丸山晩霞(読み)まるやま ばんか

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「丸山晩霞」の解説

丸山晩霞 まるやま-ばんか

1867-1942 明治-昭和時代前期の洋画家
慶応3年5月3日生まれ。本多錦吉郎(きんきちろう)の彰技堂などでまなび,明治美術会展に水彩画出品。ヨーロッパ遊学後,明治35年太平洋画会の創立にくわわる。40年大下藤次郎らと日本水彩画会研究所を設立。昭和17年3月4日死去。76歳。信濃(しなの)(長野県)出身本名は健作。作品に「白馬神苑」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の丸山晩霞の言及

【大下藤次郎】より

…太平洋画会の設立に参加し,また05年に春鳥会を創設し,雑誌《みづゑ》を創刊。07年には丸山晩霞(ばんか)(1867‐1942)らと日本水彩画研究所を設立するなど,水彩画の普及啓蒙に大きな役割を果たした。代表作は《穂高山の麓》など。…

【水彩】より


[近代日本の水彩]
 日本では《イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ》の特派員として幕末に来日したイギリス人ワーグマンに学んだ高橋由一,五姓田(ごせだ)芳柳(1827‐92),その次男の義松などが洋風水彩画の端緒を作り,浅井忠は油彩のほか水彩にもすぐれていた。また1907年には大下藤次郎,丸山晩霞(ばんか)(1867‐1942)らの手で日本水彩画研究所が設立され,その後の水彩の普及,発展に大きく貢献した。【千足 伸行】。…

【明治・大正時代美術】より

…これらの中では,《天平の面影》(1902)や《蝶》(1904)を描いた藤島武二と,彼の影響を受けて《海の幸》(1904)や《わだつみのいろこの宮》(1907)のように詩情豊かな浪漫的な作風をうち出した青木繁が傑出している。 明治美術会にも,欧米に学んだ中村不折,満谷(みつたに)国四郎(1874‐1936),吉田博(1876‐1950),鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)(1874‐1941),中川八郎(1877‐1922),河合新蔵(1867‐1936),丸山晩霞(1867‐1942),大下藤次郎などが現れて,1901年太平洋画会を興し,白馬会に対抗した。しかし07年文部省美術展覧会(文展)が設立されると,黒田のアカデミックな写実に印象派の色彩を加えた明るい外光主義の画風,すなわち美術学校と白馬会の画風が,日本のアカデミズムとして洋画界を支配するようになっていった。…

※「丸山晩霞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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