共同通信ニュース用語解説 「カンボジア」の解説
カンボジア
仏教を国教とする人口約1676万7千人(2022年推定)の立憲君主国。元首のシハモニ国王に統治権はなく、首相が内閣を組閣する。1975年からのポル・ポト政権が共産主義を掲げ、200万人近くが虐殺などで死亡したと推定される。79年のポル・ポト政権崩壊後は内戦で混乱。92~93年の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で
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翻訳|Cambodia
仏教を国教とする人口約1676万7千人(2022年推定)の立憲君主国。元首のシハモニ国王に統治権はなく、首相が内閣を組閣する。1975年からのポル・ポト政権が共産主義を掲げ、200万人近くが虐殺などで死亡したと推定される。79年のポル・ポト政権崩壊後は内戦で混乱。92~93年の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で
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インドシナ半島の南東部に位置する国。東はベトナム、北はラオス、北西部はタイに接し、南はタイランド湾に臨む。面積は18万1035平方キロメートル(北海道の2倍強)、人口は1338万8910(2008センサス速報値)。正称はカンボジア王国。カンボジア語(クメール語)ではReacheanachak Kampucher、フランス語ではRoyaume du Cambodge、英語ではKingdom of Cambodia。政治体制は立憲君主制。首都はプノンペン。
[丸山静雄]
国土はメコン川下流域の沖積平野に開け、三方(北東部、北部、南部)を山系で囲まれる。沖積平野といっても一様ではなく、南東部はメコン川下流域の、より低い湿潤地帯となり、北西部はやや土地が高く降雨の少ない、乾燥した丘陵地帯となる。したがって南東部は水の氾濫(はんらん)に、北西部はしばしば無雨・干魃(かんばつ)に悩む。中央部の平地には点々と丘や小山のような高所がある。これをプノンという。小山という意味である。100メートルを超える高さのものもあるが、だいたいにおいて数十メートルの高さである。メコン川はしばしば氾濫する。氾濫となると、平地はたちまち水浸しとなる。そのとき避難場所を提供してくれるのがプノンである。そこには草と木があって家畜を飼うことができたし、また燃料用の薪炭も得られる。平地に住む人たちにとってかけがえのない大事な場所であった。もともと丘の上や山頂は、天が大地と接触し天地が融合する所で、神々が降臨する神聖な場所とされ、人々はそこに宮殿、寺院を建てた。
カンボジアは平地を取り囲む形で周囲に山系、台地が連なる。北東部はベトナムのダルラク高原、コントゥム高原、ラオスのボロベン高原に接して標高は高く、森林も濃密である。台地には玄武岩の風化したテル・ルージュ(紅土)地帯がある。ベトナム国境沿いのモンドルキリ、ラタナキリ高原はベトナム戦争期、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線軍によって「聖域」とされ、解放戦線軍はここから出撃してサイゴン政府軍、アメリカ軍を攻撃した。北部はダンレック(ドンレク)山脈が東西に走ってタイとの国境をなしている。標高200~550メートル、延長300キロメートルの長い山系である。山系は砂岩からなり、そこで切り出された石をゾウがひいてアンコールに運び、それによってアンコール・ワットは建造された。山系の東部国境地帯の山頂にはプレア・ビヒアPreah Vihearが建っている。小さなヒンドゥー寺院だが、1950年代後半、その帰属をめぐってタイ、カンボジア間で激しく争われ、のちハーグの国際司法裁判所でカンボジア帰属が決定された。南部はカルダモウム山系、エレファント山系で、カルダモウム山系のオーラル山(1813メートル)はカンボジアの最高峰である。エレファント山系のキリロム高原は鬱蒼(うっそう)たる密林に覆われているが、1950年代のシアヌーク政権時代、日本人50万人を入植させる計画が出て話題になった。カルダモウム山系には一時、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)の基地が置かれていた。クメール・ルージュは国境地区の山系、高原に拠(よ)って、平野部の政府軍陣地をゲリラ攻撃する戦術をとっていた。
カンボジアはメコン川がつくりだした国ともいえるほどに、メコン川の影響を強く受ける。メコン川は国土の東部をほぼ南北に縦断する。メコン川の水位は4月最低になり、5月、6月と上がり、9月、10月には8~10メートルにも達する。この大河は増水期(雨期)には水量が膨れ上がり、流路だけでは水を吸収しきれない。しかし水をそのまま海に吐き出せば減水期(乾期)に渇水に悩まなければならない。そこで増水期にはメコン川の水は逆流して低地の平野部に入り込み、そこにいすわって大湖を形成し、減水期に徐々に水を吐き出す。それによってメコンの流水は自然に調整される。それがトンレ・サップ湖(大湖という意味)である。トンレ・サップ湖は自然の大貯水池で、表面積は乾期には3000平方キロメートル、雨期には1万平方キロメートルとなる。雨期と乾期の水を調整する流路はトンレ・サップ川とよばれる。トンレ・サップ湖は雨期になるとあふれて周囲の森林を呑(の)み込む。そのためプランクトンが大量に発生して魚類が繁殖し、好個の漁場となる。メコン川はカンボジア、ラオスの国境のあたりではコーンの滝によって舟艇の航行を妨げられるが、それから下流は舟運もよく、クラチェから海口まではかなりの大型船も年間を通じて航行が可能である。チベット、中国、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、タイの水を集めるメコン川は、下流のカンボジア領内ではトンレ・サップ湖によっていちおうコントロールされるが、その勢いは一本の流れにおさまらず、ベトナム領内では九つの流路に分かれて(九竜(クーロン)川という)ようやく怒りが静まったかのように、穏やかに南シナ海に消えてゆく。
気候は熱帯モンスーン型で、乾期と雨期に分かれる。乾期は11月から4月まで、北東モンスーンが吹き、雨期は5月から10月まで、南西モンスーンが吹く。雨量は地域によってかなりの差があり、タイランド湾沿いの海岸地帯とカルダモウム山系一帯では年間4000ミリメートルに上り、内陸平野部では1500ミリメートル前後である。気温は年間を通じて高く、もっとも高い4月ともっとも低い12月との月平均較差は5℃前後にすぎない。プノンペンでは4月に40℃を超え、平野部における年平均気温は27~28℃。国土の53%は森林が占める。樹種は豊富で、南部の海岸地方ではマングローブが密生する。内戦が終了した1990年代以降は国土開発が進んで森林面積が減少し、資源保全が課題となっている。
[丸山静雄]
カンボジアには新石器時代に人が住みついたようで、そのことはサムロンセン、ムルプレイなどの貝塚から出土した遺物によって示されている。その後、メナム川からメコン川にかけての流域にはインドネシア系の種族が定着し、ついでインド系の種族が入りこみ、混血してクメール人となった。現在のカンボジア人の祖先である。
クメール人はインド文化を吸収して成長し、勢力を延ばし、1世紀ごろバプノム(現、プレイベン)に扶南(ふなん)王国を建設した。その支配地域は現在のカンボジア南部からコーチシナにわたり、オケオを外港とした。インドとの人の往来、交易、文化交流は紀元前、しかもかなり古くからあり、古代、インド文化(バラモン教、大乗仏教、葬祭儀礼、行政・法制組織、美術・工芸、農耕・水利技術)を受け入れ、インド文化によって栄えた王国にはチャンパ王国、ドバーラバティー王国、シュリクシェトラ王国、パガン王国などがあったが、そのうち最初のインド化された王国が扶南(1~6世紀)であった。
扶南は5世紀末には周辺地域を勢力下に置く強大な王国となったが、まもなくラオス南部のチャンパサックに派遣した封侯が同地に真臘(しんろう)王国(6~8世紀)を樹立し、扶南はこれにとってかわられた。のちに真臘王国は分裂し、これを再統一してアンコール王国(9~15世紀)が建設された。歴代王のうち初代のジャヤバルマン2世(在位802~850年。1世は真臘王で、在位は657年ごろ~687年)、スールヤバルマン2世(生没年不詳。在位1113~1150年ごろ)、ジャヤバルマン7世(1181~1218年ごろ)の時代に国はもっとも繁栄し、その版図(はんと)は東はベトナム中南部、北はラオス中部、西はメナム川の下流域、南はマレー半島の北部にわたった。王国は海上交易を盛んに行い、水利事業を起こし、都市や寺院を建設し、インド文化の花を燦然(さんぜん)と咲かせた。その代表的な遺跡がアンコール・ワット、アンコール・トム、バンテアイ・スレイなどである。
しかし王国は壮大な都市・堂塔の建築、大規模な水利事業、悪疫(あくえき)の流行によって疲れ、自らの活力を徐々に失っていった。そこに北からタイ系諸民族やビルマ人がメコン、メナム、サルウィン、イラワジ川沿いに南下し、13世紀から15世紀にかけて各地に王国が建設された。中部ビルマにアバ王国、北部タイにランナータイ王国、中部タイにスコータイ王国、南部タイにアユタヤ王国、トンブリー王国、バンコク王国などである。これはアンコール王国にとって重大な脅威だった。元(モンゴル)も侵入してきた(元冦(げんこう))。元は朝鮮、日本、ジャワ、ビルマ、ベトナム、チャンパを侵攻したが、カンボジアには1283年襲来した。各国は厳しい戦いを強いられた。かくてインド化された王国は次々に崩壊し、1431年アンコール王国も王都アンコールを放棄してプノンペンに遷都した。
その後、王位継承をめぐる内紛が続き、シャム(アユタヤ王朝)、ベトナム(阮(げん)朝=グエン朝)の侵入も繰り返され、カンボジアはシャム、ベトナム両国の激しい角逐の場とされた。カンボジアはフランスに救いを求め、フランスの保護国になることによって安全保障を得ようとし、1863年フランスとの間に保護条約が締結された。フランスはそれに乗じて発言力を強め、1887年カンボジアを「フランス領インドシナ連邦」に編入した。フランスによるカンボジアの植民地化である。フランスは王制を認め、その存続を許したが、それは形のうえだけのもので、実際にはフランス人の理事長官をトップに、各地にフランス人の理事官を配置して徹底的なフランス化を試みた。
第二次世界大戦期、当初はベトナム、ラオスとともにカンボジアでも日仏共同防衛(1941年7月、「仏領印度支那の共同防衛に関する日仏間議定書」調印)の建前のもとにフランスの主権が認められたが、1945年3月日本はフランス軍を武装解除し、カンボジアをベトナム、ラオスとともに日本の単独支配下に置き、名目的な独立を与えた(3月11日アンナン、3月13日カンボジア、4月8日ルアンプラバン)。このとき、国王はノロドム・シアヌークであったが、シアヌークはそのまま国王として残り、首相には日本に亡命していたソン・ゴク・タンSon Ngoc Thanh(1908?―1977/1982)が任命された。
しかし日本の降伏によって独立政権は泡のように消えた。そのあとには共産主義者、共和制主義者、王党派によるさまざまの独立運動があったが、シアヌークが指導権をもち、王制は存続した。シアヌークは1947年5月、憲法を制定してカンボジアが立憲君主国であることを宣言したあと、フランスとねばり強く独立交渉を行い、1949年11月フランス連合内での独立を、1953年8月には司法権と警察権をかちとり、同年10月には軍事権を獲得して完全独立を達成した。
主要民族はクメール人で、総人口の90%を占める。少数民族としてはチャム人(チャンパ王国が滅びたあと、カンボジアに住みついたもので、トンレ・サップ湖畔で漁業に従事するものが多い)、ラデ人、ジャライ人、スティエン人、クイ人、ピア人などがあり、ほかにベトナム人(越僑(えっきょう))、中国人(華僑)も多い。中国人はフランス植民地時代からカンボジアに根を張り、商業、流通部門に独占的な地位をもっていた。
[丸山静雄]
独立以来、政情はめまぐるしく変転し、政権の交代が相次いだ。
[丸山静雄]
カンボジアは1953年10月完全独立を得たが、翌1954年7月ジュネーブ協定(インドシナ休戦協定)の調印によって独立国としての地位を国際的に認められることになり、シアヌーク体制が整えられた。シアヌークは翼賛政党サンクム(人民社会主義共同体)を組織して王制護持、仏教信仰、中立外交を柱に、国内の統一、平和の回復、経済・社会開発の推進を図った。しかし財政は悪化し、サンクムは左右両派に割れ、反政府陰謀や反乱が相次いだ。シアヌークは中立外交によってカンボジアがベトナム戦争に巻き込まれるのを防ごうとしたが、右派は容共政策だとして非難し、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線はそれに乗じて東部国境地帯に入り込み、そこにいすわり、聖域化してベトナム戦争を戦った。戦争が拡大すると、危機意識が高まり、右派が台頭した。シアヌーク政権は追いつめられていった。
[丸山静雄]
シアヌークは1970年1月、療養のためフランスに赴いた。その留守中の3月18日、国民議会と王国会議との合同会議は、主席解任を決議した。ロン・ノル派のクーデターだった。新国家主席(臨時代理)にはチェン・ヘンCheng Heng(1910―1996、1970年3月21日主席就任)、首相にはロン・ノルLon Nol(1913―1985)が就任した。1970年10月9日、王制は廃止されて共和制が宣言された。親米政権「クメール共和国」の登場である。その後、ロン・ノルは、1972年3月10日にチェン・ヘンにかわって国家主席、3月13日には大統領となった。
これに対し、外遊先のフランスからソ連を経て北京(ペキン)に滞在していたシアヌークは、ただちに北京で新政権を樹立した。新政権はカンボジア民族統一戦線(FUNK)、カンボジア王国民族連合政府(GRUNC)、民族解放軍(司令官はキュー・サムファン)からなり、ロン・ノル政権の打倒を呼びかけた。これを受けて国内ではロン・ノル軍との戦いが開始された。戦いの中心勢力はクメール・ルージュであった。クメール・ルージュはカンボジアの共産党で、シアヌーク王制時代から反政府活動を行っていたが、ここで一転、シアヌークの呼びかけに応じたのである。クメール・ルージュは中国、北朝鮮からの援助による兵器、装備を身につけて戦いを有利に進めた。アメリカ軍、南ベトナム政府軍は、1970年5月カンボジアに侵攻した。北ベトナム軍、南ベトナム解放戦線兵力を東部地域から追い出し、ロン・ノル政権にてこ入れしようとしたのである。しかし戦争は拡大、軍事情勢はロン・ノル政権側に不利となった。やがてクメール・ルージュは勢力を広げ、国土の大半を支配するに至る。大きな転機がきた。1973年1月ベトナム和平協定が成立し、アメリカは同年8月カンボジアでの戦闘行動を停止した。1975年4月ロン・ノル政権は倒れ、クメール・ルージュはプノンペンを解放した。
[丸山静雄]
全土を制圧したクメール・ルージュは、1976年4月プノンペンにカンボジア人民代表大会を開いて新国家の樹立を宣言した。新国家は「民主カンボジア」とされ、元首にはキュー・サムファン、首相にはポル・ポトが選出された。政府は私有財産制の廃止、生産手段の集団所有化、通貨の廃止、流通商品経済の否定、農業労働への国民総動員を新政策として掲げた。これは農業を主体とする原始共産主義ともいうべき特異な思想に基づく国家の建設を構想するもので、徹底した平等主義、人間・社会の改造、旧秩序の否定(古い価値観の放棄)が主張された。ポル・ポトは「われわれの新しい社会にはモデルがない。これはモデルなき新しい社会だ」といった。新しい国づくりに従わないものはほとんどすべて排除された。ヘン・サムリン政権が1979年8月、プノンペンに開設した「カンボジア人民革命法廷」によると、ポル・ポト政権下に殺害された者の総数は300万人、生存者のうち肉体的、精神的に深刻な傷手を被った者は400万人以上に達したという。
文化大革命を展開中の中国は、文革の海外版として「ポル・ポト革命」を支持した。ベトナムは同政権に強い不信感をもった。カンボジア・ベトナム関係は悪化、両国の国境紛争は激化し、1978年12月23日ポル・ポト軍はベトナムに対して総攻撃の挙に出た。12月25日ベトナム軍は反撃に出てポル・ポト軍を撃退、ポル・ポト政権は1979年1月崩壊、ポル・ポト軍はカルダモウム山系に落ちのびた。
[丸山静雄]
ベトナム軍によってクメール・ルージュが駆逐されるや、1979年1月プノンペンにはベトナムの強力なバックアップを受けてカンボジア人民共和国が樹立された。親ベトナム政権の登場である。首相にはポル・ポト軍東部方面部隊の大隊長で、のちにクメール・ルージュから離脱したヘン・サムリンが選任された。ヘン・サムリン政権はベトナムの全面的支援の下、治安の回復、社会の安定、戦災復興にあたった。1981年6月国会が開かれ、新憲法を採択、国家評議会議長にヘン・サムリン、首相にペン・ソバンPen Sovan(1936―2016)が選出された。1985年10月にヘン・サムリンは再選、首相にはフン・センが選ばれた。支配地域は漸次広がり、ほぼ全土に及び、ヘン・サムリン体制は確立された。与党はカンボジア人民革命党で、書記長ヘン・サムリン、のちカンボジア人民党(CPP)と改称し、党首はチア・シムChea Sim(1932―2015)となった。これに対しクメール・ルージュはカルダモウム山系からタイ・カンボジア国境地帯に移動し、そこに拠点を設け、ゲリラ抗戦を続けた。
「民主カンボジア」は三つのグループからなっていた。一つはクメール・ルージュ(民族統一民主愛国戦線。議長キュー・サムファン、副議長ソン・センSon Sen(1930―1997))、もう一つはソン・サン派(カンボジア人民民族解放戦線=FNLPK。議長ソン・サンSon Sann(1911―2000))、第三はシアヌーク派(独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線=FUNCINPEC(フンシンペック)。党首はシアヌークの息子ノロドム・ラナリットNorodom Ranariddh(1944―2021))である。1982年7月、3派は連合政府をつくることで合意、民主カンボジア連合政府(GCKD)が樹立された。大統領はシアヌーク、副大統領キュー・サムファン、首相ソン・サンである。
ヘン・サムリン派と、クメール・ルージュとの対決はベトナムと中国、タイとベトナムとの対決でもあったが、やがてヘン・サムリン政権側にはソ連、東欧諸国が、クメール・ルージュ側には中国、タイをはじめとするASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)諸国やアメリカ、日本が同調し、国際政治戦の趣きを呈するようになった。国連の代表権は終始、「民主カンボジア」側に与えられた。
[丸山静雄]
内戦終結のための和平交渉、和平会談は、1987年7月からパリ、ジャカルタ、バンコク、プノンペン、東京、ニューヨークなどで、さまざまな形で行われた。1990年9月、国連安全保障理事会の提案する包括的和平案に当事者、関係者が合意し、1991年10月、「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ和平協定)としてパリで調印された。同協定の合意内容は、
(1)国家の最高機関としてカンボジア最高国民評議会(SNC)を設置する
(2)国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC(アンタック))を設立する
(3)UNTACの監視下に停戦を実施し、制憲議会選挙を行う
(4)制憲議会は国家元首の選出、国民政府の樹立、憲法の制定にあたる
というものであった。カンボジアに駐留していたベトナム軍は1989年9月カンボジアからの撤退を終え、SNCは1990年9月暫定的に設置され、1991年7月同議長にシアヌークが選出された。これによって国連安保理からUNTACの要員として2万2000人(代表は国連事務次長明石康(あかしやすし))が派遣された。同機構は1992年3月発足、1993年5月総選挙が実施された。クメール・ルージュは総選挙をボイコットしたが、国民の90%が参加し、その意思を自由に表明した。総選挙ではFUNCINPEC(党首ラナリット)が第一党、CPP(代表フン・セン)が第二党になった。1993年6月制憲議会が開かれ、シアヌークが正式に国家元首に選出され、7月複数首相制(第一首相ラナリット、第二首相フン・セン)により初の統一政府が樹立された。ここにヘン・サムリン政権の時代は終わった。カンボジア国民は初めて自らの手で国民の代表者を選び、一つの政府をもったのである。総選挙後の新政権には三つの課題があった。一つは内戦や独裁体制によって増殖された不信、敵対、憎悪の感情の相互関係を修復して、国民を和解と安定の方向に推し進めること。これにはジェノサイド(大量虐殺)に対する問罪が伴う。もう一つは1000万個ともいわれる地雷を撤去し、国民総難民ともいうべき不安定な生活環境を改善し、荒廃した施設を復旧、経済を再建することである。第三はASEANをはじめ国際機関に復帰し、国際社会の一員としての地位を確立することであった。1993年9月新憲法が公布され立憲君主制のカンボジア王国となり、シアヌークがふたたび国王に即位した。なお、国王は国家の象徴的存在であり統治権はもたない。
こうして国家の再建は進められたが、ラナリット第一首相派とフン・セン第二首相派の対立は激化し、フン・センは1997年7月5、6日、国軍を動員してラナリット派の警備隊とラナリット支持勢力を一掃した。ASEANは、これをクーデターによる権力奪取だとして、7月10日の緊急外相会議でカンボジアのASEAN加盟を見送ることを決定した。カンボジア国会は8月6日、ラナリットにかわってウン・フオトUng Huot(1945― )を第一首相に選出した。フン・センは警察、軍、地方行政を掌握して優位に立った。
1998年7月、カンボジア王国初の総選挙が実施され、国会122議席のうち64議席をCPP、43議席をFUNCINPEC、15議席をサム・レンシー党(SRP。FUNCINPECからの分派「クメール国民党」から改称)が獲得した。フン・センのCPPは第一党にはなったものの、憲法上組閣に要する議席数(3分の2)に達しなかったため、不足分の18議席を他党との連立で獲得しようとした。これに対し、FUNCINPECとSRPは選挙の無効を訴え、フン・セン派との対決色を強めた。しかし、国際社会の大勢は選挙を容認したため、同年11月シアヌークの調停により、CPPのフン・センを首相、FUNCINPECのラナリットを国会議長とする連立政府が発足した。1999年3月カンボジアに上院(定数61)が発足したことにより、ASEANはカンボジアが政変からの正常化を完結したとみた。これを受け同年4月、カンボジアのASEAN正式加盟が実現した。
2003年7月の総選挙ではCPPが73議席を獲得し第一党になったが、組閣をめぐる交渉が長引き、ようやく2004年7月に首相をフン・センとする連立内閣が発足した。同年10月シアヌークは退位、息子のシハモニが新国王となった。2008年7月の総選挙では与党のCPPが90議席を獲得し、副党首のフン・センが引き続き首相となっている。
一方、クメール・ルージュは分裂し、脱落者が相次ぎ衰退。ポル・ポトも拘束され、1998年4月に死亡した。さらに1999年3月、唯一抵抗を続けてきたタ・モクTa Mok(1926―2006)参謀総長が政府側に逮捕されたことによって、クメール・ルージュは完全に壊滅した。タ・モクは2006年7月に死亡した。同年クメール・ルージュによる自国民の大量虐殺の罪を裁くための特別法廷が国連の支援を受けて設置され、2009年2月より公判を開始している。
カンボジアは長い内戦の疲れから国土は荒廃し、権力の腐敗にも苦しんだ。輝く歴史をもつ偉大な民族であるだけに、内戦による混迷はより悲劇的であった。
[丸山静雄]
国会は二院制で上院は61議席で任期は6年、下院の国民議会は123議席で任期は5年。2006年の憲法改正により組閣に要する下院の議席数は3分の2から過半数に変更となり、過半数の支持を得られた政党に属する下院議員の高位の者が首相に任命され組閣する。
軍隊は総兵員数推定12万4300で、陸軍7万5000、海軍2800、空軍1500、州地方部隊4万5000とされている。
カンボジアの産業の中心は農業で、就業人口に占める農業従事者(漁業、林業含む)の割合は68.2%(2005)を占める。おもな農産物は米で、全耕地の約90%を米田が占める。しかし、無肥料で粗放的農業を行ってきたため、天候に左右されやすいという欠点があったうえ、1970年代の内戦によって農業生産は大きく減少し、食糧不足となった。また、1994年の米の生産量は180万トンで、東南アジアのなかでもラオスと並んで低い数値を示していた。しかし1995年になって徐々に収量が回復、輸出を再開した。2002年には409万9000トン、2007年には599万5000トンにまで回復している。漁業はトンレ・サップ湖が中心で、1995年には総漁獲量11万2510トン、2006年には48万3000トンを水揚げしている。工業は、ポル・ポト政権が農業による極端な原始共産主義政策をとったため、まったく放棄されたが、縫製業を中心に回復を始めた。
長年にわたる内戦は、経済を逼迫(ひっぱく)させた。貿易は、縫製品、米、ゴム、トウモロコシなどをアメリカやアジア諸国に輸出、各種工業製品をアジア諸国から輸入する形であるが、2000年の輸出総額は10億5000万ドル、輸入総額14億3000万ドルと、恒常的な輸入超過であった。1997年度予算の40%は国際通貨基金(IMF)、世界銀行などの国際機関からの援助と借入れによるものであった。2000年以降経済は成長を続け、2004年から2007年までは10%を超える成長率をみせている。2007年の国内総生産(GDP)は86億1900万ドル、1人当り国内総生産は594ドルで、経済成長率は10.1%。貿易額は輸出額42億3600万ドル、輸入額56億0900万ドルと、2000年に比べて輸出、輸入ともおよそ4倍の規模に達している。おもな輸出品目は縫製品、生地(きじ)(布)、天然ゴム・ゴム製品など、輸入品目は縫製品の原料となる生地類、ガソリン、軽油、重油などの石油製品、家電製品、車両部品などである。おもな輸出相手国はアメリカ(53.3%)、香港(13.1%)、ドイツ(5.2%)、イギリス(4.2%)など、輸入相手国は香港(19.3%)、中国(17.7%)、タイ(14.4%)、台湾(10.8%)などとなっている。
道路は総延長約3万3700キロメートル、うち8割弱が未舗装である。鉄道はプノンペンからシソフォンおよびコンポン・ソム(シアヌークビル)が結ばれており、総延長は603キロメートルである。海港はコンポン・ソム1港。水運は3000~4000トン級の船で、メコン川を溯(さかのぼ)りプノンペンまで行くことができる。プノンペンとシェムリアップに国際空港があり、ホー・チ・ミン、バンコク、シンガポールなどに定期便がある。
[丸山静雄]
カンボジアは農業社会で、厚い仏教信仰と長老支配に支えられる素朴な共同体構造をもっていた。この社会はカンボジアが歩んできた歴史の生き証人であった。かつてカンボジアはインドシナ半島の南半分とマレー半島北部を支配する偉大な国家であった。絢爛(けんらん)たるアンコール文化の花も咲かせた。その英知はここから生まれ、その民族的エネルギーはここから噴出した。この社会は王制も、共和制も、共産主義の独裁体制もみてきた。タイ、ベトナムなど地域諸国の侵略、元(モンゴル)、フランス、日本、アメリカなど異民族の支配もあますところなく体験した。戦火の及ぶのを避けようと必死に中立外交を唱えたが、それが無残に踏みにじられる小国の悲哀をつぶさに味わった。ネロ、ヒトラーの暴政に例えられるポル・ポト政権のジェノサイドも知った。これほど無知と知が織りなす人間ドラマの諸相をみてきた社会はほかにあるまい。まさに歴史の縮図である。しかし、いまみるカンボジアの社会は粗放農業に生きる、荒れて、貧しい世界である。
それだけにアンコール文明の偉大さが人の心を打つ。その遺跡群はアンコール・ワット、アンコール・トム、バンテアイ・スレイによって代表される。アンコールは都市、ワットは寺を意味し、アンコール・ワットは寺院のある都域ということになる。典型的なヒンドゥー教寺院で、東南アジアではもっとも大きい。主としてスールヤバルマン2世によって建設され、完成には70年を要したという。アンコール・トムのトムは大きいという意味、アンコール・トムは大いなる都域ということになる。ジャヤバルマン7世によって建設された。7世は熱心な仏教徒で、アンコール・トムの中心をなすバイヨンの寺は仏教寺院である。バンテアイ・スレイは女の砦(とりで)という意味。676年ごろ、ヤジュナバラーハによって建設された。
アンコール遺跡群を代表する神殿、寺院の建築様式は山を象徴化しようとしたものだという。山は世界の中心とされる須弥山(しゅみせん)を意味する。神殿、寺院の周壁はヒマラヤの連峰を、濠(ほり)と大地は大洋を表し、そこに宇宙が表現される。アンコール・ワットは宇宙の縮図である。山には神々が降臨し、そこは神々と人間が触れ合う所、つまり神々と、人間社会の代表である王とが合体される聖なる場所である。山において自然の大宇宙と人間の住む小世界とは初めて一体化する。そこから王は神の化身とされ、王の権威が正統化される。神殿、寺院は王の存在を意味づけ、王であることの思想的、哲学的根拠を立証する「あかし」の場であった。回廊には戦いのほかに、職人、大工、行商人、料理人や、闘犬、闘鶏に興じる人、将棋をさす者、建築現場で働く人たち、市場の売り手・買い手まで、当時の民衆生活が生き生きと描かれている。
アンコール建築の重量感からくる迫力は見るものを圧倒し、精緻(せいち)・繊細な装飾彫刻は強く人をひきつけ、おおらかな庶民の生活は心をなごませる。同時に石造美術に表現される歴史と思想と哲学は人を深く考えさせる。バイヨンの巨大な仏面は、この王朝政治の将来に何か不安を感じてか、重く、暗く、むしろ不可解な表情をたたえている。
教育施設は、ポル・ポト時代に全廃されたが、その後復活、2001年には生徒数が小学校約271万人、中等学校約47万人、大学約8400人に達し、識字率は76.3%(2007)となっている。教育制度は六・三・三制(小学校6年、中学校3年、高等学校3年)で、義務教育は6歳から9年間である。日刊紙は20紙、国営のラジオ局とテレビ局各1のほかに民放のラジオ、テレビ局がある。
大多数の住民は小乗仏教徒であり、男子は11~12歳になると寺院に入り、寺子屋修養を受ける。寺院は2800、仏教徒は約820万人(1994)といわれる。公用語はカンボジア語(クメール語)で、独自のクメール文字をもつ。
[丸山静雄]
日本人は安土・桃山(あづちももやま)時代(1573~1598)および江戸時代初期(1598~1639)に、盛んに海外に渡航し、南洋各地に日本町がつくられた。カンボジアではプノンペンと、プノンペンからトンレ・サップ川を20キロメートルほど上ったピニヤールに日本町があった。ピニヤールの日本町は戸数70軒から80軒、住民は200人から300人を数えた。日本町では一種の自治が認められ、日本人のなかから町長格の責任者が選ばれ、責任者を中心に物資の買付け、出荷が手広くなされ、また葬祭や行事も日本の伝統に従って執り行われた。有力町長の結婚式には全町民が参加し、カンボジアの王女や大臣も列席して盛大な祝賀宴が開かれた。1632年、加藤清正の遺臣森本儀太夫一吉の一子森本右近太夫(うこんだゆう)は朝鮮の役で戦死した父儀太夫の菩提(ぼだい)をとむらい、母の後生を願ってアンコール・ワットに参詣(さんけい)した。右近太夫はそのことを回廊の石柱に墨書した(いまは墨が薄れて判読できない)。そのほか、アンコール・ワットを昔、釈迦(しゃか)が修業した祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の跡と思い込み、はるばる参詣するものもあった。しかし1639年の徳川幕府による鎖国令で日本町は日本との関係を絶たれ、やがて消えた。日本人がふたたび姿を現すのは徳川幕府の時代が終わり明治時代に入ってからで、その先鞭(せんべん)をつけたのが「娘子軍(じょうしぐん)」(慰安婦)であった。
太平洋戦争時、日本は「明号作戦」を行い、フランス軍を武装解除してフランス領インドシナを日本の単独支配下に置き、カンボジアにも兵を入れた。それを機にカンボジアに独立を「許容」し、1945年3月13日、カンボジア王国が樹立された(国王シアヌーク、首相ソン・ゴク・タン)。しかし日本の敗北とともに独立は消えた。
第二次世界大戦後、カンボジアと日本は1954年5月に国交を再開、カンボジアは対日賠償請求権を放棄した。それを受けて日本政府は3年間に15億円に上る無償の技術援助を供与した(1962~1967)。それによって農業センター、医療センター、牧畜センターの建設、プノンペンの上水道拡張、トンレ・サップ川の架橋工事などが行われた。その後、日本はカンボジアの和平と戦後復興のために努力した。1990年6月と1992年6月には東京会議を開き、国連主導の下に総選挙が実施されるや、PKO(国連平和維持活動)のための要員(延べ1300人)などを派遣し、停戦監視、文民警察、選挙監視、道路・橋梁(きょうりょう)の修理などに協力した。国連事務総長特別代表明石康はUNTAC代表として総選挙の実施にあたった。総選挙後は難民救済、経済復興のための各種援助を供与した。
1992年以降、日本はカンボジアへの最大の支援国となっている。2006年の日本のカンボジアに対する援助額(支援表明額)は1億1470万ドルで、アメリカの6180万ドル、フランスの3820万ドル、オーストラリアの3180万ドルを大きく引き離している。
日本との貿易では、輸出額が約163億円、輸入額が約130億円(2007)となっており、おもな輸出品目は靴、衣類およびその付属品、バッグ類、電気計測機器など、輸入品目は輸送用機器、縫製用機械類、一般機械、電気機器類などである。
[丸山静雄]
『高橋保著『カンボジア現代政治の分析』(1972・日本国際問題研究所)』▽『丸山静雄著『インドシナ物語』(1981・講談社)』▽『N・シアヌーク著、友田錫監修『シアヌーク最後の賭け』(1988・河出書房新社)』▽『F・ポンショー著、北畠霞訳『カンボジア・ゼロ年』(1991・連合出版)』▽『岡部達味編『ポスト・カンボジアの東南アジア』(1992・日本国際問題研究所)』▽『明石康著『忍耐と希望――カンボジアの560日』(1995・朝日新聞社)』▽『池田維著『カンボジア和平への道――証言 日本外交試練の5年間』(1996・都市出版)』▽『河野雅治著『和平工作――対カンボジア外交の証言』(1999・岩波書店)』▽『四本健二著『カンボジア憲法論』(1999・勁草書房)』▽『和田博幸著『カンボジア、地の民』(2001・社会評論社)』▽『天川直子編『カンボジアの復興・開発』(2001・日本貿易振興会アジア経済研究所)』▽『駒井洋著『新生カンボジア』(2001・明石書店)』▽『フランソワ・ビゾ著、中原毅志訳『カンボジア 運命の門――「虐殺と惨殺」からの生還』(2002・講談社)』▽『天川直子編『カンボジア新時代』(2004・アジア経済研究所)』▽『広畑伸雄著『カンボジア経済入門――市場経済化と貧困削減』(2004・日本評論社)』▽『北川香子著『カンボジア史再考』(2006・連合出版)』▽『矢倉研二郎著『カンボジア農村の貧困と格差拡大』(2008・昭和堂)』▽『岸川毅・中野晃一編『グローバルな規範/ローカルな政治――民主主義のゆくえ』(2008・上智大学出版、ぎょうせい発売)』
基本情報
正式名称=カンボジア王国Kingdom of Cambodia
面積=18万1035km2
人口(2010)=1430万人
首都=プノンペンPhnom Penh(日本との時差=-2時間)
主要言語=クメール語(カンボジア語)
通貨=リエルRiel
インドシナ半島の南西隅に位置し,北海道の2倍強の面積をもつ国。カンボジアといえば,王国,敬虔な仏教徒,アンコール・ワットなどで知られていたが,1970年3月のシアヌーク元首の解任により,インドシナ戦争に大きく巻き込まれ,混乱と戦争が続き,鎖国,難民,首都プノンペンの無人化,虐殺という不可解な変事が続発した。93年,新生カンボジア王国が誕生した。カンボジアという呼称は,碑刻文に見られる祖先カンブー・メラーKambu Meraに由来するが,現地音ではカンプチアKampucheaと発音する。民族名称にはクメールKhmerを用いることが多いが,その語源も同じである。
自然環境の特徴を摘記するならば,広大な平野,大河,大湖であろう。メコン川は国内を北から南へS字形に約500kmにわたり貫流し,雨季の流量は乾季の20倍にふくれあがる。トンレ・サップ湖はトンレ・サップ川を通じてメコン川とつながり,増水期にはメコン川の河流が逆流し,湖岸周辺を徐々に冠水しながら,渇水期の約3倍にまで湖の面積を広げる。つまりこの湖は自然の調節槽的役割を果たしている。増水した河流は,中小河川またはプレック(小支流,溝)を通じ河岸より遠い奥地まで浸水し,トラペアン(池,沼)をつくり,耕作を可能としている。メコン川は河川交通(クラティエまで数百トンの船が遡航),穀倉地帯への用水の供給,淡水漁業などの点で人々の生活と深いかかわりを持っている。しかし,森林が全国土の73%を占め,耕地はわずか16%にすぎない。
地勢では,東側にアンナン(チュオンソン)山脈につながるラタナキリ高原,北側にタイとの国境を西から東に帯状に延びるダンレック山地,西側にはシャム湾にまで続くカルダモーム,エレファン両山脈があって,中央部の平野は縁の浅い盆のようであり,周囲三方が自然の障壁をなしている。これら山地,山脈は,いずれも標高400mから1500mまでと低い。タイとはワダナ隘路などで,ラオスとはメコン川の河谷で,ベトナムとはメコン・デルタを通じて連接している。カンボジアの大地は高温多湿で蒸し暑く,年平均気温が27℃,乾季が12月から5月まで,雨季が6月から11月まで,年降水量は1400mmから2000mmであり,熱帯モンスーン気候である。
クメール族はメコン川中流域から南下して,現在の平地平野部に住むようになった。主として農業に従事し,就業者人口の約7割を占めている。華僑,ベトナム人,チャム族は,帰化政策によりカンボジア国籍を取得している。華僑系住民は約50万人で,首都や地方都市に住み,経済的実権を握ってきた。ベトナム系の人々は約40万人で,おもに南部,都市周辺部に居住し,商工業,漁業に携わってきた。チャム族は約12万人で,メコン河岸等に定住し,漁業,畜産業で生計を立ててきた。チャム族はイスラム教徒であるので,クメール・イスラムと呼称される。少数民族としては,ラタナキリ高原のプノン族,スティアン族,ダンレック山地内のクイ族,カルダモーム山脈のポー族などがいる。これら山岳民族はクメール・ルーKhmer Lou(高地クメール族)と呼ばれ,採集狩猟,焼畑農業により生活している。
→クメール族
全人口の8割が農村に定住している。集落は多くが冠水しない自然堤防上にあり,50~80戸で約200~400人規模が平均的な村落である。村の中心部には,パゴダ(寺院),学校などがあり,周囲に村人の家宅,その空間に蔬菜園などが点在し,村落の外側には用水池,小支流があり,水田や畑地が開けている。村は緩やかな血縁・地縁的共同体で,農繁期などには相互扶助もある。家族制度は双系制によるものが多く,養子までを含む大家族であり,共住集団をつくる。日常生活は農作業カレンダーにそって営まれ,田植は早生稲で6月,晩生稲で8月から始まる。住居は1.5mほどの高さの杭上家屋で,木材,竹,シュロの葉で造る。公共施設,富裕者の家は,木造で瓦葺きである。高床住居は湿気と放射熱を避け,床下は農具,牛車,丸木舟の置場であり,家畜小屋でもある。
農作業は,水牛の引く犂で耕して水を入れ,田植は女性の仕事である。女性はブラウスにサロン(腰巻)をつけ,頭上にクロマー(布切れ)を載せ働く。祭礼や寺院へ行くときには民族衣裳のサンポットを着る。食事は主食が米飯であるが,うどん(ノンバンチョック),少しの野菜と魚,スープ,自家製のプラホック(魚の練物の一種)が添えられ,簡素である。男子は11~12歳になると,寺院に入り,寺子屋修養を受ける。人々は上座部仏教の熱心な信徒である。国内には寺院3153,僧侶6万1104人(1967)がいて,托鉢と喜捨により維持されていた。宗派には伝統派のモハニカイ派と改革派のタマユット派があり,前者が優勢である。村の所々に土着の精霊信仰〈ネアックタ〉神の小祠があり,村人の生活神である。1975年からの民主カンボジア政権下では,仏教を反動的な宗教と決めつけ,寺院を破壊した。同時に伝統的な社会は,居住地変更,集団強制新村,村落解体などの急進的な大改革により根底から壊されてしまった。79年からのカンボジア人民共和国下では,信仰の自由,寺院の復旧と僧侶の復職が徐々に進み,社会全体が再生,回復しつつある。
カンボジアの歴史展開における第1の特色は,諸史料に基づき古代から現代までの歴史考察ができることである。特に早くからインド文化の枠組みを借用して独自のクメール文化を創り出し,インドシナ半島における文化センター的役割を果たしてきた。アンコール遺跡に残る壮大な伽藍と寺院,秀麗な彫刻,浮彫等は,当時の高い文化水準を表している。第2の特色は,アンコール朝が13世紀の最盛期にインドシナ半島のほぼ全域を版図とする大帝国をつくり,近隣諸民族へ政治的・文化的影響を与えたことである。こうした歴史展開によって,その後のメコン川,メナム川の両流域におけるタイ,ラオス,チャム,ベトナムの4民族とクメール族との交流と闘争の航跡および盛衰の展開が明らかとなり,現勢的な枠組みをとらえることができる。
歴史は次の五つに区分できる。(1)前アンコール時代(紀元前後から802),(2)アンコール時代(802-1432),(3)後アンコール時代(1432-1863),(4)フランス植民地時代(1863-1953),(5)民族国家建設時代(1953年から現在まで)。
インド文明の受容から扶南国の興起とクメール真臘の南下の時代である。南部のメコン・デルタから沿岸地方にかけて扶南が展開し,外港がオケオであった。真臘は3,4世紀ころからメコン川中流域よりダンレック山地を越えて広大な平野部へ南下し,扶南を吸収合併,7世紀前半には現在のカンボジアの範囲を領域とした。政治は地方拠点プラ(城市)の連合体制で,そのため隆替が激しく,705年ころ水真臘と陸真臘に分裂,国内は群雄が割拠したが,ジャヤバルマン2世が802年に新王朝を宣言した。
アンコールの地に王都を定め,約550年にわたり都城と寺院を次々と造営し続けた時代で,それらがアンコール遺跡にあたる。ヤショーバルマン1世(在位889-910ころ)は小丘プノンバケンを中心に一辺4kmの方形環濠都城を最初にこの地に建設したので,王名にちなんで王都を以後ヤショーダラプラと呼称した。当時のクメール族の伝統的な居住地域は,北は現タイのコーラート高原のムン川流域から,南はメコン川デルタ地帯(現,ホー・チ・ミン市付近)までの範囲であった。しかし,11世紀にはメナム川流域のロッブリーまで伸張し,12世紀には同流域をさらに北漸してスコータイまでを属領とした。1177年にチャンパ王国が国内混乱の隙を衝き,アンコール王都を攻撃し,一時占領した。ジャヤバルマン7世(在位1181-1218?)治下では,道路網が整備され,121ヵ所の宿駅(郵亭)や102ヵ所の施療院が建設された。その領域(属領も含む)は,西はメナム川流域北部のスコータイ,南はシャム湾岸のマレー半島北部地域,北はビエンチャン付近,東はチャンパまでに拡大し,インドシナ半島をほぼ席巻する大帝国となった。ジャヤバルマン7世の死後,帝国は衰退へ向かう。1296年に来訪した周達観の見聞録《真臘風土記》は貴重な当時の文献である。14世紀以降タイのアユタヤ朝がたびたびアンコールを攻略し,ついに1432年に王都が陥落した。アンコール朝は,タイとのたび重なる激戦で土台が揺らぎ,政治上・社会構造上のさまざまな要因が輻湊し,崩壊した。
アンコール陥落後の首都がスレイサントール→プノンペン→ロベック→ウドンと変遷したごとく,タイとベトナムに挟撃され,余喘(よぜん)を保っていた時代である。アユタヤ朝は1474年以降宗主国となり,侵寇と干渉を繰り返し,18世紀末には北西部,北部の諸州をアユタヤ領に編入した。一方,こうしたアユタヤの重圧に対抗すべく,ベトナムのフエ朝(グエン(阮)氏)を引き入れたが,18世紀末までに逆にメコン・デルタおよび南部諸州を蚕食されてしまった。こうして両属状態におかれていたが,1841年ベトナムのグエン朝へ併合された。45年に地方官吏,住民たちがベトナム化政策に反対して蜂起し,カンボジア再興のきっかけとなった。なお16世紀から17世紀初めに,プノンペンやピニャールに日本人町ができ,最盛期には300~400人が居留していた。また,森本右近太夫一房(加藤清正の旧臣の子)がアンコール・ワットを祇園精舎と考え,1632年にはるばる参詣していたことが,回廊に残された落書によってわかる。
1863年フランス領コーチシナ総督グランディエールはウドンの王宮に乗り込み,ノロドム王を説得して保護条約に署名させた。さらに84年にはフランスの支配強化を盛り込んだ新協約を締結した。これを契機に反仏蜂起が全土に広がり,協約の実施は一時延期された。しかし,87年にフランス領インドシナ連邦に編入され,その一構成国となった。農民には人頭税か地租が課せられ,賦役として土木工事などに駆り出された。肥沃で広大な土地は,フランス人に払い下げられ,ゴムや米のプランテーションが開かれた。道路等の建設,公衆衛生の改善,品種の改良,学校の設立などが行われたが,どれも植民地体制の円滑な運営のためのものであり,一部を除いて住民には直接関係がなかった。総論的にいえば,経済上の搾取,教育における愚民政策,社会上の放置主義が見られた。1940年に日本軍が進駐した後,タイとの国境紛争ではフランス(ビシー政権)が簡単に北西部諸州をタイに割譲してしまった。45年3月,シアヌーク王は独立宣言を発表したが,日本の敗戦によるフランスの復帰で取り消されてしまった。内政自治を認めた暫定条約(1946),憲法の制定(1947),国民議会の成立(1948)などあったが,フランスは外交,財政,軍事を握っていた。シアヌーク王は52年に合法クーデタを断行して全権を掌握し,自ら独立運動の先頭に立った。この強硬姿勢によって国際世論を背景にフランスにいくつもの譲歩を認めさせ,53年11月9日,カンボジア王国として独立した。
東西両陣営が角逐するインドシナ半島において,平和を維持しながら国を存立させる方策は,非同盟中立政策であった。インドシナ問題に関する1954年のジュネーブ会議を通じ,大国との非同盟およびタイ,ベトナム両隣国との闘争回避が外交の基本路線となった。特にベトナム,ラオスからの戦火を食い止めるため,東南アジア条約機構(SEATO)への不参加表明,中国訪問(ともに1956),中立宣言法制定(1957),文書交換による中立保障の提案(1962),現国境線承認の要請(1967)など,中立政策が模索された。
一方,内政では国民の総意が反映できる新体制として,人民社会主義共同体(略称サンクム)が1955年に結成され,退位したシアヌークがその総裁に就任した。サンクムは王制,独立,仏教を基軸に王制社会主義を目ざす新国民運動であった。同年の総選挙で国会の全議席を獲得したサンクムは,国民大会,大衆接見,社会経済開発計画,王国協同組合,社会主義青年団など,次々と新改革を実行した。しかし,外国からの多額の援助は弊害が多いとして,63年から自力更生の経済政策を打ち出したものの,自力更生策は経済の実情を無視した路線であり,経済を停滞させ,財政危機を招き,69年には経済自由化政策へ転換した。
立国の2本の柱(中立政策とサンクム)は,中国寄りの紅色中立政策と急進的なサンクムの自力更生策に変わり,この舵取りをめぐってサンクム内部の左右両派の論争と確執が表面化した。右派のロンノル政権は70年3月にシアヌーク元首を解任し,アメリカ,南ベトナムと手を握った。一方,シアヌークとクメール・ルージュを中心にカンボジア(カンプチア)民族統一戦線が北京で結成された。
ロンノル政権は内部抗争にあけくれ,75年4月アメリカ軍がプノンペンから撤退すると同時に崩壊した。プノンペンに入った解放勢力は直ちに約200万人の市民を強制的に農村へ移住させ,農作物増産のための新村の建設,サハコー(集団協同労働組合)の設置,公私生活のコミューン化,サハコー内での人的選別,オンカー(革命組織)による支配・監視体制,貨幣の廃止,国内移動の禁止など,それまでのカンボジア社会を無視した大改革を断行した。76年公布の新憲法は国名を民主カンボジアと改め,農民と労働者の国家と規定したが,それは作文であった。サハコーは強制労働キャンプさながらであり,富裕・知識階級の敵視および都市住民の異環境での虐待は,多くの人々を死に追いやった。革命組織の内部では権力闘争が起き,文化大革命の影響を受けたポルポトPol Pot派が他派の幹部を粛清した。77年12月にはベトナムと断交し,国境紛争が激化した。
粛清されずに残った親ベトナム派勢力は78年12月にカンボジア救国民族統一戦線を結成し,ベトナム軍に支援されて,79年1月,プノンペンを占領,カンボジア人民共和国(ヘンサムリンHeng Samrin政権)が成立した。ポルポト派勢力はタイ国境地帯で反ベトナムのゲリラ戦を続けながら,82年7月にはシアヌークなどの第三勢力を含めた反ベトナム3派による連合政府を発足させた。こうした内戦と政権交代に伴う混乱のため,多くの難民が生じた。
1947年以来のカンボジア王国は立憲君主制(シアヌーク国家元首),70年からのクメール共和国は共和制,75年からの民主カンボジアは人民共和制をとった。ヘンサムリン政権は79年1月に人民共和国を宣言した。同政権は79年2月にベトナムと平和友好条約を結び,ベトナム軍20万人のカンボジア駐留を合法化した。81年5月に第1回総選挙が実施され,国民議会が新憲法を採択,国家評議会(議長が国家元首),閣僚評議会(内閣に相当し,議長が首相),地方人民委員会などを定め,行政機構が整えられた。89年4月に国名を〈カンボジア国〉に変更,新国旗,国章,国家を規定,国教を仏教と定め,死刑を廃止した。合法政党の人民党はクメール抵抗派,かつての人民党の流れをくみ,ベトナム共産党,ラオス人民革命党と兄弟関係にあった。人民革命軍(1986年推計で約3.5万人。89年人民軍と改称)はベトナム軍の支援を受け,タイ国境付近で3派のゲリラ軍と戦闘を展開した。ほかに地方軍,民兵などがあった。
一方,同床異夢の3派連合政府(民主カンボジア)は,反ベトナム・容共のポルポト派,反ベトナム・反共で共和制を目ざすソンサン(元国立銀行総裁)派,反ベトナム・反共で旧王制に共感を寄せるシアヌーク派から成り,大統領にシアヌーク,副大統領にキューサンファン,首相にソンサンが就任した。この連合政府には行政機関がなく,3派の軍隊は別々にキャンプ地を構えた。しかし,連合政府は国連で正統政府としての議席を占め,約75ヵ国が承認した。3派連合政府は90年2月に国民政府と名称を改めた。
両政権の軍事的対決は国際地域紛争の様相を呈し,ヘンサムリン政権側をベトナム,ソ連,東欧諸国が支援,国民政府側を中国,ASEAN諸国が後押しし,日本は後者を承認した。
1989年に駐留ベトナム軍が完全撤退し,平和への気運が高まった。冷戦の終結も追い風となり,ヘンサムリン政権のフンセン首相とシアヌーク国王の直接会議がパリ郊外で開かれ,国連および関係諸国も紛争解決に向けての取り組みを始めた。その結果,90年9月にカンボジア4派の合意で最高国民評議会(SNC)が設置された。これを受けて国連はカンボジアの代表権をSNCに付与した。SNCは4派対等ではなく,実効支配しているプノンペン政権と国民政府(3派連合政権)の二つを軸に組み立てられた。91年10月,19ヵ国の代表が参加してパリ和平協定が調印され,国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が設立され,18ヵ月にわたり和平達成のため約2万1000人の要員を動員し,平和維持活動にあたった。91年11月にはシアヌークが12年ぶりに帰国,SNC議長として4派のまとめ役をつとめた。93年5月,総選挙が行われ,フンシンペック党(FUNCINPEC=独立,中立,平和,協力のための国民統一戦線)が58議席,旧プノンペン政権の人民党が51議席,仏教自由民主党が10議席,モリナカ党(カンボジア民族解放運動)が1議席を獲得した。そして同年9月,新憲法が公布され,シアヌークが国王に復帰,カンボジア王国が誕生した。新政府は第一党のフンシンペック党と第二党の人民党が大連立を組み,発足当初は安定した政権運営であったが,94年ごろから連立政権内で確執が続き,97年7月,両勢力が衝突した。
経済の基盤は農業である。農家1戸あたりの農地は平均3.6haで,人力(家族労働)と畜力(水牛2頭)で耕せる範囲の面積である。全耕地の約82%が米田で,残りはチャムカー(畑作地)である。農業関係では1969年の米の生産高が約325万t(1955年の2倍),灌漑面積約12万ha(1955年の4倍強)であった。しかし,無肥料で粗放的農業であるため天候に左右されやすい。植民地時代に米とゴムの大規模なプランテーションが開かれたが,ゴムは1969年に5万1000t(1955年の2倍強)の生産高であった。トウモロコシは収穫高11万7000t(1968)で,人々の食糧でもある。これら米,ゴム,トウモロコシが輸出の大部分を占め,外貨獲得源となった。就労人口の比率からいえば,農業・漁業就業者が約70%である。
サンクム路線にそって,1956年からの経済開発二ヵ年計画,60年からの五ヵ年計画,68年からの第2次五ヵ年計画など,経済計画が実施された。東西両陣営からの多額の援助は生産意欲の減退,汚職,中立政策への影響などにつながった。1963年にアメリカからの援助を拒否し,中国方式の自力更生政策が開始された。工場,銀行,貿易の国有化とそれに伴う混乱は経済停滞を招き,財政危機を引き起こしたため,69年から経済自由化政策に転換した。外国援助は,アメリカが道路建設と食糧購入費等,フランスが教育協力とコンポンソム港建設,日本が農業・畜産・医療の3センター建設,中国が紡績などの諸工場,ソ連が病院という内容であった。1970-75年と1978-89年は内戦のため,農業生産は大幅な減少となり,食糧不足が生じた。民主カンボジア治下では,国民皆労の方針で強制的な農村移住による食糧増産運動と耕地灌漑化が展開されたが,数値の公表はない。カンボジア人民共和国治下では,人々はそれぞれ帰郷して連帯組合を設立し,農業生産の回復に努めた。80年3月には新通貨が発行された。漁業活動も再開され,諸工場の復旧が進められた。
農民は1979年に解放されて1975年以前の居住地の村に戻り,ゆるやかな集団営農方式により農業を行った。農村では約10家族規模の連帯グループ(クロム・サマキ)が組織され,農地を共同で耕作し,収穫物が作業に応じて分配されるという一種の委託請負制度が実施された。農民には小規模ながら個人所有の農地を認め,生産意欲を高めた。連帯グループの数(1984)は10万2000,農家134万戸が加入している。籾米生産量は84年で197万tと推計され,1950年代後半の水準にまで後退した。こうした農業生産の低水準は,第一に内戦等による水利灌漑網の破壊と旧耕作地の未回復がその原因である。第二に農業復興を推進する人材,陣容の不足と,栽培技術の改善・品種改良・科学肥料の不足などの問題点がある。また,ポルポト治下における社会施設(橋,道路,病院,学校など)の損壊が国家再建を困難にした。
80年代のカンボジアは,ソ連,東欧,ベトナムから援助を受け入れ,経済復興を行ってきたが,89年以降これら社会主義諸国からの援助が停止され,財政が悪化し,89年のインフレ率が50%に対して91年には150%に達し,人々の生活を圧迫した。92年からUNTACの活動が始まり,西側からの復興援助が本格的となり,市場経済化が進んだが,そのことが農村と都市部の貧富の格差を拡大した。GDP成長率は93年に4%であったが,95年には7.6%となった。しかし,60年代と同様,外国援助依存型が続いており,経済的自立からはほど遠い。外国人観光客は回復しつつある。96年から第1次経済社会開発五ヵ年計画(1996-2000)が始まり,経済自立,貧困の克服,人材養成とインフラストラクチャーの整備が掲げられている。
植民地時代の人材養成の欠落は,独立後の国内建設にブレーキをかけている。1937年に寺子屋を含め小学校が117校,中高等教育ではプノンペンにリセ・シソワット1校があるのみであった。独立後,教育が国の重要施策となり,69年の教育予算は国家予算の22%を占めた。小学校5618校(1955年の2倍強),中高校175校(1955年の15倍),技術学校99校,大学9校,就学人口約117万であった。民主カンボジア政権下では,労農・政治学級を除きいっさい廃止された。ヘンサムリン政権下では信仰の自由が認められ(憲法第6条),各地で寺院の再建が始まり,僧侶の托鉢の姿が見られるようになった。学校は79年9月から再開され,小学校5年(義務教育,二部授業),初等中学3年,高等中学3年である。97年からはこれを六・三・三制へ移行する。小学校は全国に約4300校,生徒数は162万人に達する。プノンペン大学や師範学校,医科大学,芸術大学なども再開された。急務の人材養成のために留学生,研修生が数千人海外へ派遣されている。
アンコール遺跡の保存修復活動が79年9月から開始された。96年にはアンコール地域遺跡整備機構(略称APSARA(アプサラ))が設立され,フランス,日本,アメリカの専門機関が協力して保存修復事業を進めている。農村へ戻ってきた村人たちはゼロからの国家建設に励み,伝統文化が各地で蘇生しつつある。とくに僧侶による平和行進,精神文化研究所の伝統文化精神復興の活動もめざましい。
舞踊では古典舞踊が王宮内で存続してきた。きらびやかな衣装を身につけ,各動作が特定の意味を持ち,伝統音楽の伴奏で踊るが,中でもアプサラ(水の妖精。そのさまはたとえばアンコール・ワットの浮彫に見られる)の踊りは有名である。村落では大勢で踊るロアムトンやロアンボンが知られている。音楽では古典舞踊の伴奏をする宮廷管弦楽団があり,村々の冠婚葬祭には竹製の弦楽器などを奏でる。プノンペンには伝統芸能の学校があり,幼少時から特別の訓練を受ける。ヘンサムリン政権下では,こうした歌舞団が数班編成され,村や町を巡回した。文学では,仏教の教えの本生譚の一部であるベッサンタラジャータカ,箴言や社会訓話などを集めたチュバ・クラム(礼儀典法),チュバ・プロ(男子訓),チュバ・スレイ(女子訓)がある。《ラーマーヤナ》のカンボジア版《リームケー》は人気がある。民話集が7冊1967年に国立仏教研究所から刊行された。
→クメール美術
執筆者:石沢 良昭+編集部
この国の音楽は周辺のタイ,ラオス,ベトナムなどの音楽文化と深いかかわりをもっている。
先史時代には,石や青銅の楽器を用いて音楽が行われていたと推測される。扶南の建国から前アンコール時代にかけて(紀元前後~8世紀),インド文化の強い影響の下に,箏(5~7弦),竹琴,口琴,笛,シンバル,太鼓,つりゴングなど,楽器が製造され,これらの楽器や演奏図が,寺院などの浮彫に多数残されている。9世紀からのアンコール時代は伝統的な音楽文化の最盛期となった。タイによって1432年にアンコールは占領され,宮廷音楽家や踊子を含む9万人に及ぶ捕虜が連れ去られ,クメール文化は15世紀半ばに終りをみる。彼らはやがて,アユタヤ朝に最盛期を迎えるタイの音楽文化の中心的役割を演じることになり,こうしてタイの宮廷を中心に発展した音楽や舞踊は,漸次カンボジアに逆輸入され,革命(1975)以前の伝統的な音楽や芸能に大きな影響を与える結果となった。
カンボジアの音楽は踊りや演劇に付随したり,冠婚葬祭に演奏される機会が多い。古典音楽の場合,演奏の目的により,ピン・ペアトpin peatとモホリmohoriという2種の楽器編成が用いられる。
(1)ピン・ペアト編成(タイの器楽合奏ピー・パートに当たる)は宗教儀式や《ラーマーヤナ》などの古典芸能に用いられるアンサンブルである。今日では,名前の由来する弦楽器(ピンはインドの撥弦楽器ビーナー,ペアトは広く楽器を意味する)は用いず,ロネアトroneat(舟形の木琴,箱形の竹琴など)やコーンkong(大きさの異なる壺形のゴングを円形に組み合わせたもの)などの旋律打楽器を中心に,スラライsralay(ダブル・リードの縦笛)とサンポsampo(樽形の両面鼓),スコールskor(樽形の鋲打ち太鼓),チンching(小型の肉厚シンバル)などのリズム打楽器を配したもので編成される。
(2)モホリ(タイの器楽合奏マホーリーに相当)はピン・ペアトに比し,ポピュラーなアンサンブルで,古典舞踊や演劇の伴奏のほかに,結婚式や宴会などで用いられる。これは,管弦楽であって,旋律打楽器のほかに,クロイkhloy(リコーダー形縦笛),クラプーkrapeu(鰐琴。3弦のチター),トロtro(弓奏の2弦楽器),これにリズム楽器のスコール・ロモネアskor romonea(枠形片面鼓)とチンが加わる。
儀式音楽は器楽合奏が主であるが,古典芸能の場合は歌の入るものもあり,音楽だけで鑑賞されることもある。
カンボジアの少数民族のもつ独自の民俗音楽や民俗芸能は,20世紀後半に入ってから注目され,復活し始めた。これらは仏教の教えをわかりやすく解説したもの,農耕にかかわりのあるもの,動物を題材としたものなどである。また,タイのラム・ウォンに当たるロアンボンという盆踊りのようなものが知られる。
音楽理論はインドの影響下にあり,作品は,チャンワック(リズム型)によって三つに分けられる。このリズム型はインドにおけるテンポの変化や拍の単位の拡大や縮小の理論も意味している。拍子は,歌の場合には多少の拍の伸び縮みはあるが,2拍子の枠に収めることができる。音階は7音音階だが,儀式音楽で7音が用いられるほかはたいていの旋律は5音音階をとっている。
→インド音楽
執筆者:桜井 笙子
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メコン川下流域で文献史料に最初に現れる政体は,メコンデルタに興った扶南(ふなん)である。ダンレーク山脈南方に興った真臘(しんろう)が扶南を兼併し,7世紀中にほぼ現在のカンボジア全域を統合した。8世紀には陸真臘と水真臘の2真臘が漢文史料に現れるが,水真臘はメコンを経由して南シナ海から中国と連絡する地域に興った勢力で,陸真臘は東北タイからゲアンを経由して中国に連絡した地域の勢力と考えられる。アンコール朝はこの水陸の系列を統合し,11世紀にはタイ湾,南シナ海と連絡する大ネットワークを実現させた。14世紀にこのネットワークが崩壊すると,メコン系列とトンレサープ系列に分かれて再統合が進む。17世紀後半からは,ベトナムとシャムがこれに介入し,18世紀にはメコン系列は消滅し,トンレサープ系列の勢力も存続の危機に瀕した。しかし19世紀中葉のドゥオン王が王都ウドンを中心にトンレサープ‐メコンとタイ湾岸を結ぶネットワークを再構築し,フランス領期にこれが拡大されて,現在のカンボジアの領域が完成した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
インドシナ半島南部の国。漢字表記は柬埔寨。9~13世紀にアンコールを首都とする王朝,真臘(しんろう)国が栄え,アンコール・ワット寺院が築かれたが,15世紀には衰退。16世紀にはプノンペンなどに日本町が建設された。1863年フランスの保護国となったが王制は形式的に維持された。1941年日本軍が南部仏印に進駐,45年日本軍の支持でシアヌーク王がカンボジア独立を宣言したが,日本の敗戦で消滅。53年完全独立してカンボジア王国が成立した。70年親米派のロン・ノル将軍が王制を倒しクメール共和国を樹立。しかし,左派・右派の武力対立に加え,ベトナム戦争後のベトナム軍の侵入もあって,長い内戦を展開した。91年国連の仲介で和平協定が成立。4派で構成するカンボジア最高国民評議会(SNC)が発足,13年間の内戦が終結した。93年国連監視下で総選挙を実施,新憲法を採択し,立憲君主制のカンボジア王国が成立。国王はシハモニ。日本との関係は,51年(昭和26)9月,対日講和条約に署名。54年対日賠償請求権放棄に対応して,57年日本は15億円相当の無償経済・技術協力を表明。92年から国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)代表として明石康が活動。国連平和維持活動に自衛隊が参加した。首都プノンペン。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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