立売堀川(読み)いたちぼりがわ

日本歴史地名大系 「立売堀川」の解説

立売堀川
いたちぼりがわ

元和六年(一六二〇)開削に着手され、中断ののち寛永三年(一六二六)惣年寄宍喰屋次郎右衛門が工事を再開して完成させた堀川(大阪市史)両岸一帯の地域を立売堀と称する。西横堀にしよこぼり川から分流して薩摩堀さつまぼり川の南を西流、江之子えのこ島南端の百間堀ひやつけんぼり川と木津きづ川の合流点に注いでいた。昭和三一年(一九五六)埋立てられて姿を消したが、かつての流路は現在の立売堀一―五丁目に含まれる。長さ一一町三六間半・幅一〇間の堀川で、明和四年(一七六七)には両岸が築立てられて幅八間となった(同書)。名称の由来には諸説あるが、一般的には「摂津名所図会大成」にあるように、大坂冬の陣・夏の陣に際して伊達家の陣所が置かれていた地で、その要害堀切であったところを掘足して堀川としたことから伊達だて堀と称され、のちに伊達いだて堀、伊達いたち堀とよばれるようになり、さらに近辺で材木の立売が許可されたため「立売堀」の字を用いるようになったとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の立売堀川の言及

【宍喰屋次郎右衛門】より

…南組惣年寄を務めた。1955年に埋め立てられた立売堀(いたちぼり)川は,1620年(元和6)に開削着手,一時中止となっていたが,彼によって工事が再開され,26年(寛永3)完成。これによって新町が発展したという。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」