本多 錦吉郎
ホンダ キンキチロウ
明治・大正期の洋画家
- 生年
- 嘉永3年12月2日(1851年)
- 没年
- 大正10(1921)年5月26日
- 出生地
- 江戸・青山
- 別名
- 別号=江涯,契山
- 経歴
- もと広島藩士。慶応3年藩命により英国人について英語を学び、明治3年藩校の英語教師となるが、まもなく辞す。5年工部省測量司見習生となるが病気のため広島に帰郷。7年洋画を志して上京、国沢新九郎の画塾彰技堂に入り、のち塾頭となり、9年国沢没後彰技堂を引き継ぎ、主宰。22年明治美術会創立に参加。23年第3回内国勧業博で「羽衣天女図」が褒状を受ける。その後陸士、東京高師などで画学教官をつとめ、主に教育面で活躍し、後進を指導。門下生からは丸山晩霞、小川芋銭など多くの画家を輩出した。晩年は造園にも関心をもち、著述がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
本多錦吉郎 ほんだ-きんきちろう
1851*-1921 明治-大正時代の洋画家。
嘉永(かえい)3年12月2日生まれ。もと安芸(あき)広島藩士。国沢新九郎の画塾彰技堂でまなび,明治10年師の没後は画塾をひきつぐ。陸軍士官学校,東京高師などの教師をつとめ,晩年は庭園設計も手がけた。門下に小川芋銭(うせん)らがいる。大正10年5月26日死去。72歳。号は契山。作品に「羽衣天女図」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
本多 錦吉郎 (ほんだ きんきちろう)
生年月日:1850年12月2日
明治時代;大正時代の洋画家
1921年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の本多錦吉郎の言及
【明治・大正時代美術】より
…
[明治美術会と白馬会]
明治10年代の後半,洋画家たちは一時息をひそめたが,この間にヨーロッパに渡った山本芳翠(フランス),原田直次郎(ドイツ),松岡寿(イタリア)らが帰国し,洋画界の新しい活動力となる。彼らは1889年浅井忠,小山正太郎,本多錦吉郎(きんきちろう)(1850‐1921。国沢新九郎の彰技堂に学んだ),曾山幸彦(そやまさちひこ)(1859‐92),川村清雄(きよお)(1852‐1934)らと最初の洋画家の団体である[明治美術会]を結成,展覧会を開いて洋画の積極的な啓蒙活動がくりひろげられることになる。…
※「本多錦吉郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」