クルーゼンシテルン
Ivan Fyodorovich Kruzenshtern
生没年:1770-1846
ロシアの提督。ペテルブルグ科学アカデミー名誉会員。バルト海岸(今のエストニア)に生まれ,1788年海軍士官学校を卒業,1793-99年イギリスに留学した。ロシアの第1回世界周航調査隊の長として,ナジェジダ号とネバ号を指揮し,1803年8月クロンシタット軍港を出帆,04年3月ホーン岬経由で太平洋に出,インド洋まわりで06年8月帰国した。この間ナジェジダ号に乗ってカムチャツカ,サハリン,日本近海を調査したが,1804年9月,ロシアの第2回遣日使節レザノフと仙台の漂流民津太夫ら4名を伴って長崎に入港した。著作に《ナジェジダ号とネバ号による世界周航の旅》(1809-12)があり,1823-26年その図録が刊行された。航海記のドイツ語版は,《クルウゼンシュテルン日本紀行》として1931年邦訳刊行された。
執筆者:加藤 九祚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「クルーゼンシテルン」の意味・わかりやすい解説
クルーゼンシテルン
ロシアの提督,探検家。エストニア生れ。1803年―1806年,2隻の軍艦を指揮してロシア最初の世界周航を行い,その間アラスカ,千島,北海道,サハリンなどの沿岸も探検,1804年には第2回遣日使節レザノフと仙台の漂流民津太夫ら4名を伴って長崎に来航。著書に《世界周航記》がある。
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世界大百科事典(旧版)内のクルーゼンシテルンの言及
【黒潮】より
… 日本の南岸沿いに強い海流が存在することは外国の文献にも古くから記されており,1650年ドイツの学者ワレニウスB.Vareniusの《一般地理学》に載っているほか,クックの世界周航(1776‐80)時の船長キングJ.Kingが1784年に黒潮域の測流結果を1.5ノットから3ノットと報告している。1810年ロシアの航海者クルーゼンシテルンは日本近海の海洋調査の結果を報告した中で,黒潮を日本海流と呼んだ。ベルクハウスH.Berghausが1837年に完成した北太平洋の海図には,日本海流が流速3ノットで東流して北太平洋海流へ移行するようすが描かれている。…
【日本海】より
…面積1008×106km2,平均水深1361m。1815年ロシアの航海者クルーゼンシテルンの作った海図で,初めて日本海の名がつけられた。朝鮮では東海という。…
【日本研究】より
…同様の学校は53年にイルクーツクにも設けられた。19世紀前半には,日本との通商関係を求めた航海者[I.F.クルーゼンシテルン]の《ナジェジダ号とネバ号による世界周航の旅》(1809‐12),[V.M.ゴロブニン]の《日本幽囚記》(1816)などロシア側から見た日本研究書が現れた。さらに,日露和親条約(1855)の交渉のために日本を訪れた提督E.V.プチャーチンの秘書官を務めた作家[I.A.ゴンチャロフ]の航海記《フリゲート艦パルラダ号》(1858)も重要文献としてヨーロッパ諸語に翻訳された。…
【バルチック艦隊】より
…1861年に甲鉄艦,69年には砲塔艦を建造し,74年には兵役期間の短縮などの改革を行った。そのほか19世紀におけるバルチック艦隊の活動では,世界周航による地理学上の調査を行い,日本を紹介した[クルーゼンシテルン]などによる遠洋航海や探検活動でも知られている。日露戦争時に太平洋艦隊応援のため,バルチック艦隊の中から[ロジェストベンスキー]を司令長官とする第2太平洋艦隊,さらに第3太平洋艦隊を編成,バルト海から日本海への大遠征を行ったが,対馬沖の海戦([日本海海戦])で敗北した。…
※「クルーゼンシテルン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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