アッケシ(読み)あつけし

日本歴史地名大系 「アッケシ」の解説

アッケシ
あつけし

漢字表記地名「厚岸」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名や会所およびその周辺をさす地名としてのほか湾・港などの名称としても記録されている。天保郷帳に「アツケシ持場」のうちとして「アツケシ」が記されるが、この「アツケシ」は会所所在地一帯をさしているとみられる。所在地の本来の地名は「ヌサウシコタン」であるが、一般には「アツケシ」が用いられたと考えられる。

仮名表記は「アツケシ」が多いが(「蝦夷志」「北海随筆」「東遊記」「蝦夷拾遺」「東遊雑記」「風俗人情之沙汰」「夷諺俗話」「蝦夷巡覧筆記」「北夷談」、木村「蝦夷日記」、谷「蝦夷紀行」など)、古くは「あつけし」(元禄郷帳・「津軽一統志」「蝦夷蜂起」「狄蜂起集書」・享保十二年所附・「蝦夷談筆記」「寛政蝦夷乱取調日記」)と書かれ、漢字表記では「阿津気志」(木村「蝦夷日記」)、「悪消」(児山「蝦夷日記」、「東蝦夷地場所大概書」)、「厚気志」(玉虫「入北記」)などがみられる。語義について秦「地名考」は「アツは集の義、ケシは足なり。又、下の義なり。此処、東夷地村里の極なる故に此名あり。夏月中はビバセイ、ヲツチシ共に此処より出て漁事す」と記し、「俗に云、アツケシはアツシの木、此辺絶て産せさる故に名付たりといへとも、語意ニ適せされハ妄といふへし」と述べている。しかし樹皮衣アットゥ(アツシ)の原料である「アッ」と結び付けた解釈は多く、「アツケシ、本コタネトハといふ。沼ありて、アツ木の皮を績で夷服に織、其沼埋りて陸になりたるゆへにアツケシといふ。アツは木の名、ケシは物のなくなりたるを惣じてケシといふ。アツを浸たる沼のなくなりたるといふによりてアツケシと名づくるよし」(谷「蝦夷紀行」寛政一一年七月二日条)、「アッケシ アツとハあつしに織草を云。ケセとハ下の芥と云事也」(「東行漫筆」文化六年四月二九日条)、「夷語アツケウシなり。則、あつし草を剥ぐ所と訳す。扨、アツとはあつし草の事。ケーとは剥くと申事。ウシとは生す又は成すと申意なり」(地名考并里程記)、「本名アツニケウシ。アツニは楡、ケは剥、ウシ多し也」(「蝦夷日誌」一編)などと記される。

当地は一六四三年(寛永二〇年)の「フリース船隊航海記」に「アッキス」Ackysとみえる(同年八月一六日条)。フリースの率いるカストリクム号は「アッキス」湾に約半月間停泊し、松前からやってきた交易船の様子や上陸して交流した当地のアイヌの人々のこと、当時の習俗や言語について多くの興味深い記録を残している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアッケシの言及

【国後・目梨の戦】より

… シャクシャインの戦が敗北して以来,アイヌ民族に対する松前藩の支配が一段と強化され,とりわけ元禄・享保期(1688‐1736)に場所請負制が成立するや,アイヌ民族は交易相手から漁場の労務者へと変質させられていった。しかしアッケシ(厚岸)・キイタップ(霧多布)・国後など,いわゆる〈奥蝦夷地〉のアイヌ民族と松前藩の関係は若干異なった状況にあった。アッケシには寛永年間(1624‐44)藩主の交易場として商場(あきないば)が設置され(〈蝦夷地交易〉の項目参照),次いで1701年キイタップに,54年(宝暦4)国後に設置されたものの,3商場の経営は73年(安永2)まではアイヌ民族との交易を主軸とするもので,翌74年以降3商場が飛驒屋久兵衛の請負となった後も,数年間は交易を主とするものであった。…

※「アッケシ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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