日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
アリタリア‐イタリア航空
ありたりあいたりあこうくう
Alitalia - Compagnia Aerea Italiana S.p.A.
イタリアの航空会社。旧社名はアリタリア航空Alitalia Linee Aeree Italiane S.p.A.であったが、2009年1月に現在の名称に変更した。社名のアリタリアは、「イタリアの翼」の意味である。
1946年、イタリア政府47.5%、英国欧州航空会社(BEA、現、ブリティッシュ・エアウェイズ)30%、民間22.5%の出資比率の合弁会社として出発。第二次世界大戦後、イタリア国内には34の航空会社が乱立していたが、整理統合が進み、1955年にはイタリア航空Linee Aeree Italiane(LAI)とアリタリアの2社だけが定期便会社として存続し、1957年に両社の合併により、資本金100億リラの新生アリタリア航空が誕生した。1962年東京乗り入れ。1968年には保有機をすべてジェット機化した。1970年代はオイル・ショック(石油危機)や労使紛争で経営悪化に陥ったが、不採算航路の廃止、燃費のよいボーイング727シリーズへの切替えで対応した。1980年代はチャーター便の会社アエレメディテッラーナAermediterraneaを設立するなど多角化を行ったが、エールフランス航空やルフトハンザ・ドイツ航空との競争で市場シェアを減少させ、経営悪化は継続した。1990年代に入って、機体の老朽化、サービスの低下で、利用者を伸ばすことができず、大株主のIRI(イリ)(産業復興公社)は1994年にレナート・リベルソRenato Riverso(1934― )を社長に任命し、彼のもとで、続けざまに経営改革と労使関係の改善がなされた。1994年にコンチネンタル航空、1995年にカナディアン航空(現、エア・カナダ)との業務提携を行った。1996年以降、規制緩和でヨーロッパの航空市場は競争が激しくなったが、アリタリアは低運賃市場に参入し、アリタリア・チームを結成したり、地域航空会社アリタリア・エクスプレスを設立したりした。このような戦略の結果、1997年には1988年以来初めての黒字化に成功した。これを契機に、IRIは持分を53%に削減し、従業員が20%の持分をもつことになった。1998年にKLMオランダ航空と業務提携し、翌1999年には同社とのパートナーシップを強化した。しかし、2000年4月、ミラノのマルペンサ空港拡張計画の遅れが原因となり、両社は業務提携を解消した。なお、これについて不満をもったアリタリアはKLMオランダ航空をヨーロッパ裁判所に提訴し、1億5000万ユーロの支払いを受けた。
2000年に大株主のIRIが解散し、アリタリアは財務省の管理下に入った。2001年に、デルタ航空、エールフランス航空と提携関係に入り、国際的な航空連合スカイチームのメンバーとなった。2001年に政府の持分を53%から62%に増加させ、翌2002年、アリタリアは利益を計上することになったが、その後は赤字に転落し、従業員の削減を行った。2004年には再度労働争議がもちあがり、経営陣の交代も行われ、同年イタリア政府は4億ユーロの融資をヨーロッパ連合(EU)から受けたが、それにあわせて政府の持分は49%に減少させることになった。1996年から2005年までにイタリア政府は、45億ユーロをつぎ込んだが、結局経営改善にはつながらなかった。
2006年の売上高は62億3300万ドルで、8億2500万億ドルの営業赤字。赤字は2003年より継続しており、2004年には11億0800万ドルの赤字を計上している。グループの従業員数は2002年には約2万2500人であったが、2006年には約1万1000人となった。2008年8月倒産。管財人のもとで再建策が練られたが、投資家グループのCai(Compagna Arena Italian)が、11億ユーロを投入して、イタリア第2位の航空会社エアワンAir Oneと合併させ、2009年1月新たにアリタリア‐イタリア航空を発足させた。また2009年1月に「エールフランス-KLM」(エールフランス航空とKLMオランダ航空の共同持株会社)と戦略的提携関係を結んだ。
[湯沢 威・上川孝夫]