厚岸町(読み)あつけしちよう

日本歴史地名大系 「厚岸町」の解説

厚岸町
あつけしちよう

面積:七三四・八一平方キロ(境界未定)

昭和三〇年(一九五五)四月、厚岸郡厚岸町が同郡太田おおた村の本村地区を合併、現町域となった。釧路支庁管内東部、釧路市と根室市の中間に位置し、東部は厚岸湖を包容し外洋を控えて半島形をなし、西部は厚岸湾に臨んで北に延びている。東は厚岸郡浜中はまなか町・根室支庁管内野付のつけ別海べつかい町、北は川上かわかみ標茶しべちや町、西は釧路郡釧路町に接し、南は太平洋に面している。北・東・西の三方は標高一〇〇メートル内外の根室段丘を基盤とする丘陵地で平坦面が続く。南部の海岸線は海食崖が発達していて、屈曲が激しく変化に富み、厚岸湾をふさぐように沖合に大黒だいこく島・島が浮ぶ。中央部を別寒辺牛べかんべうし川、南西部を尾幌おぼろ(旧尾幌一号川)が流れ、厚岸湖に注ぐ合流部には湿原が形成される。西部を尾幌川に沿って東進したJR根室本線は真竜しんりゆう地区の市街地から北上し、別寒辺牛川を越えたのちさらに東へ向きを変え、トライベツ川に沿って進む。同線の上尾幌・尾幌・門静もんしず・厚岸・糸魚沢いといざわの五駅がある。ほぼ同線に沿って釧路市と根室市を結ぶ国道四四号が東西に走り、北端近くを国道二七二号が南西から北東へ通る。

近世初期のアッケシ場所開設以来、会所が置かれたヌサウシコタンが政治・経済の中心で、人口は南部の厚岸半島部に集中していた。


厚岸町
あつけしちよう

明治三三年(一九〇〇)七月、湾月わんげつ町・松葉まつば町・梅香ばいか町・若竹わかたけ町・奔渡ぽんと村・床潭とこたん村・末広まびろ村・璃瑠瀾りるらん村・真竜しんりゆう村・別寒辺牛べかんべうし村・苫多とまた村が合併して成立した一級町村。旧町村名を継承した大字を編成。同三五年の戸数一千一三二・人口七千八三〇。大正六年(一九一七)一二月官設鉄道根室線(現JR根室本線)のうち釧路―厚岸間が開通し、厚岸・門静もんしず・尾幌・上尾幌の四駅が開業、同八年には厚床あつとこ(現根室市)まで開通し、糸魚沢いといざわ駅が開業した。また大正六年には真竜から糸魚沢、茶内ちやない(現浜中町)を通り別海べつかい(現別海町)に至る道路もでき、厚岸本町の対岸にあたる真竜町の市街地化が進んだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「厚岸町」の意味・わかりやすい解説

厚岸〔町〕
あっけし

北海道東部,太平洋岸にある町。 1900年町制。地名はアイヌ語のアッケシイ (カキのいるところの意) に由来。根釧原野の西部に位置し,丘陵性山地・台地・湿原から成る。海岸部は厚岸半島が厚岸湖をかかえている。 1871年佐賀県民の集団入植が明治以後の開発の始り。厚岸湾岸の厚岸港を基地に,サケ,マス,イワシ,サンマ,コンブなどの沿岸,沖合い漁業が発達。内陸部では旧屯田兵村太田を中心に酪農が行われる。中心集落の厚岸は,厚岸湖の出口をはさんで南の本町と 1917年国鉄根室本線開通後に発展した北の真竜 (しんりゅう) の2地区から成り,両地区は 72年開通の厚岸大橋によって結ばれている。本町には江戸幕府が東蝦夷鎮撫のため建立した国泰 (こくたい) 寺跡 (史跡) ,大黒島の海鳥繁殖地 (天然記念物) や牡蠣島の植物群落があり,厚岸道立自然公園に属する。国道 44号線が通る。面積 739.27km2(境界未定)。人口 8892(2020)。

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