アンティパトロス(その他表記)Antipatros

改訂新版 世界大百科事典 「アンティパトロス」の意味・わかりやすい解説

アンティパトロス
Antipatros
生没年:前400ころ-前319

マケドニア王国将軍アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世の時代に軍人外交使節として功績をあげ,フィリッポスの死後アレクサンドロスの王位継承に力をつくす。大王の東征にあたりマケドニアギリシアの管理を委託され,前331年スパルタ王アギス3世の反マケドニア戦争を鎮圧。大王の母オリュンピアスと彼との不和は,大王と彼との間にも亀裂を生んで,大王の死に彼が関与したとの噂もある。大王の死後ギリシアに起こった反マケドニア戦争(ラミア戦争,前323-前322)を鎮圧。翌年アジアに渡り帝国再編成に参加,大王の遺族を伴い帰国した。彼の死後遺族は彼の子カッサンドロスに滅ぼされた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンティパトロス」の意味・わかりやすい解説

アンティパトロス
あんてぃぱとろす
Antipatros
(前397―前319)

マケドニア王家の重臣。ペルディッカス3世、フィリッポス2世、アレクサンドロス3世(大王)の3代に仕え、大王没後は帝国遺領の統一を維持しようとする勢力の中心であった。大王の東征中は「在欧司令官」として留守を守り、事実上マケドニアを掌握した。大王没後のギリシア諸国の反乱をくじき(ラミア戦争、前323~前322)、対立者であるペルディッカスPerdikkas(前365ころ―前321)将軍の横死後は帝国摂政の地位を襲った(前321)。紀元前319年彼の死をもってアレクサンドロス帝国は最終的に瓦解(がかい)し、以後局面はディアドコイへの分裂に入る。

[金澤良樹]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のアンティパトロスの言及

【デメトリオス[ファレロンの]】より

…アリストテレスの弟子で哲学的業績で知られる。アレクサンドロス大王東征の間のマケドニア・ギリシア総督アンティパトロス一族と親しく,アンティパトロスの子カッサンドロスにアテナイ統治をゆだねられた(前317‐前307)。アンティゴノス朝のデメトリオス1世のアテナイ攻略後,エジプトに逃れ,そこで死去した。…

【マケドニア】より

… 彼の子アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世。在位,前336‐前323)は父の死後王位をめぐり再び起こった内紛,ギリシアに起こった反マケドニア運動を鎮圧,父と同じくギリシア連合とマケドニア同盟軍総司令官として東征の途につき(前334),その間のマケドニア行政は王の登位に功のあった大貴族アンティパトロスにゆだねられた。 アレクサンドロス大王の死後,バビロンで行われた会議でマケドニア統治は従前と同じくアンティパトロスにゆだねられた。…

【ラミア戦争】より

…アレクサンドロス大王の死の情報が前323年の夏にギリシアに伝わると,マケドニアの支配から脱しようとする動きがただちに表面化した。アテナイの将軍レオステネスLeōsthenēsは,アイトリア同盟などと協力してマケドニアの将軍アンティパトロスを撃破し,彼をマリス地方のラミアLamiaに包囲した。翌年早くレオステネスは戦死し,アテナイ軍はテッサリア軍などとともにラミア包囲を続けたが,マケドニア救援軍が接近したため,春に包囲を解いた。…

※「アンティパトロス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android