朝日日本歴史人物事典 「シャクシャイン」の解説
シャクシャイン
生年:生年不詳
江戸前期の蝦夷地の5大勢力のひとつメナシクル(東の衆)の首長。和人史料では沙武者,しゃくしゃ,シャグセンなどと記す。シブチャリ(静内)を本拠とするメナシクルの「惣大将」(惣乙名)カモクタインの「家老」であったが,承応2(1653)年シュムクル(西の衆)の「惣大将」オニビシによってカモクタインが殺されたため「惣大将」となる。蝦夷地では寛永年間(1624~44)から商場知行制(松前藩が家臣に知行として特定地域のアイヌ民族との独占的交易権を与える制度)を推進したため,アイヌ民族の間では漁猟をめぐる対立が頻発した。シャクシャインの属するメナシクルとシュムクルとでも対立が強まり,慶安1(1648)年メナシクルの「惣大将」センタイン死去を契機にシブチャリ川を軸として戦いが開始された。カモクタイン戦死直後松前藩が調停に入り,明暦1(1655)年松前城下で双方は和睦。このとき,オニビシ方は松前藩との結びつきを強めた。しかし松前藩が,寛文5(1665)年ごろより交易価格を大幅につりあげたため,6年以後本格的な対立となり,7年オニビシ方は首長を討たれ大敗した。 こののち,オニビシ方の後継者は松前藩に軍事的援助を求めたが一蹴され,帰途「疱瘡」で急死した。アイヌ民族にはこれが松前藩による毒殺と伝わった。シャクシャインは松前藩との戦いを決意し,アイヌ民族全体に参加を呼びかけた。松前藩による様々なしめつけが民族全体におよびはじめたからである。国縫をおとし松前へ攻め入る計画で,9年6月一斉に蜂起した。商船19隻を破壊,乗り合わせていた者273人(355人説もあり)を討ち取った。これに対抗し,松前藩では1000人余の兵力でシャクシャイン方に備える一方,事態を幕府に通報した。シャクシャイン自身は同年謀殺されるが,この戦いは,本州との直接交易再開を目的とするアイヌ民族と,対アイヌ民族交易体制確立をすすめる松前藩の戦いでもあった。<参考文献>海保嶺夫『史料と語る北海道の歴史』『近世蝦夷地成立史の研究』,『津軽一統志』10(『新北海道史』7巻)
(海保洋子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報