ワラキア(読み)わらきあ(英語表記)Walachia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワラキア」の意味・わかりやすい解説

ワラキア
わらきあ
Walachia
Wallachia

ルーマニア南部、南カルパティア山脈とドナウ川の間に広がる歴史的地域。ルーマニア語名ツァーラ・ロムネアスカŢara Româneascǎ。中世にはワラキア公国を形成した。狭義には西部のオルテニアOltenia、中央および東部のムンテニアMunteniaの2地域で、広義には黒海沿岸部のドブルジアを含めた3地域からなる。オルテニアは小ワラキアともよばれ、ジウ川とオルト川が流れ、平野は砂地に覆われているが、耕地化されている。ムンテニアは大ワラキアともよばれ、ルーマニアの首都ブクレシュティブカレスト)のあるブラシア平野とバラガン平野、ガバヌ・ブルデア平野が広がる。ブラシア平野は広大な森林地帯であったが、現在は肥沃(ひよく)な耕地になっている。バラガン平野は平坦(へいたん)で乾燥したステップ地帯であるが、ヤロミツァ川が流れる。ワラキア地方は穀倉地帯で、全農産物の40%以上を生産すると同時に、現在では油田開発地帯でもある。中心都市(ワラキア公国の首都)は17世紀までトゥルゴビシュテ、以後ブクレシュティ。ほかにクライオーバ、ブライラプロイエシュティなどの都市がある。

[佐々田誠之助]

歴史

古代ローマの文化を受け入れたダキア人の後裔(こうえい)とされるルーマニア人は、ハンガリー人の保護を受けながら13世紀にドナウ川下流地域からタタール人を駆逐し、この地方に定住した。1330年ごろこの地方のルーマニア人はバサラブ(在位1310?~52)の指導下にハンガリーから独立したワラキア公国を樹立したが、1415年になってオスマン・トルコ宗主権を受け入れた。ミハイ(勇敢王、在位1593~1601)の治世下に国土からトルコ人を追い出し、モルダビアなどのルーマニア人居住地域を統合したが、彼の死後ふたたびトルコの支配下に陥った。19世紀に入るとワラキア公国でもトルコからの独立の気運が高まり、1821年のウラジミレスクの反乱や48年の民族革命の際には、革命派が一時首都ブクレシュティを支配する勢いを示した。1859年にワラキアとモルダビアの両公国は同一人物クーザを大公に選出、61年12月には両公国はブクレシュティを首都とするルーマニアという名の単一公国となった。

木戸 蓊]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android