日本大百科全書(ニッポニカ) 「東条英機内閣」の意味・わかりやすい解説
東条英機内閣
とうじょうひできないかく
(1941.10.18~1944.7.22 昭和16~19)
第三次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が対英米開戦方針をめぐる閣内不統一のため総辞職したあと、木戸幸一内大臣の推挙で東条英機が組織した内閣。木戸は、主戦論者の東条でなければ陸軍を抑えて戦争を回避することができないと判断したと日記に記しているが、東条内閣は逆に欧州大戦の好機に乗じて太平洋地域の制圧を目ざす内閣となった。東条は現役軍人のまま陸相、内相を兼ねて独裁的権力をもち、外相東郷茂徳(とうごうしげのり)、蔵相賀屋興宣(かやおきのり)、海相嶋田繁太郎(しまだしげたろう)、法相岩村通世(いわむらみちよ)、農相井野碩哉(いのひろや)、商工相岸信介(きしのぶすけ)らを任命した。1941年11月5日の御前会議で対米英蘭(らん)開戦を12月初旬とすることを決定、他方で来栖三郎(くるすさぶろう)を特派大使として米国との交渉を続けた。しかし米側がハル・ノートを提出して、日本の中国、仏印からの無条件即時撤退、多角的不可侵条約などを要求すると、12月8日ハワイの真珠湾に奇襲をかけて開戦に踏み切った。緒戦の勝利で戦争を太平洋全域に拡大、そのため戦争指導体制と国民統制の強化が必要となった。1942年4月翼賛総選挙を実施し、5月には翼賛政治会を結成して政党の御用化を図るとともに、大政翼賛会、大日本翼賛壮年団などによって院内外の政治活動を統制した。1941年12月には「言論出版集会結社等臨時取締法」を公布して国民の自由を極端に制限し、1942年8月には町内会、部落会、隣組に大政翼賛会の世話役を置き、翌年9月には大政翼賛会町内会部落会指導委員の設置を義務づけ、国民を完全に掌握、動員する体制をつくった。1942年11月には大東亜省を設置、東郷外相はこれに反対して辞職した。1943年11月、商工省、企画院などを統合し、軍需省を新設して航空機生産の急増を図った。他方、1942年12月中国の汪兆銘(おうちょうめい)政権を参戦させたのをはじめ、占領地の政権を戦争に協力させるため「独立」を約束し、1943年11月、「戦争完遂と大東亜共栄圏確立との牢固(ろうこ)たる決意を闡明(せんめい)」(5月31日御前会議での東条の説明)するため、大東亜会議を開催した。戦局の悪化、とくに1944年7月のサイパン陥落とともに重臣層の反東条機運が高まり、海軍部内の嶋田海相排撃の空気を利用して倒閣運動が展開され、7月18日総辞職し、22日小磯国昭(こいそくにあき)内閣が成立した。
[佐々木隆爾]
『伊藤隆・広橋真光・片島紀男編『東条内閣総理大臣機密記録――東条英機大将言行録』(1990・東京大学出版会)』