トルコ東部にある遺跡で,かつてのアルメニア王国の首都。アルメニア共和国との国境をなすアラス川支流のアルパ川右岸に位置する。町の歴史はバグラト朝の繁栄と共にあり,その建設は9世紀初めにさかのぼる。10世紀中ごろ王国の首都となり,二重の城壁が構築された。11世紀初頭にかけて町は盛期を迎えるが,1044年にビザンティン帝国のものとなり,64年に大セルジューク朝の統治者アルプ・アルスラーンが町を占領。その後はグルジア王国からの侵入(1124)などがあり,1239年にはモンゴル人の手に落ち,1318年の大地震で町の多くが崩壊,その後衰退した。1921年以降トルコ領。アルメニア美術,特に9~11世紀のいわゆる〈第2の隆盛期〉の建築を知るうえで重要な都市で,二重の城壁や城門,住居跡,橋,大聖堂(1001),救世主教会(1036)などが残る。とりわけ大聖堂は,アルメニア建築の代表傑作の一つで,十字形を内包する矩形プランのドーム・バシリカである。全面的な石造ボールトの採用,束ね柱の使用など,中世後期の西ヨーロッパ建築に先行するものとして注目される。
執筆者:長塚 安司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…奄美の喜界島ではこれをオクラー,ムケーラーとよび父方母方双方のおじ・おばが選ばれるのが原則であった。 これとは別に東北地方などで,相続人の男子がアニと呼ばれるのに対して相続人以外の男子を年齢にかかわりなく,オジ・オンジと呼び,また未婚の女子や末娘などをオバ・オンバと呼ぶ例がしばしば見られた。中部地方などでも相続人以外の男子や女子は壮年になっても独立の家の主人・主婦とはなりえず,オジ・オバと呼ばれて終生生家に残留することも見られた。…
…こういう民族的なキリスト教美術は,4世紀初キリスト教がアルメニアの国教として認められて(アルメニア教会),公的な聖堂建築が始まった当時から,すでにその独自な性格を発揮していたのであろうか。最古の遺例は6世紀にさかのぼるにすぎないが,アニ近郊のエレルクEreruk,テコルTekor(現,ディゴルDigor)の聖堂はバシリカ形式でシリアの聖堂建築によく似ており,かつイランの宮殿形式を反映する隔壁があるが,全体として5,6世紀のアルメニアは,シリアおよびヘレニズム要素を取り入れて構築法を研修した準備時代であったと考えられる。6世紀後半から7世紀末までがアルメニア建築の〈第1の隆盛期〉であって,バシリカ形式の存続するかたわら多数の集中式建築の聖堂が建てられ,円形,三葉形,四葉形など,プランも構造も種類に富み,そのなかから正方形と十字形を組み合わせたものがアルメニア聖堂建築の古典形式として将来の発展を保証される。…
※「アニ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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