日本大百科全書(ニッポニカ) 「アラービーの反乱」の意味・わかりやすい解説
アラービーの反乱
あらーびーのはんらん
19世紀末のエジプトにおける民族独立闘争。19世紀後半のエジプトは、資本主義世界の有機的構成部分として急速な近代化過程にあったが、同時にヨーロッパ強国への従属化も深めていた。1876年、法外な対外債務により国庫を破綻(はたん)させたエジプトは、債務返済の円滑化を口実とするヨーロッパ諸国の圧力の前に、国政全般の移譲を余儀なくされた。イギリス、フランスによる財政管理やヨーロッパ人内閣に象徴的にみられる外国人支配体制は、社会構造の編成替えを図りつつエジプト大衆の生活を翻弄(ほんろう)し、一方で外国人の特権的利益を保障した。そうした現実に対し、エジプト人社会内で民族的危機意識が高まり、「エジプト人のためのエジプト」を唱える国民党が誕生した。1879年2月、同党の中核であるアラービー・パシャら軍将校グループは、ヨーロッパ人内閣打倒と立憲制を要求して蜂起(ほうき)したが、それは広範な大衆的支持を背景に民族的権力として発展していった。行き詰まった支配体制の立て直しをねらうヨーロッパ諸国は、1882年1月以降直接的干渉に乗り出し、アラービー軍は9月最終的に鎮圧された。アラービーの反乱はイギリスの単独軍事占領の起点となったが、同時にそれはエジプト民族解放闘争史の起点ともなった。
[藤田 進]