カンボジア(英語表記)Cambodia

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精選版 日本国語大辞典 「カンボジア」の意味・読み・例文・類語

カンボジア

  1. ( [英語] Cambodia ) インドシナ半島南部の国。南西部はシャム湾に面し、タイ、ラオス、ベトナムと国境を接する。大部分がメコン川の沖積平野で占められ、米作が盛ん。首都プノンペン。一世紀頃クメール族が扶南を建国、六世紀頃真臘(しんろう)が興亡。九世紀にアンコール時代の隆盛期を迎えた。一八六三年フランスの保護領となり、一九四九年フランス連合内で立憲王国として独立。五四年ジュネーブ協定により完全独立した。七〇年にロン‐ノル政権を経て、七六年新憲法発布に伴い「民主カンボジア」と改称。その後、内戦を経て九三年シアヌークを擁したカンボジア王国が成立した。柬埔寨、柬蒲塞などとあてる。

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改訂新版 世界大百科事典 「カンボジア」の意味・わかりやすい解説

カンボジア
Cambodia

基本情報
正式名称=カンボジア王国Kingdom of Cambodia 
面積=18万1035km2 
人口(2010)=1430万人 
首都=プノンペンPhnom Penh(日本との時差=-2時間) 
主要言語クメール語(カンボジア語) 
通貨=リエルRiel

インドシナ半島の南西隅に位置し,北海道の2倍強の面積をもつ国。カンボジアといえば,王国,敬虔な仏教徒,アンコール・ワットなどで知られていたが,1970年3月のシアヌーク元首の解任により,インドシナ戦争に大きく巻き込まれ,混乱と戦争が続き,鎖国,難民,首都プノンペンの無人化,虐殺という不可解な変事が続発した。93年,新生カンボジア王国が誕生した。カンボジアという呼称は,碑刻文に見られる祖先カンブー・メラーKambu Meraに由来するが,現地音ではカンプチアKampucheaと発音する。民族名称にはクメールKhmerを用いることが多いが,その語源も同じである。

自然環境の特徴を摘記するならば,広大な平野,大河,大湖であろう。メコン川は国内を北から南へS字形に約500kmにわたり貫流し,雨季の流量は乾季の20倍にふくれあがる。トンレ・サップ湖はトンレ・サップ川を通じてメコン川とつながり,増水期にはメコン川の河流が逆流し,湖岸周辺を徐々に冠水しながら,渇水期の約3倍にまで湖の面積を広げる。つまりこの湖は自然の調節槽的役割を果たしている。増水した河流は,中小河川またはプレック(小支流,溝)を通じ河岸より遠い奥地まで浸水し,トラペアン(池,沼)をつくり,耕作を可能としている。メコン川は河川交通(クラティエまで数百トンの船が遡航),穀倉地帯への用水の供給,淡水漁業などの点で人々の生活と深いかかわりを持っている。しかし,森林が全国土の73%を占め,耕地はわずか16%にすぎない。

 地勢では,東側にアンナン(チュオンソン)山脈につながるラタナキリ高原,北側にタイとの国境を西から東に帯状に延びるダンレック山地,西側にはシャム湾にまで続くカルダモーム,エレファン両山脈があって,中央部の平野は縁の浅い盆のようであり,周囲三方が自然の障壁をなしている。これら山地,山脈は,いずれも標高400mから1500mまでと低い。タイとはワダナ隘路などで,ラオスとはメコン川の河谷で,ベトナムとはメコン・デルタを通じて連接している。カンボジアの大地は高温多湿で蒸し暑く,年平均気温が27℃,乾季が12月から5月まで,雨季が6月から11月まで,年降水量は1400mmから2000mmであり,熱帯モンスーン気候である。

クメール族はメコン川中流域から南下して,現在の平地平野部に住むようになった。主として農業に従事し,就業者人口の約7割を占めている。華僑,ベトナム人,チャム族は,帰化政策によりカンボジア国籍を取得している。華僑系住民は約50万人で,首都や地方都市に住み,経済的実権を握ってきた。ベトナム系の人々は約40万人で,おもに南部,都市周辺部に居住し,商工業,漁業に携わってきた。チャム族は約12万人で,メコン河岸等に定住し,漁業,畜産業で生計を立ててきた。チャム族はイスラム教徒であるので,クメール・イスラムと呼称される。少数民族としては,ラタナキリ高原のプノン族,スティアン族,ダンレック山地内のクイ族,カルダモーム山脈のポー族などがいる。これら山岳民族はクメール・ルーKhmer Lou(高地クメール族)と呼ばれ,採集狩猟,焼畑農業により生活している。
クメール族

全人口の8割が農村に定住している。集落は多くが冠水しない自然堤防上にあり,50~80戸で約200~400人規模が平均的な村落である。村の中心部には,パゴダ(寺院),学校などがあり,周囲に村人の家宅,その空間に蔬菜園などが点在し,村落の外側には用水池,小支流があり,水田や畑地が開けている。村は緩やかな血縁・地縁的共同体で,農繁期などには相互扶助もある。家族制度は双系制によるものが多く,養子までを含む大家族であり,共住集団をつくる。日常生活は農作業カレンダーにそって営まれ,田植は早生稲で6月,晩生稲で8月から始まる。住居は1.5mほどの高さの杭上家屋で,木材,竹,シュロの葉で造る。公共施設,富裕者の家は,木造で瓦葺きである。高床住居は湿気と放射熱を避け,床下は農具,牛車,丸木舟の置場であり,家畜小屋でもある。

 農作業は,水牛の引く犂で耕して水を入れ,田植は女性の仕事である。女性はブラウスにサロン(腰巻)をつけ,頭上にクロマー(布切れ)を載せ働く。祭礼や寺院へ行くときには民族衣裳のサンポットを着る。食事は主食が米飯であるが,うどん(ノンバンチョック),少しの野菜と魚,スープ,自家製のプラホック(魚の練物の一種)が添えられ,簡素である。男子は11~12歳になると,寺院に入り,寺子屋修養を受ける。人々は上座部仏教の熱心な信徒である。国内には寺院3153,僧侶6万1104人(1967)がいて,托鉢と喜捨により維持されていた。宗派には伝統派のモハニカイ派と改革派のタマユット派があり,前者が優勢である。村の所々に土着の精霊信仰〈ネアックタ〉神の小祠があり,村人の生活神である。1975年からの民主カンボジア政権下では,仏教を反動的な宗教と決めつけ,寺院を破壊した。同時に伝統的な社会は,居住地変更,集団強制新村,村落解体などの急進的な大改革により根底から壊されてしまった。79年からのカンボジア人民共和国下では,信仰の自由,寺院の復旧と僧侶の復職が徐々に進み,社会全体が再生,回復しつつある。

カンボジアの歴史展開における第1の特色は,諸史料に基づき古代から現代までの歴史考察ができることである。特に早くからインド文化の枠組みを借用して独自のクメール文化を創り出し,インドシナ半島における文化センター的役割を果たしてきた。アンコール遺跡に残る壮大な伽藍と寺院,秀麗な彫刻,浮彫等は,当時の高い文化水準を表している。第2の特色は,アンコール朝が13世紀の最盛期にインドシナ半島のほぼ全域を版図とする大帝国をつくり,近隣諸民族へ政治的・文化的影響を与えたことである。こうした歴史展開によって,その後のメコン川,メナム川の両流域におけるタイ,ラオス,チャム,ベトナムの4民族とクメール族との交流と闘争の航跡および盛衰の展開が明らかとなり,現勢的な枠組みをとらえることができる。

 歴史は次の五つに区分できる。(1)前アンコール時代(紀元前後から802),(2)アンコール時代(802-1432),(3)後アンコール時代(1432-1863),(4)フランス植民地時代(1863-1953),(5)民族国家建設時代(1953年から現在まで)。

インド文明の受容から扶南国の興起とクメール真臘の南下の時代である。南部のメコン・デルタから沿岸地方にかけて扶南が展開し,外港がオケオであった。真臘は3,4世紀ころからメコン川中流域よりダンレック山地を越えて広大な平野部へ南下し,扶南を吸収合併,7世紀前半には現在のカンボジアの範囲を領域とした。政治は地方拠点プラ(城市)の連合体制で,そのため隆替が激しく,705年ころ水真臘と陸真臘に分裂,国内は群雄が割拠したが,ジャヤバルマン2世が802年に新王朝を宣言した。

アンコールの地に王都を定め,約550年にわたり都城と寺院を次々と造営し続けた時代で,それらがアンコール遺跡にあたる。ヤショーバルマン1世(在位889-910ころ)は小丘プノンバケンを中心に一辺4kmの方形環濠都城を最初にこの地に建設したので,王名にちなんで王都を以後ヤショーダラプラと呼称した。当時のクメール族の伝統的な居住地域は,北は現タイのコーラート高原のムン川流域から,南はメコン川デルタ地帯(現,ホー・チ・ミン市付近)までの範囲であった。しかし,11世紀にはメナム川流域のロッブリーまで伸張し,12世紀には同流域をさらに北漸してスコータイまでを属領とした。1177年にチャンパ王国が国内混乱の隙を衝き,アンコール王都を攻撃し,一時占領した。ジャヤバルマン7世(在位1181-1218?)治下では,道路網が整備され,121ヵ所の宿駅(郵亭)や102ヵ所の施療院が建設された。その領域(属領も含む)は,西はメナム川流域北部のスコータイ,南はシャム湾岸のマレー半島北部地域,北はビエンチャン付近,東はチャンパまでに拡大し,インドシナ半島をほぼ席巻する大帝国となった。ジャヤバルマン7世の死後,帝国は衰退へ向かう。1296年に来訪した周達観の見聞録《真臘風土記》は貴重な当時の文献である。14世紀以降タイのアユタヤ朝がたびたびアンコールを攻略し,ついに1432年に王都が陥落した。アンコール朝は,タイとのたび重なる激戦で土台が揺らぎ,政治上・社会構造上のさまざまな要因が輻湊し,崩壊した。

アンコール陥落後の首都がスレイサントール→プノンペン→ロベック→ウドンと変遷したごとく,タイとベトナムに挟撃され,余喘(よぜん)を保っていた時代である。アユタヤ朝は1474年以降宗主国となり,侵寇と干渉を繰り返し,18世紀末には北西部,北部の諸州をアユタヤ領に編入した。一方,こうしたアユタヤの重圧に対抗すべく,ベトナムのフエ朝(グエン(阮)氏)を引き入れたが,18世紀末までに逆にメコン・デルタおよび南部諸州を蚕食されてしまった。こうして両属状態におかれていたが,1841年ベトナムのグエン朝へ併合された。45年に地方官吏,住民たちがベトナム化政策に反対して蜂起し,カンボジア再興のきっかけとなった。なお16世紀から17世紀初めに,プノンペンやピニャールに日本人町ができ,最盛期には300~400人が居留していた。また,森本右近太夫一房(加藤清正の旧臣の子)がアンコール・ワットを祇園精舎と考え,1632年にはるばる参詣していたことが,回廊に残された落書によってわかる。

1863年フランス領コーチシナ総督グランディエールはウドンの王宮に乗り込み,ノロドム王を説得して保護条約に署名させた。さらに84年にはフランスの支配強化を盛り込んだ新協約を締結した。これを契機に反仏蜂起が全土に広がり,協約の実施は一時延期された。しかし,87年にフランス領インドシナ連邦に編入され,その一構成国となった。農民には人頭税か地租が課せられ,賦役として土木工事などに駆り出された。肥沃で広大な土地は,フランス人に払い下げられ,ゴムや米のプランテーションが開かれた。道路等の建設,公衆衛生の改善,品種の改良,学校の設立などが行われたが,どれも植民地体制の円滑な運営のためのものであり,一部を除いて住民には直接関係がなかった。総論的にいえば,経済上の搾取,教育における愚民政策,社会上の放置主義が見られた。1940年に日本軍が進駐した後,タイとの国境紛争ではフランス(ビシー政権)が簡単に北西部諸州をタイに割譲してしまった。45年3月,シアヌーク王は独立宣言を発表したが,日本の敗戦によるフランスの復帰で取り消されてしまった。内政自治を認めた暫定条約(1946),憲法の制定(1947),国民議会の成立(1948)などあったが,フランスは外交,財政,軍事を握っていた。シアヌーク王は52年に合法クーデタを断行して全権を掌握し,自ら独立運動の先頭に立った。この強硬姿勢によって国際世論を背景にフランスにいくつもの譲歩を認めさせ,53年11月9日,カンボジア王国として独立した。

東西両陣営が角逐するインドシナ半島において,平和を維持しながら国を存立させる方策は,非同盟中立政策であった。インドシナ問題に関する1954年のジュネーブ会議を通じ,大国との非同盟およびタイ,ベトナム両隣国との闘争回避が外交の基本路線となった。特にベトナム,ラオスからの戦火を食い止めるため,東南アジア条約機構(SEATO)への不参加表明,中国訪問(ともに1956),中立宣言法制定(1957),文書交換による中立保障の提案(1962),現国境線承認の要請(1967)など,中立政策が模索された。

 一方,内政では国民の総意が反映できる新体制として,人民社会主義共同体(略称サンクム)が1955年に結成され,退位したシアヌークがその総裁に就任した。サンクムは王制,独立,仏教を基軸に王制社会主義を目ざす新国民運動であった。同年の総選挙で国会の全議席を獲得したサンクムは,国民大会,大衆接見,社会経済開発計画,王国協同組合,社会主義青年団など,次々と新改革を実行した。しかし,外国からの多額の援助は弊害が多いとして,63年から自力更生の経済政策を打ち出したものの,自力更生策は経済の実情を無視した路線であり,経済を停滞させ,財政危機を招き,69年には経済自由化政策へ転換した。

 立国の2本の柱(中立政策とサンクム)は,中国寄りの紅色中立政策と急進的なサンクムの自力更生策に変わり,この舵取りをめぐってサンクム内部の左右両派の論争と確執が表面化した。右派のロンノル政権は70年3月にシアヌーク元首を解任し,アメリカ,南ベトナムと手を握った。一方,シアヌークとクメール・ルージュを中心にカンボジア(カンプチア)民族統一戦線が北京で結成された。

 ロンノル政権は内部抗争にあけくれ,75年4月アメリカ軍がプノンペンから撤退すると同時に崩壊した。プノンペンに入った解放勢力は直ちに約200万人の市民を強制的に農村へ移住させ,農作物増産のための新村の建設,サハコー(集団協同労働組合)の設置,公私生活のコミューン化,サハコー内での人的選別,オンカー(革命組織)による支配・監視体制,貨幣の廃止,国内移動の禁止など,それまでのカンボジア社会を無視した大改革を断行した。76年公布の新憲法は国名を民主カンボジアと改め,農民と労働者の国家と規定したが,それは作文であった。サハコーは強制労働キャンプさながらであり,富裕・知識階級の敵視および都市住民の異環境での虐待は,多くの人々を死に追いやった。革命組織の内部では権力闘争が起き,文化大革命の影響を受けたポルポトPol Pot派が他派の幹部を粛清した。77年12月にはベトナムと断交し,国境紛争が激化した。

 粛清されずに残った親ベトナム派勢力は78年12月にカンボジア救国民族統一戦線を結成し,ベトナム軍に支援されて,79年1月,プノンペンを占領,カンボジア人民共和国(ヘンサムリンHeng Samrin政権)が成立した。ポルポト派勢力はタイ国境地帯で反ベトナムのゲリラ戦を続けながら,82年7月にはシアヌークなどの第三勢力を含めた反ベトナム3派による連合政府を発足させた。こうした内戦と政権交代に伴う混乱のため,多くの難民が生じた。

1947年以来のカンボジア王国は立憲君主制(シアヌーク国家元首),70年からのクメール共和国は共和制,75年からの民主カンボジアは人民共和制をとった。ヘンサムリン政権は79年1月に人民共和国を宣言した。同政権は79年2月にベトナムと平和友好条約を結び,ベトナム軍20万人のカンボジア駐留を合法化した。81年5月に第1回総選挙が実施され,国民議会が新憲法を採択,国家評議会(議長が国家元首),閣僚評議会(内閣に相当し,議長が首相),地方人民委員会などを定め,行政機構が整えられた。89年4月に国名を〈カンボジア国〉に変更,新国旗,国章,国家を規定,国教を仏教と定め,死刑を廃止した。合法政党の人民党はクメール抵抗派,かつての人民党の流れをくみ,ベトナム共産党,ラオス人民革命党と兄弟関係にあった。人民革命軍(1986年推計で約3.5万人。89年人民軍と改称)はベトナム軍の支援を受け,タイ国境付近で3派のゲリラ軍と戦闘を展開した。ほかに地方軍,民兵などがあった。

 一方,同床異夢の3派連合政府(民主カンボジア)は,反ベトナム・容共のポルポト派,反ベトナム・反共で共和制を目ざすソンサン(元国立銀行総裁)派,反ベトナム・反共で旧王制に共感を寄せるシアヌーク派から成り,大統領にシアヌーク,副大統領にキューサンファン,首相にソンサンが就任した。この連合政府には行政機関がなく,3派の軍隊は別々にキャンプ地を構えた。しかし,連合政府は国連で正統政府としての議席を占め,約75ヵ国が承認した。3派連合政府は90年2月に国民政府と名称を改めた。

 両政権の軍事的対決は国際地域紛争の様相を呈し,ヘンサムリン政権側をベトナム,ソ連,東欧諸国が支援,国民政府側を中国,ASEAN諸国が後押しし,日本は後者を承認した。

 1989年に駐留ベトナム軍が完全撤退し,平和への気運が高まった。冷戦の終結も追い風となり,ヘンサムリン政権のフンセン首相とシアヌーク国王の直接会議がパリ郊外で開かれ,国連および関係諸国も紛争解決に向けての取り組みを始めた。その結果,90年9月にカンボジア4派の合意で最高国民評議会(SNC)が設置された。これを受けて国連はカンボジアの代表権をSNCに付与した。SNCは4派対等ではなく,実効支配しているプノンペン政権と国民政府(3派連合政権)の二つを軸に組み立てられた。91年10月,19ヵ国の代表が参加してパリ和平協定が調印され,国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が設立され,18ヵ月にわたり和平達成のため約2万1000人の要員を動員し,平和維持活動にあたった。91年11月にはシアヌークが12年ぶりに帰国,SNC議長として4派のまとめ役をつとめた。93年5月,総選挙が行われ,フンシンペック党(FUNCINPEC=独立,中立,平和,協力のための国民統一戦線)が58議席,旧プノンペン政権の人民党が51議席,仏教自由民主党が10議席,モリナカ党(カンボジア民族解放運動)が1議席を獲得した。そして同年9月,新憲法が公布され,シアヌークが国王に復帰,カンボジア王国が誕生した。新政府は第一党のフンシンペック党と第二党の人民党が大連立を組み,発足当初は安定した政権運営であったが,94年ごろから連立政権内で確執が続き,97年7月,両勢力が衝突した。

経済の基盤は農業である。農家1戸あたりの農地は平均3.6haで,人力(家族労働)と畜力(水牛2頭)で耕せる範囲の面積である。全耕地の約82%が米田で,残りはチャムカー(畑作地)である。農業関係では1969年の米の生産高が約325万t(1955年の2倍),灌漑面積約12万ha(1955年の4倍強)であった。しかし,無肥料で粗放的農業であるため天候に左右されやすい。植民地時代に米とゴムの大規模なプランテーションが開かれたが,ゴムは1969年に5万1000t(1955年の2倍強)の生産高であった。トウモロコシは収穫高11万7000t(1968)で,人々の食糧でもある。これら米,ゴム,トウモロコシが輸出の大部分を占め,外貨獲得源となった。就労人口の比率からいえば,農業・漁業就業者が約70%である。

 サンクム路線にそって,1956年からの経済開発二ヵ年計画,60年からの五ヵ年計画,68年からの第2次五ヵ年計画など,経済計画が実施された。東西両陣営からの多額の援助は生産意欲の減退,汚職,中立政策への影響などにつながった。1963年にアメリカからの援助を拒否し,中国方式の自力更生政策が開始された。工場,銀行,貿易の国有化とそれに伴う混乱は経済停滞を招き,財政危機を引き起こしたため,69年から経済自由化政策に転換した。外国援助は,アメリカが道路建設と食糧購入費等,フランスが教育協力とコンポンソム港建設,日本が農業・畜産・医療の3センター建設,中国が紡績などの諸工場,ソ連が病院という内容であった。1970-75年と1978-89年は内戦のため,農業生産は大幅な減少となり,食糧不足が生じた。民主カンボジア治下では,国民皆労の方針で強制的な農村移住による食糧増産運動と耕地灌漑化が展開されたが,数値の公表はない。カンボジア人民共和国治下では,人々はそれぞれ帰郷して連帯組合を設立し,農業生産の回復に努めた。80年3月には新通貨が発行された。漁業活動も再開され,諸工場の復旧が進められた。

 農民は1979年に解放されて1975年以前の居住地の村に戻り,ゆるやかな集団営農方式により農業を行った。農村では約10家族規模の連帯グループ(クロム・サマキ)が組織され,農地を共同で耕作し,収穫物が作業に応じて分配されるという一種の委託請負制度が実施された。農民には小規模ながら個人所有の農地を認め,生産意欲を高めた。連帯グループの数(1984)は10万2000,農家134万戸が加入している。籾米生産量は84年で197万tと推計され,1950年代後半の水準にまで後退した。こうした農業生産の低水準は,第一に内戦等による水利灌漑網の破壊と旧耕作地の未回復がその原因である。第二に農業復興を推進する人材,陣容の不足と,栽培技術の改善・品種改良・科学肥料の不足などの問題点がある。また,ポルポト治下における社会施設(橋,道路,病院,学校など)の損壊が国家再建を困難にした。

 80年代のカンボジアは,ソ連,東欧,ベトナムから援助を受け入れ,経済復興を行ってきたが,89年以降これら社会主義諸国からの援助が停止され,財政が悪化し,89年のインフレ率が50%に対して91年には150%に達し,人々の生活を圧迫した。92年からUNTACの活動が始まり,西側からの復興援助が本格的となり,市場経済化が進んだが,そのことが農村と都市部の貧富の格差を拡大した。GDP成長率は93年に4%であったが,95年には7.6%となった。しかし,60年代と同様,外国援助依存型が続いており,経済的自立からはほど遠い。外国人観光客は回復しつつある。96年から第1次経済社会開発五ヵ年計画(1996-2000)が始まり,経済自立,貧困の克服,人材養成とインフラストラクチャーの整備が掲げられている。

植民地時代の人材養成の欠落は,独立後の国内建設にブレーキをかけている。1937年に寺子屋を含め小学校が117校,中高等教育ではプノンペンにリセ・シソワット1校があるのみであった。独立後,教育が国の重要施策となり,69年の教育予算は国家予算の22%を占めた。小学校5618校(1955年の2倍強),中高校175校(1955年の15倍),技術学校99校,大学9校,就学人口約117万であった。民主カンボジア政権下では,労農・政治学級を除きいっさい廃止された。ヘンサムリン政権下では信仰の自由が認められ(憲法第6条),各地で寺院の再建が始まり,僧侶の托鉢の姿が見られるようになった。学校は79年9月から再開され,小学校5年(義務教育,二部授業),初等中学3年,高等中学3年である。97年からはこれを六・三・三制へ移行する。小学校は全国に約4300校,生徒数は162万人に達する。プノンペン大学や師範学校,医科大学,芸術大学なども再開された。急務の人材養成のために留学生,研修生が数千人海外へ派遣されている。

 アンコール遺跡の保存修復活動が79年9月から開始された。96年にはアンコール地域遺跡整備機構(略称APSARA(アプサラ))が設立され,フランス,日本,アメリカの専門機関が協力して保存修復事業を進めている。農村へ戻ってきた村人たちはゼロからの国家建設に励み,伝統文化が各地で蘇生しつつある。とくに僧侶による平和行進,精神文化研究所の伝統文化精神復興の活動もめざましい。

 舞踊では古典舞踊が王宮内で存続してきた。きらびやかな衣装を身につけ,各動作が特定の意味を持ち,伝統音楽の伴奏で踊るが,中でもアプサラ(水の妖精。そのさまはたとえばアンコール・ワットの浮彫に見られる)の踊りは有名である。村落では大勢で踊るロアムトンやロアンボンが知られている。音楽では古典舞踊の伴奏をする宮廷管弦楽団があり,村々の冠婚葬祭には竹製の弦楽器などを奏でる。プノンペンには伝統芸能の学校があり,幼少時から特別の訓練を受ける。ヘンサムリン政権下では,こうした歌舞団が数班編成され,村や町を巡回した。文学では,仏教の教えの本生譚の一部であるベッサンタラジャータカ,箴言や社会訓話などを集めたチュバ・クラム(礼儀典法),チュバ・プロ(男子訓),チュバ・スレイ(女子訓)がある。《ラーマーヤナ》のカンボジア版《リームケー》は人気がある。民話集が7冊1967年に国立仏教研究所から刊行された。
クメール美術
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この国の音楽は周辺のタイ,ラオス,ベトナムなどの音楽文化と深いかかわりをもっている。

 先史時代には,石や青銅の楽器を用いて音楽が行われていたと推測される。扶南の建国から前アンコール時代にかけて(紀元前後~8世紀),インド文化の強い影響の下に,箏(5~7弦),竹琴,口琴,笛,シンバル,太鼓,つりゴングなど,楽器が製造され,これらの楽器や演奏図が,寺院などの浮彫に多数残されている。9世紀からのアンコール時代は伝統的な音楽文化の最盛期となった。タイによって1432年にアンコールは占領され,宮廷音楽家や踊子を含む9万人に及ぶ捕虜が連れ去られ,クメール文化は15世紀半ばに終りをみる。彼らはやがて,アユタヤ朝に最盛期を迎えるタイの音楽文化の中心的役割を演じることになり,こうしてタイの宮廷を中心に発展した音楽や舞踊は,漸次カンボジアに逆輸入され,革命(1975)以前の伝統的な音楽や芸能に大きな影響を与える結果となった。

 カンボジアの音楽は踊りや演劇に付随したり,冠婚葬祭に演奏される機会が多い。古典音楽の場合,演奏の目的により,ピン・ペアトpin peatとモホリmohoriという2種の楽器編成が用いられる。

(1)ピン・ペアト編成(タイの器楽合奏ピー・パートに当たる)は宗教儀式や《ラーマーヤナ》などの古典芸能に用いられるアンサンブルである。今日では,名前の由来する弦楽器(ピンはインドの撥弦楽器ビーナー,ペアトは広く楽器を意味する)は用いず,ロネアトroneat(舟形の木琴,箱形の竹琴など)やコーンkong(大きさの異なる壺形のゴングを円形に組み合わせたもの)などの旋律打楽器を中心に,スラライsralay(ダブル・リードの縦笛)とサンポsampo(樽形の両面鼓),スコールskor(樽形の鋲打ち太鼓),チンching(小型の肉厚シンバル)などのリズム打楽器を配したもので編成される。

(2)モホリ(タイの器楽合奏マホーリーに相当)はピン・ペアトに比し,ポピュラーなアンサンブルで,古典舞踊や演劇の伴奏のほかに,結婚式や宴会などで用いられる。これは,管弦楽であって,旋律打楽器のほかに,クロイkhloy(リコーダー形縦笛),クラプーkrapeu(鰐琴。3弦のチター),トロtro(弓奏の2弦楽器),これにリズム楽器のスコール・ロモネアskor romonea(枠形片面鼓)とチンが加わる。

 儀式音楽は器楽合奏が主であるが,古典芸能の場合は歌の入るものもあり,音楽だけで鑑賞されることもある。

 カンボジアの少数民族のもつ独自の民俗音楽や民俗芸能は,20世紀後半に入ってから注目され,復活し始めた。これらは仏教の教えをわかりやすく解説したもの,農耕にかかわりのあるもの,動物を題材としたものなどである。また,タイのラム・ウォンに当たるロアンボンという盆踊りのようなものが知られる。

 音楽理論はインドの影響下にあり,作品は,チャンワック(リズム型)によって三つに分けられる。このリズム型はインドにおけるテンポの変化や拍の単位の拡大や縮小の理論も意味している。拍子は,歌の場合には多少の拍の伸び縮みはあるが,2拍子の枠に収めることができる。音階は7音音階だが,儀式音楽で7音が用いられるほかはたいていの旋律は5音音階をとっている。
インド音楽
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百科事典マイペディア 「カンボジア」の意味・わかりやすい解説

カンボジア

◎正式名称−カンボジア王国Preah Reach Ana Pak Kampuchea/Kingdom of Cambodia。◎面積−18万1035km2。◎人口−1505万人(2010)。◎首都−プノンペンPhnom Penh(124万人,2008)。◎住民−クメール人90%,華人50万人,ベトナム人40万人のほか,少数民族としてプノン人など。◎宗教−上座部仏教。◎言語−クメール語(公用語)が大部分。◎通貨−リエルRiel。◎元首−国王,シハモニ Norodom Sihamoni(2004年10月即位)。◎首相−フン・センHun Sen(1951年生れ,1993年9月第2首相就任,1998年11月首相就任,2004年再任,2008年3選,2013年4選)。◎憲法−1993年9月公布。◎国会−二院制。上院(定員61,任期6年),下院(定員123,任期5年)。◎GDP−86億ドル(2007)。◎1人当りGDP−454ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−68.9%(2003)。◎平均寿命−男69.1歳,女74.5歳(2013)。◎乳児死亡率−43‰(2010)。◎識字率−78%(2008)。    *    *東南アジア,インドシナ半島の王国。メコン川流域とトンレ・サップ湖の周辺に平野が広がり,北東のタイ国境にはダンレック山地,南東のベトナム国境に高原地帯がある。シャム湾に面するカルダモーム山地が,夏の南西モンスーンをさえぎる。住民は約90%がカンボジア人(クメール人)。農業国で米,ゴムが主産物。ほかにトウモロコシ,木材,コショウ,タバコなどの産もある。漁業も盛ん。リン,鉄などの鉱産があり,タバコ製造,製油工業が行われる。〔歴史〕 1世紀にインド文明の影響下に扶南(中国名)国が興り,7世紀真臘(しんろう)がこれに代わったが,やがて分裂した。ジャヤバルマン2世(在位802年―850年)が統一国家アンコール朝を実現,15世紀までアンコール・ワットなどに象徴される強国として繁栄した。15世紀以降タイとベトナムに国土を蚕食され,1863年フランスの保護国(フランス領インドシナ)となった。1945年独立を宣言したが,フランスに阻止された。1949年フランス連合内で独立,1955年完全独立を達成した。1960年憲法を改正,シアヌークが元首となった。1970年ロン・ノル首相のクーデタでシアヌークは追放されたが,カンボジア民族統一戦線を結成して武力闘争を挑み,1975年プノンペンを解放した。シアヌークを元首とする新政権の下でクメール・ルージュ(ポル・ポト派)が実権を握り,都市住民の強制移住,通貨廃止など特異な国造りが進められた。ポル・ポト派の支配下にあった1970年代後半,国内では粛清や強制労働などにより150万人を超える死者が出たとされる。反ポル・ポト派はベトナム軍の支援を得て1979年プノンペンを制圧,新政権を樹立した。プノンペンを脱出したポル・ポト派は反ベトナム勢力を結集し,1982年シアヌークを大統領とする3派連合政府を樹立,カンボジア人民共和国のヘン・サムリン政権や駐留ベトナム軍に対するゲリラ活動を行って,内戦が長く続いた。〔内戦終結後〕 1991年国連の主導下に和平協定が結ばれ,UNTAC(アンタック)(国連カンボジア暫定統治機構)の支援下に1993年制憲議会選挙が行われ,シアヌークの息子ラナリットの率いる民族統一戦線(フンシンペック党)と,フン・セン(旧ヘン・サムリン派)の率いるカンボジア人民党が連立政権を樹立した。同年新憲法が制定され,シアヌークを国王に新生カンボジア王国が誕生したが,ポル・ポト派は参加しなかった。1994年ポル・ポト派は非合法とされ,幹部も含め投降者が相次いだ。1997年,政府ではラナリット第1首相が追放され,ポル・ポト派ではポル・ポトが同派内の裁判で終身刑を宣告された(1998年死亡)。1998年7月選挙で人民党が勝利し,11月に新連立政権が発足,フン・センが首相,ラナリットは国会議長となった。2001年8月,カンボジア上下両院で,ポル・ポト派の犯罪を裁くための特別法廷の設置法が可決された。2003年5月,国連総会は特別法廷設置決議案を採択。2003年7月の選挙でも,第一党の人民党がさらに議席数をのばした。2004年10月,シアヌーク国王が退位し,息子のシハモニ(前ユネスコ大使)が新国王に即位。経済は,1999年4月にASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟。さらに2004年10月,WTO(世界貿易機関)に加盟,世界金融危機の影響を受けた2009年がマイナス成長であったが,この年をのぞいて2000年代から10年間平均成長率7.7%と好調で,縫製業,農業が貢献している。2011年9月の洪水で農業が大きな被害を受けたにも拘わらず同年3%台で成長を記録した。海外からの直接投資も順調に伸びており,持続的な経済成長が続いている。2008年,タイとの国境にあり,長年の懸案であったヒンズー寺院遺跡ブレアビヒア寺院が世界文化遺産に登録されたのを機に,タイは軍隊を派遣,カンボジアも軍を送り対峙した。2011年2月両軍の間で軍事衝突に発展,数千人が避難民となり,民間人を含めた死傷者が出た。
→関連項目東南アジア

カンボジア[人]【カンボジア】

クメール

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旺文社世界史事典 三訂版 「カンボジア」の解説

カンボジア
Cambodia

インドシナ半島南部,シャム湾に面する国。首都プノンペン
クメール人の住地で紀元前後からインド文化の影響下に扶南などの国家がおこり,6世紀には真臘 (しんろう) が台頭した。真臘は繁栄して唐とも通交し,9世紀には都城アンコール−トム,12世紀にはアンコール−ワットを造営した。しかし,シャム(タイ)・ベトナムの圧迫でしだいに衰え,1863年フランスの保護国とされた。1945年独立を宣言。1949年フランス連合内の独立が承認され,54年のジュネーヴ会議の結果,中立が認められた。1970年ロン=ノル派のクーデタ以後内戦が続き,75年4月シアヌークを指導者とする解放勢力の勝利に終わった。1976年1月新憲法を発布し,国名を民主カンプチアとし,シアヌーク元首は引退した。同年に成立した赤色クメールのポル=ポト政権は親中国政策をとり,農村への大量強制移住や大量虐殺を行ったため,79年にはヴェトナムの支援を受けたヘン=サムリンによって,カンボジア人民共和国が成立した。これに対し,1982年にはポル=ポト,シアヌーク,ソン=サンの3派が連合して,民主カンボジア連合政府(反ヴェトナム三派連合政府)を樹立した。1991年,カンボジア和平協定が結ばれ,国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC (アンタック) )が設立,明石康代表が着任した。1993年に選挙が実施され,王政に復帰,シアヌークが国王となった。これらの内戦の過程で100万人以上といわれるヴェトナム・カンボジア難民が発生した。1998年にはポル=ポトが病死し,ポト派の反政府闘争は終えんした。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カンボジア」の解説

カンボジア
Kampuchea[カンボジア],Cambodia[英]

メコン川下流域で文献史料に最初に現れる政体は,メコンデルタに興った扶南(ふなん)である。ダンレーク山脈南方に興った真臘(しんろう)が扶南を兼併し,7世紀中にほぼ現在のカンボジア全域を統合した。8世紀には陸真臘と水真臘の2真臘が漢文史料に現れるが,水真臘はメコンを経由して南シナ海から中国と連絡する地域に興った勢力で,陸真臘は東北タイからゲアンを経由して中国に連絡した地域の勢力と考えられる。アンコール朝はこの水陸の系列を統合し,11世紀にはタイ湾,南シナ海と連絡する大ネットワークを実現させた。14世紀にこのネットワークが崩壊すると,メコン系列とトンレサープ系列に分かれて再統合が進む。17世紀後半からは,ベトナムとシャムがこれに介入し,18世紀にはメコン系列は消滅し,トンレサープ系列の勢力も存続の危機に瀕した。しかし19世紀中葉のドゥオン王が王都ウドンを中心にトンレサープ‐メコンとタイ湾岸を結ぶネットワークを再構築し,フランス領期にこれが拡大されて,現在のカンボジアの領域が完成した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「カンボジア」の解説

カンボジア

インドシナ半島南部の国。漢字表記は柬埔寨。9~13世紀にアンコールを首都とする王朝,真臘(しんろう)国が栄え,アンコール・ワット寺院が築かれたが,15世紀には衰退。16世紀にはプノンペンなどに日本町が建設された。1863年フランスの保護国となったが王制は形式的に維持された。1941年日本軍が南部仏印に進駐,45年日本軍の支持でシアヌーク王がカンボジア独立を宣言したが,日本の敗戦で消滅。53年完全独立してカンボジア王国が成立した。70年親米派のロン・ノル将軍が王制を倒しクメール共和国を樹立。しかし,左派・右派の武力対立に加え,ベトナム戦争後のベトナム軍の侵入もあって,長い内戦を展開した。91年国連の仲介で和平協定が成立。4派で構成するカンボジア最高国民評議会(SNC)が発足,13年間の内戦が終結した。93年国連監視下で総選挙を実施,新憲法を採択し,立憲君主制のカンボジア王国が成立。国王はシハモニ。日本との関係は,51年(昭和26)9月,対日講和条約に署名。54年対日賠償請求権放棄に対応して,57年日本は15億円相当の無償経済・技術協力を表明。92年から国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)代表として明石康が活動。国連平和維持活動に自衛隊が参加した。首都プノンペン。

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