軍1500、州地方部隊4万5000とされている。

産業・経済

カンボジアの産業の中心は農業で、就業人口に占める農業従事者(漁業、林業含む)の割合は68.2%(2005)を占める。おもな農産物は米で、全耕地の約90%を米田が占める。しかし、無肥料で粗放的農業を行ってきたため、天候に左右されやすいという欠点があったうえ、1970年代の内戦によって農業生産は大きく減少し、食糧不足となった。また、1994年の米の生産量は180万トンで、東南アジアのなかでもラオスと並んで低い数値を示していた。しかし1995年になって徐々に収量が回復、輸出を再開した。2002年には409万9000トン、2007年には599万5000トンにまで回復している。漁業はトンレ・サップ湖が中心で、1995年には総漁獲量11万2510トン、2006年には48万3000トンを水揚げしている。工業は、ポル・ポト政権が農業による極端な原始共産主義政策をとったため、まったく放棄されたが、縫製業を中心に回復を始めた。
 長年にわたる内戦は、経済を逼迫(ひっぱく)させた。貿易は、縫製品、米、ゴム、トウモロコシなどをアメリカやアジア諸国に輸出、各種工業製品をアジア諸国から輸入する形であるが、2000年の輸出総額は10億5000万ドル、輸入総額14億3000万ドルと、恒常的な輸入超過であった。1997年度予算の40%は国際通貨基金(IMF)、世界銀行などの国際機関からの援助と借入れによるものであった。2000年以降経済は成長を続け、2004年から2007年までは10%を超える成長率をみせている。2007年の国内総生産(GDP)は86億1900万ドル、1人当り国内総生産は594ドルで、経済成長率は10.1%。貿易額は輸出額42億3600万ドル、輸入額56億0900万ドルと、2000年に比べて輸出、輸入ともおよそ4倍の規模に達している。おもな輸出品目は縫製品、生地(きじ)(布)、天然ゴム・ゴム製品など、輸入品目は縫製品の原料となる生地類、ガソリン、軽油、重油などの石油製品、家電製品、車両部品などである。おもな輸出相手国はアメリカ(53.3%)、香港(13.1%)、ドイツ(5.2%)、イギリス(4.2%)など、輸入相手国は香港(19.3%)、中国(17.7%)、タイ(14.4%)、台湾(10.8%)などとなっている。
 道路は総延長約3万3700キロメートル、うち8割弱が未舗装である。鉄道はプノンペンからシソフォンおよびコンポン・ソム(シアヌークビル)が結ばれており、総延長は603キロメートルである。海港はコンポン・ソム1港。水運は3000~4000トン級の船で、メコン川を溯(さかのぼ)りプノンペンまで行くことができる。プノンペンとシェムリアップに国際空港があり、ホー・チ・ミン、バンコク、シンガポールなどに定期便がある。[丸山静雄]

社会・文化

カンボジアは農業社会で、厚い仏教信仰と長老支配に支えられる素朴な共同体構造をもっていた。この社会はカンボジアが歩んできた歴史の生き証人であった。かつてカンボジアはインドシナ半島の南半分とマレー半島北部を支配する偉大な国家であった。絢爛(けんらん)たるアンコール文化の花も咲かせた。その英知はここから生まれ、その民族的エネルギーはここから噴出した。この社会は王制も、共和制も、共産主義の独裁体制もみてきた。タイ、ベトナムなど地域諸国の侵略、元(モンゴル)、フランス、日本、アメリカなど異民族の支配もあますところなく体験した。戦火の及ぶのを避けようと必死に中立外交を唱えたが、それが無残に踏みにじられる小国の悲哀をつぶさに味わった。ネロ、ヒトラーの暴政に例えられるポル・ポト政権のジェノサイドも知った。これほど無知と知が織りなす人間ドラマの諸相をみてきた社会はほかにあるまい。まさに歴史の縮図である。しかし、いまみるカンボジアの社会は粗放農業に生きる、荒れて、貧しい世界である。
 それだけにアンコール文明の偉大さが人の心を打つ。その遺跡群はアンコール・ワット、アンコール・トム、バンテアイ・スレイによって代表される。アンコールは都市、ワットは寺を意味し、アンコール・ワットは寺院のある都域ということになる。典型的なヒンドゥー教寺院で、東南アジアではもっとも大きい。主としてスールヤバルマン2世によって建設され、完成には70年を要したという。アンコール・トムのトムは大きいという意味、アンコール・トムは大いなる都域ということになる。ジャヤバルマン7世によって建設された。7世は熱心な仏教徒で、アンコール・トムの中心をなすバイヨンの寺は仏教寺院である。バンテアイ・スレイは女の砦(とりで)という意味。676年ごろ、ヤジュナバラーハによって建設された。
 アンコール遺跡群を代表する神殿、寺院の建築様式は山を象徴化しようとしたものだという。山は世界の中心とされる須弥山(しゅみせん)を意味する。神殿、寺院の周壁はヒマラヤの連峰を、濠(ほり)と大地は大洋を表し、そこに宇宙が表現される。アンコール・ワットは宇宙の縮図である。山には神々が降臨し、そこは神々と人間が触れ合う所、つまり神々と、人間社会の代表である王とが合体される聖なる場所である。山において自然の大宇宙と人間の住む小世界とは初めて一体化する。そこから王は神の化身とされ、王の権威が正統化される。神殿、寺院は王の存在を意味づけ、王であることの思想的、哲学的根拠を立証する「あかし」の場であった。回廊には戦いのほかに、職人、大工、行商人、料理人や、闘犬、闘鶏に興じる人、将棋をさす者、建築現場で働く人たち、市場の売り手・買い手まで、当時の民衆生活が生き生きと描かれている。
 アンコール建築の重量感からくる迫力は見るものを圧倒し、精緻(せいち)・繊細な装飾彫刻は強く人をひきつけ、おおらかな庶民の生活は心をなごませる。同時に石造美術に表現される歴史と思想と哲学は人を深く考えさせる。バイヨンの巨大な仏面は、この王朝政治の将来に何か不安を感じてか、重く、暗く、むしろ不可解な表情をたたえている。
 教育施設は、ポル・ポト時代に全廃されたが、その後復活、2001年には生徒数が小学校約271万人、中等学校約47万人、大学約8400人に達し、識字率は76.3%(2007)となっている。教育制度は六・三・三制(小学校6年、中学校3年、高等学校3年)で、義務教育は6歳から9年間である。日刊紙は20紙、国営のラジオ局とテレビ局各1のほかに民放のラジオ、テレビ局がある。
 大多数の住民は小乗仏教徒であり、男子は11~12歳になると寺院に入り、寺子屋修養を受ける。寺院は2800、仏教徒は約820万人(1994)といわれる。公用語はカンボジア語(クメール語)で、独自のクメール文字をもつ。[丸山静雄]

日本との関係

日本人は安土・桃山(あづちももやま)時代(1573~1598)および江戸時代初期(1598~1639)に、盛んに海外に渡航し、南洋各地に日本町がつくられた。カンボジアではプノンペンと、プノンペンからトンレ・サップ川を20キロメートルほど上ったピニヤールに日本町があった。ピニヤールの日本町は戸数70軒から80軒、住民は200人から300人を数えた。日本町では一種の自治が認められ、日本人のなかから町長格の責任者が選ばれ、責任者を中心に物資の買付け、出荷が手広くなされ、また葬祭や行事も日本の伝統に従って執り行われた。有力町長の結婚式には全町民が参加し、カンボジアの王女や大臣も列席して盛大な祝賀宴が開かれた。1632年、加藤清正の遺臣森本儀太夫一吉の一子森本右近太夫(うこんだゆう)は朝鮮の役で戦死した父儀太夫の菩提(ぼだい)をとむらい、母の後生を願ってアンコール・ワットに参詣(さんけい)した。右近太夫はそのことを回廊の石柱に墨書した(いまは墨が薄れて判読できない)。そのほか、アンコール・ワットを昔、釈迦(しゃか)が修業した祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の跡と思い込み、はるばる参詣するものもあった。しかし1639年の徳川幕府による鎖国令で日本町は日本との関係を絶たれ、やがて消えた。日本人がふたたび姿を現すのは徳川幕府の時代が終わり明治時代に入ってからで、その先鞭(せんべん)をつけたのが「娘子軍(じょうしぐん)」(慰安婦)であった。
 太平洋戦争時、日本は「明号作戦」を行い、フランス軍を武装解除してフランス領インドシナを日本の単独支配下に置き、カンボジアにも兵を入れた。それを機にカンボジアに独立を「許容」し、1945年3月13日、カンボジア王国が樹立された(国王シアヌーク、首相ソン・ゴク・タン)。しかし日本の敗北とともに独立は消えた。
 第二次世界大戦後、カンボジアと日本は1954年5月に国交を再開、カンボジアは対日賠償請求権を放棄した。それを受けて日本政府は3年間に15億円に上る無償の技術援助を供与した(1962~1967)。それによって農業センター、医療センター、牧畜センターの建設、プノンペンの上水道拡張、トンレ・サップ川の架橋工事などが行われた。その後、日本はカンボジアの和平と戦後復興のために努力した。1990年6月と1992年6月には東京会議を開き、国連主導の下に総選挙が実施されるや、PKO(国連平和維持活動)のための要員(延べ1300人)などを派遣し、停戦監視、文民警察、選挙監視、道路・橋梁(きょうりょう)の修理などに協力した。国連事務総長特別代表明石康はUNTAC代表として総選挙の実施にあたった。総選挙後は難民救済、経済復興のための各種援助を供与した。
 1992年以降、日本はカンボジアへの最大の支援国となっている。2006年の日本のカンボジアに対する援助額(支援表明額)は1億1470万ドルで、アメリカの6180万ドル、フランスの3820万ドル、オーストラリアの3180万ドルを大きく引き離している。
 日本との貿易では、輸出額が約163億円、輸入額が約130億円(2007)となっており、おもな輸出品目は靴、衣類およびその付属品、バッグ類、電気計測機器など、輸入品目は輸送用機器、縫製用機械類、一般機械、電気機器類などである。[丸山静雄]
『高橋保著『カンボジア現代政治の分析』(1972・日本国際問題研究所) ▽丸山静雄著『インドシナ物語』(1981・講談社) ▽N・シアヌーク著、友田錫監修『シアヌーク最後の賭け』(1988・河出書房新社) ▽F・ポンショー著、北畠霞訳『カンボジア・ゼロ年』(1991・連合出版) ▽岡部達味編『ポスト・カンボジアの東南アジア』(1992・日本国際問題研究所) ▽明石康著『忍耐と希望――カンボジアの560日』(1995・朝日新聞社) ▽池田維著『カンボジア和平への道――証言 日本外交試練の5年間』(1996・都市出版) ▽河野雅治著『和平工作――対カンボジア外交の証言』(1999・岩波書店) ▽四本健二著『カンボジア憲法論』(1999・勁草書房) ▽和田博幸著『カンボジア、地の民』(2001・社会評論社) ▽天川直子編『カンボジアの復興・開発』(2001・日本貿易振興会アジア経済研究所) ▽天川直子編『カンボジア新時代』(2004・アジア経済研究所) ▽駒井洋著『新生カンボジア』(2001・明石書店) ▽フランソワ・ビゾ著、中原毅志訳『カンボジア 運命の門――「虐殺と惨殺」からの生還』(2002・講談社) ▽広畑伸雄著『カンボジア経済入門――市場経済化と貧困削減』(2004・日本評論社) ▽北川香子著『カンボジア史再考』(2006・連合出版) ▽矢倉研二郎著『カンボジア農村の貧困と格差拡大』(2008・昭和堂) ▽岸川毅・中野晃一編『グローバルな規範/ローカルな政治――民主主義のゆくえ』(2008・上智大学出版、ぎょうせい発売)』

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