翻訳|Black Sea
ロシア,ウクライナ,ルーマニア,ブルガリア,トルコ,グルジアに囲まれた内海で,アジアとヨーロッパの境界線上にある。ロシア語でChyornoe more。北東部のケルチ海峡で付属海のアゾフ海と,南西部の浅く狭いボスポラス海峡でマルマラ海に,ついでダーダネルス海峡でエーゲ海を経て地中海と通ずる。面積約42万km2,水深は平均1300m,最深点2212m。
ドナウ,ドニエプル,クズルウルマク川などが流入する。水の流入は河川から年間346km3,マルマラ海から176km3,雨水129km3,アゾフ海から53km3,流出はマルマラ海へ340km3,アゾフ海へ32km3,蒸発332km3で収支はつりあっている。塩分は真水の流入により沿岸部では3~9‰,表層で18‰前後と薄く,水深100mで約20‰,水深200mで22.36‰となる。このため表層(水深約40m以浅)では黒海からマルマラ海へ,下層では逆の方向へ海水の流れが生じている。表面水は,ほぼ時速1kmで左回りに旋回する二つの渦をつくる。表面の水温は冬季,北西岸で0.5℃(沿岸部で結氷),南東岸で10℃,夏季は24~26℃,沿岸部で29℃に上昇する。海面下60~80mに躍層(不連続面)があり,これより深部は年間を通じ7℃前後に保たれる。深層水が停滞しているため溶存酸素量は水深100~150mで0に近くなる。一方,200m以深で硫化水素が急激に増加し,1500mでは9mg/l以上になる。硫化水素は水中の鉄と化合し海に黒色を与えている。栄養塩の量からはほぼ中栄養湖に対応し,表層と沿岸域にはプランクトン,魚が豊富である。透明度は大きく,最大27mに達するが,沿岸部では2~8mに落ちる。
黒海は水上交通上重要であり,たとえば旧ソ連の輸出の約1/2,輸入の約1/4は黒海経由で行われた。おもな港には,ロシアのノボロシースク,グルジアのバトゥーミ,ウクライナのオデッサ,セバストポリ,ブルガリアのバルナ,ブルガス,ルーマニアのコンスタンツァ,トルコのトラブゾン,サムスン,ゾングルダクなどがある。漁獲量は年25~30万tで,その約2/3をアンチョビーが占め,ほかをアジ,イワシ,ハガツオ,ニシン,ヒメジ,ボラ,サバ,チョウザメ,イルカなどが占める。沿岸地域の大半は温和な気候に恵まれ,特に夏は晴天の日が続いて乾燥し,過ごしやすいため,ウクライナのヤルタ,ロシアのソチ,ルーマニアのコンスタンツァ,ママイア,ブルガリアのバルナ,ブルガスなど保養地が多い。
黒海は,古代ギリシアでポントス・エウクセイノスPontos Euxeinos,古代ペルシアでアフシャエナ,15世紀のトルコでカラデニスと呼ばれたが,古代ギリシアを除き〈黒い海〉の意。
執筆者:清水 潮+渡辺 一夫
ギリシア人は前8世紀ころより沿岸を縦横に航海し,タナイス,パンティカパイオン,ケルソネソスなど多くの植民都市を建設,交易を行った。彼らの主たる貿易相手は北岸のスキタイ人,サルマート人で,魚類,家畜,穀物,はちみつ,蠟,奴隷とブドウ酒,武器,装飾品などの手工業製品が交換された。特にクリミアのボスポロス王国(前5~後4世紀)は,国際商業に依拠した国家であった。アレクサンドロス大王の死後,各地に種々のヘレニズム国家が成立したが,ポントス,アルメニア,イベリア(現在のグルジア共和国のあたりの古称)とボスポロスは前1世紀ローマのポンペイウスの,ダキアは2世紀初頭トラヤヌス帝の征服によりローマ領となる。ローマの黒海経営の根拠地はダキアのトミス(ルーマニアのコンスタンツァ)であった。4世紀末のゲルマン民族大移動の結果,ローマの沿海支配権が失われ,ボスポロス王国の領土は最初東ゴート人の,ついでアラン人の国家に併合された。6~7世紀にはアバール,ブルガール,ハザルなどのトルコ系諸民族,スラブ系アント人などが南下して北岸地方を支配。9~12世紀にはドニエプル川を下って来たルーシが交易権を掌握,海も〈ルーシの海〉と呼ばれたが,その勢力はモンゴル人の征服によって失われた。1202年の第4回十字軍以降イタリア商人の進出が顕著となり,ジェノバは61年ビザンティン皇帝ミハイル・パレオロゴスより交易独占権を獲得,沿岸に商館網を整備,北方と東方の物産をコンスタンティノープル経由でヨーロッパにもたらした。オスマン・トルコは15世紀にコンスタンティノープル,トラペズンド,クリミアのカーファ(現,フェオドシア)など黒海交易の要所を征服,北方の後背地クリム・ハーン国を属国化し,ヨーロッパ船の周航を禁じた。ロシアは1783年,クリム・ハーン国を併合,95年オデッサを開港,バルカン半島とカフカスでも南進,1833年には海域の支配権を握った。これ以後黒海は,ヨーロッパとロシアとアジアとを結ぶ通商の幹線となったが,ロシア,イギリス,フランス,トルコの利害が対立,クリミア戦争(1853-56)後,海域は中立化された。
執筆者:北川 誠一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヨーロッパとアジアの間にある内陸海。周囲は、北岸から東岸にかけてウクライナ、ロシア連邦、ジョージア(グルジア)、南岸がトルコ、西岸はブルガリアとルーマニアの国々に接する。南西端のトルコ領で、ボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて、地中海東部のエーゲ海と結ばれている。そのため、海洋学的には地中海の付属海として扱われている。北部にはクリミア半島が突出し、西のカルキニット湾と東のアゾフ海とを分けている。アゾフ海と黒海はケルチ海峡で結ばれている。おもな流入河川には、北岸からドニエストル(ドニステール)、ドニエプル(ドニプロ)、アゾフ海にドン、南岸にはクズル・ウルマク、サカリヤ、西岸にはドナウなどがある。面積約42万2000平方キロメートル。
[村田 護・外川継男]
深度は、北部沿岸地帯は大陸棚の発達で浅いが、他の地域は平均1300メートルである。中心部には東西方向に2000メートル以上の深度を有する地帯が長く分布し、最深点は2211メートルに達する。平均水温は、表層面では冬季6℃、夏季23℃前後であるが、60~80メートル以深では7℃前後でほとんど変化がない。塩分は、上層部分では流入河川と降水量が多いため濃度18前後で、地中海の半分にも満たない。しかし深度を増すにしたがって塩分は増加し、2000メートルでは濃度約22に達する。これは、上層部分においては黒海から地中海への流出量が多く、低層にいくにしたがって地中海から濃度の高い海水の流入量が増加するためである。
[村田 護・外川継男]
漁業はおもに北岸周辺の浅場で行われ、ニシン、イワシ、サバ、チョウザメ、タイ、ヒラメなどが漁獲される。生息する魚族は豊富で160種を超える。周辺のおもな港は、ウクライナのオデーサ(オデッサ)、ミコライウ(ニコラエフ)、セバストポリ、ロシア連邦のノボロシースク、ジョージアのバトゥーミ、トルコのシノプ、トラブゾン、ルーマニアのコンスタンツァ、ブルガリアのブルガス、バルナなどがある。これらの港を経由する交通、貿易などが盛んで、とりわけ旧ソ連では全輸出量の2分の1、輸入の4分の1は黒海の海上貿易に依存していた。このように、周辺諸国にとって黒海の果たす役割は大きく、有史以来、領有権、通航権などをめぐる紛争が絶えなかった。ロシアはソ連時代から黒海北岸のセバストポリを黒海艦隊の基礎としてきたが、この帰属をめぐってウクライナとの間に対立が続いた。しかし1995年6月のソチ協定で分割が決まり、1997年5月にはロシアがセバストポリをウクライナから20年間租借することでひとまず決着した。
[村田 護・外川継男]
「黒海」の名はトルコ語のカラデニス、すなわち「黒い、悪い海」からきているといわれるが定説はない。紀元前7世紀から沿岸に植民市(シノペ、トラペズント、タナイス、ケルソネスなど)を建設し始めた古代ギリシア人は、最初ポントス・アクセイノス(愛想の悪い海)とよんだが、植民活動の進展につれて、逆にポントス・エウクセイノス(愛想のよい海)と名づけるようになった。彼らは、黒海で産する魚類や、北岸ステップ地帯に住むスキタイ人の穀物などの産品を本国に運んだ。やがて前1世紀からローマの支配下に入るようになり、紀元後4世紀にコンスタンティノープルが東ローマ帝国の首都となるに及んで、黒海の戦略的、経済的重要性は一段と高まった。トラブゾン経由のペルシアとの交易や、8世紀以降はドン川方面のハザール国との交易が重要であった。
北方では6~7世紀以降スラブ人の進出が顕著になる。なかでもロシア人は9世紀以降、バルト海から黒海を経てコンスタンティノープルに至る通商路(いわゆる「バリャーグからギリシアへの道」)を利用して盛んに貿易を行った。だが13世紀前半モンゴル人が侵入してボルガ川下流域にキプチャク・ハン国を樹立するや、この通商路は断たれ、さらに15世紀中葉にビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国がハン国をも支配下に置くや、黒海は以後ほぼ300年にわたって実質的にトルコ人の海となる。だがこの間貿易がとだえたわけではなく、イタリア、フランス、のちにはイギリス商人がトルコ政府に関税を支払って黒海貿易に従事した。
17世紀末からロシアが海への出口を求めて南進を図り、ピョートル大帝は1696年アゾフを占領し、1699年のカルロウィッツ条約でこの地方の併合を認めさせた。その後ロシアは北方戦争中に一時アゾフ地方を失うなどしたが、数次の対トルコ戦争の結果、ついに1774年のクチュク・カイナルジ条約および1792(旧暦1791)年のヤーシの条約で、黒海北岸の併合、黒海の自由航行権などをかちとった。だがその後ロシアがクリミア戦争(1853~1856)に敗れて、黒海は中立化され、ロシアの地中海への進出の野望はくじかれた。今日ローザンヌ条約(1923)により黒海はすべての国の船舶に開放されているが、モントルー条約(1936)により非沿岸諸国の軍艦については若干の制限が課されている。
[外川継男・栗生沢猛夫]
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地中海東の付属海。前8~前6世紀のギリシア人の進出,9~12世紀のスラヴ人の進出,15~16世紀のオスマン帝国の支配などの史実から明らかなように,ロシア,中近東,地中海を結ぶ商業上の大動脈でもあり,近代以降しばしばロシア‐トルコ戦争の原因となった。特に19~20世紀初めは,地中海への出口のダーダネルス,ボスフォラス両海峡の軍事的意義が大きかった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…第4回十字軍(1204)によりビザンティン領域から追われたジェノバ人は1260年に復帰し,コンスタンティノープルに接したペラに居留地を設け,クリミア半島のカッファ(現,フェオドシア)やドン川の河口のタナにも拠点を得た。黒海は商業的には〈ジェノバの湖〉になったという。13世紀後半から14世紀初頭にかけて,ジェノバは黒海,エーゲ海(キオス島,レスボス島),ファマグスタ(キプロス島)などを結ぶ海上帝国を建設することに成功し,1298年にはベネチアとの海戦にも勝利を収めた。…
※「黒海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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