経済を人間の体にたとえれば,エネルギー資源は体内を流れる血液のように必要不可欠である。第2次大戦後とくに1960年代に入って,石炭から石油への転換が進み,67年には石炭をしのいで一次エネルギー源の第1位を石油が占めるようになった。第1次石油危機(石油ショック,オイル・ショックともいう)が発生した73年には,世界の一次エネルギー消費に占める石油のシェアは47%強,西側先進国では53%強,日本では77%強となっていた。この石油づけの状況下で,石油の供給が途絶ないし量的に制限されるか,石油価格の高騰が生ずれば,経済やわれわれの生活は決定的な影響を受けざるをえない。
第1次石油危機は,1973年10月6日勃発の第4次中東戦争を契機に,OAPEC(オアペツク)が採用した石油戦略による石油の禁輸・量的制限と,OPEC(オペツク)が一方的に実施した原油価格の大幅引上げとにより発生した。まず石油供給の量的制限は,石油備蓄の放出および節約・有効利用の推進によって相殺されないかぎり,経済の実態面における生産の減少,生活水準の低下を生じさせることになる。さらに価格の高騰は,(1)インフレの加速化,(2)石油輸入支払代金増加による海外への所得移転の増大→国内需要の減少→不況・失業,(3)国際収支の悪化,といういわゆる三重苦(トリレンマ)をもたらすことになる。第1次石油危機における石油供給の量的削減は,事後的にみればそれほど大きくはなかったが,石油は安価で量的にも必要なだけ供給されると安易に信じ込んできた日本を中心とする石油輸入国側に,石油パニック(オイル・パニック)というべき事態を発生させた。日本では,政府によって11月以降,11業種に対する電力・石油の10%供給削減措置,民間へのエネルギー節減要請(マイカー自粛,ネオン中止,テレビ放映時間の繰上げ等),三木武夫副総理を政府特使としてアラブ各国に派遣(非友好国扱いから友好国扱いにしてもらうため)等の措置がとられた。この間,物不足になるという懸念が国民一般に広がり,売惜しみ,便乗値上げ,買いだめが横行し,トイレットペーパーや洗剤等の買占めに殺到した。しかし74年第2四半期になると,この種の石油パニックは,虚偽の情報に踊らされてつくり出されたものであることが明らかとなった。国民全体や消費者はこのパニックから教訓を得,79年の第2次石油危機に際しては冷静に対応し,パニックが再燃することはなかった。このときには,むしろ原油価格の高騰が,いっそう重大な影響を与えて危機をもたらした。原油価格は,1973年10月と74年1月の2回値上げされ,合計で4倍近くに急騰した。日本経済は,74年に戦後初めてのマイナス成長に陥り,国際収支も大幅赤字となり,狂乱物価といわれるほどに卸売物価,消費者物価ともに年率2割をこえて上昇した。74年には日本のGNPの3%近くが,価格高騰によって産油国に移転した。世界経済全体においても経済成長率は大きく落ち込み,75年には,西側先進国はマイナス成長となったし,インフレは加速化し,国際収支もOPEC以外の各国は大幅赤字へと一挙に転落した。1974年のOPECの経常収支黒字額は600億ドルにも達した。
第1次石油危機への対応は,78年にはいちおう完了したが,78年末のイランの国内混乱から79年初めのイスラム革命を契機として,第2次石油危機が発生した。この時点で世界第2の石油輸出国イランからの供給途絶は,サウジアラビア等の増産により,量的にはあまり大きな影響をもたらさなかった。しかし79年から81年にかけて,原油価格がさらに3倍近くにも値上げされた結果として,上述の三重苦の危機が生じた。ただし第1次危機への対応の失敗を生かして,狂乱物価の発生は回避できたし,マイナス成長への転落も防止できたが,日本の場合,値上げによりGNPの2%程度が産油国に移転し,国際収支も大幅黒字から大幅赤字へと転落した。世界経済とくに欧米先進国経済はこの2度にわたる危機,とりわけ第2次危機への対応に苦悩し,危機の吸収が終了し回復期へ転換すると期待された82年に,世界経済は1%以下の低成長,北側先進国はマイナス成長に陥った。
2度にわたる合計10倍にも達する価格上昇は,石油消費の節約・有効利用をおおいに推進し,OPEC以外の地域での石油開発が刺激され,代替エネルギーへの転換も,容易に可能な分野では進展した。さらに景気の後退,その回復のおくれも作用して,1980年代に入ると,経済成長と石油消費とのリンクが断ち切られ,経済はプラスの成長を持続しながらも,石油消費が大幅に絶対的に減少するという現象が発生し継続している。その結果として,石油はだぶつき,OPECは大幅な減産を余儀なくされ,ついに83年3月にOPECは原油価格を1バレル当り5ドル引き下げるという,OPEC結成以来初めての事態が生じた。価格高騰による石油輸入国側の三重苦をまさに裏返しした事態が生じ,石油輸出国側は苦悩しており,これが逆オイル・ショックといわれる現象である。石油輸入国側では,石油価格引下げは,(1)インフレ抑制,(2)景気上昇,(3)国際収支の改善といった三重善をもたらすことになり,短期的には歓迎すべきであろう。しかし図の原油価格引下げ効果のフローチャートが明示するように,中・長期的には,逆・逆オイル・ショックともいうべき,需要の増大および石油供給や代替エネルギーへの転換の阻害を,価格低下が引き起こす可能性も存在している。石油危機が第1次・第2次のように衝撃的な形で生ずるとは考えにくいが,石油危機再燃の可能性を周到に考慮して,節約・有効利用および代替エネルギーへの転換の努力が必要とされる。
執筆者:深海 博明
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オイルショックともいう。
①〔第1次〕1973年10月,第4次中東戦争を契機としてアラブ産油国がとったイスラエル寄りの国々への石油禁輸という政治的戦略と石油輸出国機構(OPEC)による原油価格の大幅引上げとによってもたらされた世界経済の混乱。石油輸入国の西側先進諸国は,石油の対外依存に由来する経済的脆弱性を安全保障上の問題として認識するようになった。
②〔第2次〕1979年,大産油国であるイランに革命が起き,石油の供給不安と価格の高騰をもたらした。80年代初頭には,石油価格は史上最高となり,世界経済は再び混乱した。
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アラブ産油諸国による原油供給削減と値上げにより,世界経済がインフレと生産縮小にみまわれた事態。1973年(昭和48)10月の第4次中東戦争を契機に,産油諸国が原油価格を4倍に値上げしたため,石油多消費型の資本主義諸国はパニック状態となり,深刻な不況とインフレが同時進行し,74年日本経済は戦後初のマイナス成長を記録した。78年のイラン革命による打撃は第2次石油危機と称される。
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…しかし,70年代に入ると,産油国の資源ナショナリズムが高揚し,産油国が生産量や価格をコントロールしはじめた。そして73年10月,第4次中東戦争をきっかけとした第1次石油危機および78年のイラン革命に端を発する第2次石油危機により,原油価格が高騰した。これは,エネルギー需給に大きな転換をもたらすことになった。…
…まず73年10月に,一方的に原油公示価格の70%引上げを決定し,74年1月からは,さらに131%強値上げされ,3ヵ月足らずのうちに,4倍近くにも高騰した。この結果,世界経済とくに日本を中心とする石油輸入国は,第1次石油危機に苦悩することとなった。 78年末からのイランの国内混乱(イスラム革命)を契機として第2次石油危機が発生して,原油の公式販売価格GSP(government sales price)(100%の事業参加や国有化がなされた結果,公示価格は意味を失う)はさらに3倍近くも値上げされ,81年11月から,標準原油のアラビアン・ライトの価格は,1バレル当り34ドルとなった。…
…同年12月の多国間通貨調整は,新しい為替レート下で固定相場制を復活させるかにみえたが,その2年後,73年の2~3月に起きた国際通貨不安は,ついに固定相場制を崩壊させ,世界が変動相場制へ突入した。さらに同年10月には,OAPEC(アラブ石油輸出国機構)が〈石油戦略〉を発動し,全世界に大きな衝撃を与えた(第1次石油危機)。 日本の高度成長は1960年代とともに終わった。…
…世界的なインフレの拡大によりIMF体制が崩壊,71年8月いわゆるニクソン・ショックにより,ドル防衛策が打ち出され,日本の円も73年2月ついに固定相場制から変動相場制へ移行した。続いて同年10月,第4次中東戦争を契機としておこった第1次石油危機により,原油の公示価格が一挙に4倍となり,1970年からの値上げを加算すると70‐73年で実に8倍への引上げとなった。日本は戦後の経済発展を石炭から石油への転換によって進めて,安い石油を大量に使ってきた。…
…なお,石炭化学工業からはベンゼン,トルエン,キシレンなどが,電気化学工業からはアセトアルデヒド,アクリロニトリルなどが製法転換の対象となった。
[成熟期]
30万tエチレンプラントがつぎつぎに完成した直後,1973年に第1次石油危機が発生し,日本の石油化学工業は大きな転換点を迎えた。石油価格の引上げによる石油化学製品の値上げに,日本経済の不振が加わり,石油化学製品需要が急減し,エチレン生産量は73年の411万tから75年には340万tに低下したため,石油化学企業は低操業率に苦しめられた。…
…日本の工業生産指数は,敗戦時の1946年に戦前(1934‐36基準)の約1/4に低下し,ドッジ・ラインの設定された49年までに約1/2に回復し,朝鮮戦争を経た51年に戦前水準を超えるに至るが,その間未曾有のインフレーションを収束し,生産復興を軌道づけた主要な契機は,第1に賃金抑制の物価体系の設定と基幹産業への重点的財政投融資およびアメリカの対日援助,第2に占領軍の対日政策の転換(1948年5月ドレーパー使節団報告)で具体化された政策(賠償緩和・集中排除緩和による日本経済自立化,対日援助打切り,均衡財政の確立,為替レート設定による貿易拡大)を強力に実施したドッジ・ライン(1949)であったが,しかしそれだけでは,すなわち第3の契機である1950年以後の朝鮮戦争ブームがなければ日本の急速な経済復興はありえなかった。【大石 嘉一郎】
【高度経済成長期】
朝鮮戦争による特需景気で戦前水準を回復した日本経済は,1955年から73年の石油危機の勃発まで,20年近くにわたってめざましい高度経済成長を実現した。この間1957年,62年,65年,71年と数年おきに経験した景気後退期にも成長率はプラスを維持し,年平均の実質GNP成長率は約10%と,世界史的にも未曾有の高成長をなしとげたのである。…
※「石油危機」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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