アドリアノープル条約(読み)アドリアノープルじょうやく

改訂新版 世界大百科事典 「アドリアノープル条約」の意味・わかりやすい解説

アドリアノープル条約 (アドリアノープルじょうやく)

1829年9月14日オスマン帝国とロシアとの間に締結された露土戦争終結をめぐる講和条約。1821年以降,本格化したギリシア独立運動(ギリシア解放戦争)をめぐって,バルカン半島への南下を意図するロシアが,オスマン帝国の内政へ干渉したことを契機に,28年4月に両国は開戦した。ペロポネソス半島のギリシア人とも戦わねばならなかったオスマン帝国は苦戦し,29年8月,ロシア軍がオスマン帝国領のアドリアノープルAdrianople(現,エディルネ)に入城すると,プロイセン仲介を得て両国は講和を結んだ。軍事的に大勝したロシアに有利な条約となったが,領土的にはロシアはバルカン方面ではプルート川をオスマン帝国との境界としてドナウ河口地帯を確保したにすぎず,むしろカフカス黒海側の地域に版図を拡大した。しかし同条約の第5条はワラキア,モルドバ両公国にかんしオスマン帝国の宗主権を認めながらもロシアに保護権をあたえ,第6条は1826年のアッケルマン協定で規定されたセルビアの自治を再確認し,またギリシアにも大幅な自治権を認めて,バルカン諸民族の独立運動に大きな刺激をあたえた。オスマン帝国は150万グルデンの賠償金を課せられ,ロシアはさらにオスマン帝国領内での自由な通商権とダーダネルス,ボスポラス両海峡の自由航行権をも獲得して,バルカン問題への発言力を強めることになる。
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百科事典マイペディア 「アドリアノープル条約」の意味・わかりやすい解説

アドリアノープル条約【アドリアノープルじょうやく】

1829年ギリシア解放戦争後,アドリアノープルでロシアとオスマン帝国(トルコ)間に結ばれた条約。この戦争中,バルカンへの南下をめざすロシアはトルコ領アドリアノープルに入城,プロイセンの仲介で講和。トルコはロシアにドナウ川沿岸,黒海沿岸を割譲し,ギリシアの独立を承認した。
→関連項目露土戦争

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旺文社世界史事典 三訂版 「アドリアノープル条約」の解説

アドリアノープル条約
アドリアノープルじょうやく
Adrianople

ギリシア独立戦争後の1829年9月,ロシアとオスマン帝国間に結ばれた条約
この戦争中,ロシアはオスマン帝国を破ってアドリアノープルを占領し,この条約を結んだ。これにより,ロシアはドナウ川河口と黒海東岸の地を獲得し,黒海とボスポラス・ダーダネルス両海峡の自由航行権,およびセルビアなどに対する保護権を得た。また,オスマン帝国はギリシアの独立を承認した。

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世界大百科事典(旧版)内のアドリアノープル条約の言及

【ドナウ[川]】より

… 19世紀に入り,イギリス産業革命の波が中欧にも押し寄せ,水運が見直されるに及んでドナウ川も新しい時代を迎えた。まず1829年,ロシアとトルコとの戦争を終結させたアドリアノープル条約で,ドナウ川は交易,航行が自由になった。同年,〈第一ドナウ蒸気船航行会社〉がウィーンで設立され,ウィーンからブダペストまで蒸気船〈フランツ1世〉号が初めて運航されることになった。…

【露土戦争】より

…ロシア,トルコ両国は,引き続きワラキア,モルダビア,セルビアをめぐって戦争(1828‐29)に突入したが,オスマン帝国はバルカンの要都エディルネ(アドリアノープル)を占領され,東部戦線においても東アナトリアのカルスとエルズルムを占領されるなど窮地に立たされた。その結果,アドリアノープル条約(1829)においてオスマン帝国は,(a)ギリシアの独立承認,(b)ドナウ川河口の諸島のロシアへの割譲,(c)東部アナトリアのいくつかの城塞のロシアへの割譲,(d)ロシア商船の両海峡自由通行権獲得など,キュチュク・カイナルジャ条約以来の過酷な条件を受け入れざるをえなかった。この条約によって,黒海における通商権はロシアの掌握するところとなり,トルコとイランとの陸上交易路は衰えた。…

※「アドリアノープル条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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