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北海道 ほっかいどう

9件 の用語解説(北海道の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北海道
ほっかいどう

面積 8万3456.87km2。人口 550万6419(2010)。年降水量 1106.5mm(札幌市)。年平均気温 8.9℃(札幌市)。道庁所在地 札幌市。道木 エゾマツ。道花 ハマナス

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デジタル大辞泉の解説

ほっかいどう〔ホクカイダウ〕【北海道】

日本列島の四大島の一。また、その付属島を含む地域。太平洋オホーツク海日本海に囲まれ、宗谷海峡を隔ててサハリン(樺太(からふと))と、津軽海峡を隔てて本州と対する。古くからアイヌが居住。行政上9の総合振興局と5の振興局に分かれ、道庁所在地札幌市。もと蝦夷地(えぞち)と称し、江戸初期に松前藩が置かれ、幕末には幕府の直轄領となり箱館を開港。明治2年(1869)北海道と改称、開拓使が置かれた。明治19年(1886)北海道庁を設け、昭和21年(1946)地方自治体となる。北洋漁業の基地。大規模な畑作や酪農が行われる。人口550.7万(2010)。

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百科事典マイペディアの解説

北海道【ほっかいどう】

日本の最北端にある北海道本島と,その属島からなる地方。行政上は都府県と同位。かつては石狩,渡島,檜山,後志(しりべし),空知,上川,留萌,宗谷,網走(あばしり),胆振(いぶり),日高,十勝,釧路(くしろ),根室の14支庁からなっていたが,支庁制度改革に伴い2010年4月,総合振興局または振興局と名称を変更。

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デジタル大辞泉プラスの解説

北海道

株式会社コロワイドが展開する居酒屋チェーン

北海道

北海道、札幌酒精工業株式会社が製造する麦、米焼酎の銘柄。

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世界大百科事典 第2版の解説

ほっかいどう【北海道】

面積=8万3451.59km2(全国1位)人口(1995)=569万2321人(全国7位)人口密度(1995)=73人/km2(全国47位)市町村(1997.4)=34市154町24村道庁所在地=札幌市(人口=175万7025人)道花=ハマナス 道木=エゾマツ 道鳥=タンチョウ日本の最北部に位置し,地理的には,本州に次ぐ第2の大島である北海道本島(面積7万8073km2)と奥尻島,利尻島,礼文島,歯舞(はぼまい)諸島,色丹(しこたん)島など大小の属島からなる。

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大辞林 第三版の解説

ほっかいどう【北海道】

日本列島四大島の一。また,その周辺の属島を含む地方。日本列島の最北端にあり,日本海・オホーツク海・太平洋に囲まれ,本州と津軽海峡で隔てられる。中央部を天塩山地・夕張山地・日高山脈や北見山地・石狩山地・白糠しろぬか丘陵が南北に連続し,その間に名寄・上川・富良野盆地がある。石狩・十勝・釧路・天塩川などの下流域には平野が発達。南西部には渡島半島がある。かつて蝦夷えぞと呼ばれ,古くからアイヌの居住地であった。江戸初期,道南に松前藩が置かれ,幕末には幕府の直轄領となった。1869年(明治2)明治新政府は開拓使を置き,北海道と改称。86年北海道庁を置く。1946年(昭和21)地方自治体の一つとなる。道庁所在地,札幌市。

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日本の地名がわかる事典の解説

〔北海道〕北海道(ほっかいどう)


日本列島北端に位置する北海道本島と付属する島々からなる。
北方領土を含め、国土の約22%を占める。面積は九州の約2倍と全国一だが、人口密度は最少。歴史的にアイヌ民族が先住してきた地で、冷涼な気候と雄大な自然景観、独特の歴史風土をもつ。道庁所在地の札幌市は東京都以北最大の都市で、全道人口の34%が集中し、近郊都市を合わせ、大都市圏を形成する。幕末の探検家松浦武四郎(たけしろう)が明治以前の呼称「蝦夷(えぞ)」の音読み「カイ」から、北のカイの地域として、北海道という名称を発案し開拓使が決定。広域な北海道では従来、道行政を14の支庁に分掌(ぶんしょう)してきたが、2009年(平成21)に「北海道支庁設置条例」が全面改正されて新たに「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例」が制定され、2010年(平成22)4月から従来の14支庁はそれぞれ総合振興局と振興局に再編成された。それに伴い、地方自治法第115条第1項でいう支庁としての位置づけに変わりはないが、北海道では支庁と呼ばなくなった。新しく設置された総合振興局は、空知(そらち)・後志(しりべし)・胆振(いぶり)・渡島(おしま)・上川(かみかわ)・宗谷(そうや)・十勝(とかち)・オホーツク・釧路(くしろ)の9つ、振興局は、石狩(いしかり)・日高(ひだか)・檜山(ひやま)・留萌(るもい)・根室(ねむろ)の5つである。管轄地域は若干の入れ替えをのぞいて基本的には従来の支庁と同じで、地域名称も引き継いでいるが、オホーツク総合振興局は従来の網走(あばしり)支庁から変更された。市町村数は全国でもっとも多い。人口547万4216。面積8万3457.00km2。人口密度65.59人/km2。管轄市町村は35市129町15村(北方領土の村をふくめると21村)。道庁所在地は札幌市。道花はハマナス
歴史を見ると、旧石器時代の遺跡として千歳(ちとせ)市の祝梅(しゅくばい)三角山(さんかくやま)遺跡、寿都(すっつ)町の樽岸(たるきし)遺跡、遠軽町(えんがるちょう)の白滝遺跡群などが発見されている。北海道では縄文文化から続縄文文化、擦文(さつもん)文化(東部はオホーツク文化)へと独自な発展をとげ、13~14世紀ごろにかけてアイヌ文化が形成された。本州からの日本人(和人)の移住は鎌倉時代ごろから始まり、のちには蝦夷地(えぞち)の称が定着した。15世紀半ば、渡島半島南部に進出した和人による不当な収奪に対し、アイヌ民族はコシャマインの戦いなどで抵抗したが、この戦いに勝った蛎崎(かきざき)氏が松前(まつまえ)に拠点を確立。17世紀初めには同氏が改名した松前藩が成立し、江戸幕府からアイヌ交易の独占権を与えられ、和人商人と組んでアイヌ民族を激しく搾取した。17世紀中ごろに交易への規制や不正に対し、アイヌ民族の大規模な蜂起(ほうき)、シャクシャインの戦いが起こる。1792年(寛政(かんせい)4)、ロシアのラクスマンが根室に来航。北方警備の重要性を認識した幕府は直轄地と称し、蝦夷地経営に着手。日米和親条約による1855年(安政(あんせい)2)の箱館(はこだて)(函館)開港に前後して和人の永住策をとり、内陸部へと開拓を進めた。開拓政策を受け継いだ明治政府は1869年(明治2)に開拓使を設置、同年に北海道と改称した。一方、アイヌ民族に対しては、強制的な同化政策によりアイヌ語をはじめ伝統文化の否定と破壊を推し進めた。札幌をその基地とし、屯田兵や旧士族が入植、開拓の基礎が築かれる。1882年に札幌・函館・根室の3県が設置されるが、1886年に北海道庁に統合、本格的な開拓政策が開始された。1947年(昭和22)の地方自治法の施行により他府県と同一の地方自治体となった。2008年(平成20)7月に洞爺湖町ホテル先進国首脳会議洞爺湖サミット)を開催。
地勢を見ると、ひし形の胴体部と本州方向へ南西に延びる渡島半島で構成され、北東はオホーツク海、南東は太平洋、西は日本海に臨む。北は宗谷海峡を隔ててサハリン(樺太(からふと))と対し、南は津軽(つがる)海峡を隔てて本州に対する。東方には国後(くなしり)島・択捉(えとろふ)島・色丹(しこたん)島・歯舞(はぼまい)諸島が浮かび、千島(ちしま)列島へと続く。北海道中央部には北海道の屋根とよばれる大雪(たいせつ)火山群と石狩山地がそびえ、南北に急峻(きゅうしゅん)な日高山脈と北見(きたみ)山地が脊梁(せきりょう)をなして延びる。道東は阿寒(あかん)火山から知床(しれとこ)半島まで火山性の山地が連なる。道央は広大な石狩平野の沖積地が広がり、支笏(しこつ)湖・洞爺(とうや)湖の大カルデラを経て渡島半島に続く。気候は、亜寒帯に属するため、年間を通じ、全般に気温が低い。冬季は日本海側で積雪量が多く、オホーツク海岸は流氷におおわれる。梅雨はみられず、夏季は内陸部で高温となる。
産業は、広大な土地を生かし、稲作・畑作と肉牛・乳牛飼育を基幹とする農業が発展。農家1戸当たりの耕地面積は全国1位の広さで、専業農家率も全国平均を大きく上まわる。コムギ・ジャガイモ・ニンジン・生乳は全国一の生産量。大規模経営を特色とし、豆類・テンサイ・タマネギ・ダイコンなどの生産量も多い。乳牛・肉牛・メンヨウ・ブタの飼育も盛ん。森林面積は全面積の約65%を占め、パルプ・紙・木材製品などに利用される。漁業は、好漁場を背景に、古くから主産業をなした。1900年(明治33)ごろまで繁栄したニシン漁は激減したが、200海里漁業水域の規制後も、イワシ・スケトウダラ・サケ・マスなど、全国漁業生産量の約4分の1を占める水産基地に発展。おもな漁港は釧路・函館・根室・網走・稚内(わっかない)の各港。釧路港は全道一・全国屈指の水揚げ量を誇る。豊富な農林水産資源を基盤とする食品加工、紙・パルプ、木材などの工業に特色がある。工場立地は札幌市はじめ室蘭(むろらん)市の重化学、苫小牧(とまこまい)市の製紙・パルプなど道央圏に集中。苫小牧東部工業基地の開発も行われている。明治期以来、代表的な産業として発展した石炭採掘は、石狩炭田をはじめ相次いで閉山された。
観光では、変化に富んだ火山景観、原生林、温泉、湖沼など雄大な自然を残し、阿寒国立公園大雪山国立公園・支笏洞爺国立公園・知床国立公園・利尻礼文(りしりれぶん)サロベツ国立公園・釧路湿原(くしろしつげん)国立公園の6つの国立公園と、5つの国定公園、12の道立自然公園がある。このうち釧路湿原は1980年(昭和55)に日本初のラムサール条約登録湿地となり、知床は2005年(平成17)に世界遺産(自然遺産)に登録された。ほかに、ニセコやトマムなどのスキー場、旭山動物園は全国的に有名。さっぽろ雪まつり・おたる潮まつり・あばしりオホーツク流氷まつり・函館港まつりなどの観光行事も盛ん。
赤平市
阿寒郡
旭川市
芦別市
足寄郡
厚岸郡
網走郡
網走市
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釧路市
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北海道
ほっかいどう

本州と津軽海峡で隔てられ、北緯41度20分以北、日本の最北端の北海道本島と若干の小島からなる地方。国土の約22%を占める。
 ロシア領にもっとも近接する千島(ちしま)列島のうち、南の国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島は、第二次世界大戦前日本人が定住して町村制が施行され、北海道庁の管轄下にあった。この北方4島の返還を国の方針とする現在、本道の公表面積には4島の面積約5036.14平方キロメートルが含まれる。本道はロシアに近いだけでなく、アメリカへの最短コースにあたるので戦略的に重視される。オホーツク海に面する国内唯一の地方として流氷がみられ、また温暖な国土のなかでは寒冷な気候条件から山容が緩やかで雄大感があり、開発の歴史が新しく未開の原始景観の残ることと相まって、魅力を高めている。
 これら自然のなかで狩猟漁労生活を営むアイヌ民族の天地として、長く蝦夷地(えぞち)とよばれた。和人(中・近世に本州から移住した日本人のこと)の定住は江戸時代には道南の一部に限られ、奥地には交易や漁業の目的で季節的に少数が赴くにすぎなかった。幕末に北太平洋が捕鯨の舞台となり、欧米の外国艦船の出没が機縁となって、松前藩から幕府の直轄下に入った。このころから幕府役人による多くの探検調査が行われたが、その一人松浦武四郎(たけしろう)の建言で、明治維新後の1869年(明治2)北海道と改められた。その後、開拓使、屯田兵(とんでんへい)制、大土地処分などを通じて植民開拓が進み、和人が大多数を占めるに至った。
 2010年(平成22)の国勢調査では人口550万6419、面積8万3456.87平方キロメートル、人口密度は1平方キロメートル当り70.2人で全国でもっとも少なく、多くの施策にかかわらず人口の微増、ときに微減状態が続いている。このなかで主要都市、とくに札幌周辺への人口集中が高く、札幌市は全道人口の約35%を占める。逆に炭鉱都市は人口減が目だち、なかでも歌志内(うたしない)市は、2008年段階で5000人を割っている。2012年4月現在、35市9総合振興局5振興局129町15村(国後・択捉・色丹の6村を除く)に区画されている。道庁所在地は札幌市。[柏村一郎]

自然


地形
北海道は緩やかに弧を描く菱(ひし)形の胴体部と、南西部にS字形に延びる半島部が、石狩(いしかり)・勇払(ゆうふつ)低地帯で結ばれ一島を形成している。胴体部は樺太(からふと)(サハリン)から南に延びる蝦夷山系と、カムチャツカ半島から南西に延びる千島弧が、菱形の対角線の位置を占めて会合し山地の骨格となる。蝦夷山系は、宗谷(そうや)岬から南北に細長く比較的低い天塩(てしお)山地が高峻(こうしゅん)な夕張(ゆうばり)山地や日高山脈に続き、襟裳(えりも)岬に終わるのを中軸とし、東には北見山地が北から南へ高度を増して石狩山地に至り、南東の低い白糠(しらぬか)丘陵に続く。その間に中央凹地帯があって北から南へ頓別(とんべつ)平野、名寄(なよろ)盆地、上川(かみかわ)盆地、富良野(ふらの)盆地と続き、南では関東平野と同じ成因の構造盆地とされる広い十勝(とかち)平野が介在する。また千島弧は北海道東部火山地域を形成し、東から中央にかけて知床(しれとこ)、阿寒(あかん)、然別(しかりべつ)、大雪(たいせつ)山、十勝岳の各火山群が並び、カルデラ湖の摩周(ましゅう)湖、屈斜路(くっしゃろ)湖、阿寒湖を擁する阿寒国立公園、オホーツク海に突出する知床半島を中心とする知床国立公園、道内最高峰旭(あさひ)岳(2291メートル)を含む大雪山国立公園をもつ。なお、2005年(平成17)知床半島北部および沿岸海域は、その貴重な自然と多様な生態系により、世界遺産条約に基づき世界自然遺産「知床」として登録された。また氷河地形をもつ日高山脈襟裳国定公園、オホーツク海に面し、潟湖(せきこ)のサロマ湖・能取(のとろ)湖や砂丘の続く網走(あばしり)国定公園など、自然景観に富む所が多い。これらに付随して東端に低平な根釧(こんせん)台地、西端に古い火山の暑寒別(しょかんべつ)岳を含む増毛(ましけ)山地がある。後者は日本海に浮かぶ2小島を含め、暑寒別天売焼尻(しょかんべつてうりやぎしり)国定公園となっている。
 一方、南西の半島部は新第三紀層が広く覆う渡島(おしま)山地が骨格となり、南に駒ヶ岳(こまがたけ)火山群、北に羊蹄(ようてい)、樽前(たるまえ)などの火山群があり、中に内浦湾を挟む。この地域には支笏(しこつ)湖・洞爺(とうや)湖などカルデラ湖を擁する支笏洞爺国立公園のほか、日本海岸を含むニセコ積丹小樽(しゃこたんおたる)海岸国定公園、駒ヶ岳を中心とする大沼国定公園がある。一般に北海道の山地は緩やかな山容を呈して雄大感を強めるが、これは過去の周氷河気候の影響を示すものと考えられる。平野は胴体部の周辺に多く、また中央凹地帯に盆地が連なる。主要河川は中央高山に発し日本海や太平洋岸に達する。日本海側では上川、富良野両盆地を経て石狩・勇払低地帯に石狩平野を展開する石狩川水系、名寄盆地を北上する天塩川水系があり、太平洋側では十勝平野を流れる十勝川水系があって、いずれも本道の主要農業地帯を形成する。河川下流部には低湿な泥炭地が多いのが特徴で、釧路(くしろ)川下流の釧路湿原、天塩川下流のサロベツ原野などは未開の自然景観で知られ、前者は釧路湿原国立公園、後者は利尻礼文(りしりれぶん)サロベツ国立公園に指定されている。なお、道立自然公園に厚岸(あっけし)、富良野芦別(ふらのあしべつ)、檜山(ひやま)、恵山(えさん)、野付風蓮(のつけふうれん)、北オホーツク、野幌(のっぽろ)森林公園、松前矢越(まつまえやごし)、狩場茂津多(かりばもった)、朱鞠内(しゅまりない)、天塩(てしお)岳、斜里(しゃり)岳の12がある。[柏村一郎]
気候
日本列島の最北にあって冬の長く厳しい寒さとさわやかな夏、美しく彩られるが短い春と秋など、本州にみられない特徴をもつ。しかしこれらの特徴は、胴体部が典型で、半島部は東北地方の気候に近く相対的に温暖である。胴体部も太平洋、日本海、オホーツク海と異なる海に囲まれるため、低地は年平均気温約6~8℃で差は少ないが、季節的な差は大きい。夏にもっとも低温の地は根室(ねむろ)、釧路で平均17~18℃前後、同じ沿岸の網走や稚内(わっかない)より1℃以上低い。これは、太平洋岸に寒流の親潮と暖流の黒潮が接触し、海霧(ガス)の発生で日射を妨げるからである。反対に冬は晴天に恵まれるが、雪が少ないため地面の凍結が深い。日本海岸は暖流の対馬(つしま)海流の影響で温暖であるが、冬には西風が卓越して降雪をもたらし、背後の山地帯は2メートル余の積雪地となる。オホーツク海岸は2月には流氷が南下して接岸し、根室海峡を経て根室に及ぶ。このため紋別(もんべつ)、網走、根室では2月が最寒月となる。気候的に対照的な太平洋岸と日本海岸に比べ、オホーツク海岸はその中間で、年間の降水のバランスがよく、量も1000ミリメートルを割り、日本で最少の地方である。沿海部に対し、内陸部の盆地は大陸的気候を示し、冬は最寒地、夏は最暖地となる。たとえば上川盆地の旭川(あさひかわ)や十勝平野の帯広では1月平均気温はマイナス8℃前後、ときにマイナス30℃以下になる。旭川の北の美深(びふか)、音威子府(おといねっぷ)、幌加内(ほろかない)町の母子里(もしり)、十勝地方北部の陸別(りくべつ)など、ときにマイナス40℃にも達する最寒の地として知られる。逆に夏は最高温に達し、8月の平均気温は20℃、日中は30℃を超えることもある。[柏村一郎]

生物相


動物
日本列島がまだ大陸と陸続きで日本海が湖であったころ、北方から樺太(からふと)(サハリン)を経由して北海道から本州以南へ、旧北区系の動物が分布を広げていた。2万年ほど前に津軽(つがる)海峡ができたため、哺乳(ほにゅう)類ではヒグマ、シマリス、クロテン、氷期の遺存種ナキウサギなどは本州へ移住することができなかった。一方、南方から本州までやってきたニホンザル、ツキノワグマ、ニホンカモシカなどは北海道には渡れずに終わった。約1万年前には宗谷(そうや)海峡ができて大陸と隔てられた。宗谷海峡には、両生類、爬虫(はちゅう)類などの分布から動物分布境界線の八田(はった)線が設定され、また津軽海峡には、鳥類などの分布から提唱されたブレーキストン線が引かれている。鳥類ではエゾライチョウ、シマフクロウ、ヤマゲラ、ハシブトガラなど日本では北海道のみにみられるものもいるが、繁殖するもののうち本州との共通種は約70%で、津軽海峡はそれほど明確な境界とはなっていない。昆虫では、たとえば氷期の遺存種とみられる高山ガの珍種クロダケタカネヨトウなどの大雪(たいせつ)山のみの特産種や、国の天然記念物のダイセツタカネヒカゲ、ウスバキチョウ、アサヒヒョウモンなどの高山チョウなど、ユーラシアの北方に同種ないし亜種が分布し、日本では北海道にしかいないものも少なくないが、やはり津軽海峡はかならずしも重要ではない。淡水魚では、世界で北海道のみというドジョウ科のエゾホトケ、キュウリウオ科のシシャモがおり、サケ科のイトウ、オショロコマなど8種が日本では北海道のみに分布している。[桜井道夫]
植生
北海道は中央を走る脊梁(せきりょう)山脈(日高山脈など)で東西に二分され、東側を亜寒帯林、西側を冷温帯林と大まかに分けられているが、詳しくみると、寿都(すっつ)と長万部(おしゃまんべ)を結ぶ黒松内(くろまつない)低地帯に植生分布の境がある。これ以南は東北地方と共通した植生をもち、ブナ、ヒノキアスナロなどはここを北限とし、北方種としてのエゾマツなどはここを南限としている。また、北海道では冷温帯落葉広葉樹の代表的樹種であるミズナラ、イタヤカエデ、シナノキ、ウダイカンバ、ヤチダモ、ハンノキなどの林が道内至る所でみられ、これらがエゾマツ、トドマツなどの亜寒帯針葉樹林とモザイク状に混交するために、生態的には亜寒帯と冷温帯の移行帯、つまり針広混交林帯として認識されている。大雪山、日高山脈、阿寒にはエゾマツ、アカエゾマツ、トドマツなどの原生的針葉樹林が残されている。丘陵地や山麓(さんろく)には落葉広葉樹林があり、札幌の藻岩山(もいわやま)や円山(まるやま)には良好な例がみられる。河川下流域にはしばしば広大な泥炭湿原が発達し、ミズゴケやスゲを主とした特異な景観が認められる。釧路湿原、サロベツ原野などがとくに有名である。海岸砂丘はヒオウギアヤメ、エゾスカシユリ、エゾキスゲ、ハマナスなどで彩られる。小清水(こしみず)海岸、浜頓別(はまとんべつ)湖(クッチャロ湖)などの砂丘は原生花園の名で知られるが、これらは放牧による半自然植生である。大雪山や知床、利尻(りしり)、礼文(れぶん)などの高山帯には多くの高山植物が生育する。なかでも大雪山の高山植物は量的にも多く、日本の宝庫とさえいわれ、分布地理上からも重要であるため、研究者がよく訪れる。[鮫島惇一郎]

歴史

北海道の歴史は沖縄の場合と同様に、日本社会のほかの地域とは異なった独自の発展過程を歩んでおり、前近代においてその傾向が著しい。その基本的な特徴を指摘するならば、(1)先土器文化に続く土器文化が紀元前6000年前から13世紀ごろまで存続し、縄文文化→続縄文文化→擦文(さつもん)文化(道北東部ではオホーツク文化が併存)といった継起的発展を遂げ、そのなかからいわゆるアイヌ文化が形成されてきたこと、(2)こうしたアイヌ民族の居住する蝦夷(えぞ)地に、12世紀ごろから和人が渡来し始め、アイヌ民族と対抗しつつ道南地方に和人政権を成立させ、それが商場知行(あきないばちぎょう)制(のちに場所請負制へ移行)を経済的基盤とする近世の松前(まつまえ)藩に発展すること、(3)維新後、明治政府はこの地を北海道と改称し、日本資本主義の内国植民地として位置づけ、囚人や土工、一般移民を投入してその開拓を意図したこと、である。それは、北海道が内国植民地から「内地」化する過程でもあった。[桑原真人]
先史・古代
現在のところもっとも古い先土器時代の遺跡は、剥片(はくへん)を利用した石器をもつ約2万年前の千歳(ちとせ)市祝梅三角山(しゅくばいさんかくやま)遺跡、上士幌(かみしほろ)町嶋木(しまき)遺跡などである。やがて石刃技法でつくられた石器が普及し、続いて湧別(ゆうべつ)技法などによる細石刃文化の段階に達し、次に弓矢の使用をうかがわせる石器が現れて終末期を迎えた。
 土器が出現し、明確に縄文時代を迎えるのは約8000年前である。石狩低地帯を境に東北地方からの影響を強く受ける南西部と、北海道的伝統をもつ北東部では、その文化に差異がみられた。初期には貝殻文土器が広く分布し、北東部は平底、南西部は尖底(せんてい)であった。約6000年前から土器の大型化が始まり、尖底土器が姿を消し、やがて南西部では東北地方を本拠とする円筒式土器をもつ文化が、北東部では北筒式土器をもつ文化が発達した。縄文時代の最後である3000~2000年前には本州から渡ってきた亀ヶ岡(かめがおか)式土器が石狩低地帯まで波及し、低地帯の北東側の土器にも影響を与えた。西暦紀元前後には弥生(やよい)文化が北日本に波及したが、北海道では依然として狩猟漁労の生活が続き、縄文土器の系統を継ぐ土器が使用された。それでこの文化を続縄文文化とよんでいる。弥生文化の影響を受けて金属器が使用され、管玉やビーズ玉も入ってきた。続縄文文化の末、7世紀には北方系の海獣猟を中心とした漁労文化であるオホーツク文化が、オホーツク海沿岸から千島(ちしま)列島などの流氷接岸地帯に広がった。金属器とともに石器も多く、多様な骨角器を発達させた。遺跡では、大規模な住居跡、墓地を伴う網走(あばしり)市最寄(もよろ)貝塚が著名である。8世紀ころには、本州文化の強い影響のもとに最後の土器文化である擦文文化が広がった。土師器(はじき)との関連をうかがわせる刷毛目(はけめ)のついた擦文土器をもち、鉄器を使い、石器はみられない。小規模ながら農耕も行われた。オホーツク文化と同じく、12、13世紀に終末を迎えた。
 一方、奈良・平安時代の北海道は、中央政府から渡島(わたりしま)とよばれ、渡島の蝦夷は交易のため毛皮類をもって渡来した。出羽(でわ)国がこれを管轄し、私交易を禁じた。平安時代末になると、蝦夷ヶ島、蝦夷ヶ千島とよばれるようになった。[小林真人]
中世
鎌倉幕府は蝦夷島を重罪人の流刑地とし、津軽安東(あんどう)(安藤)氏を蝦夷管領(かんれい)に任じこれを統轄させた。鎌倉時代の蝦夷島には日の本(ひのもと)、唐古(からこ)、渡党(わたりとう)の3類が住み、渡党は交易のために津軽外ヶ浜に渡来したといい、20隻に及ぶ関東御免津軽船が蝦夷島の産物を積んで日本海を航行した。安東氏の本拠のあった十三湊(みなと)は室町時代に至るまで夷船(いせん)、京船でにぎわった。このような交易活動の活発化に伴い、13世紀には擦文文化が終わりを告げ、近世アイヌ的文化の形成が始まった。
 室町時代中期になると、渡島(おしま)半島南部には安東氏輩下の小豪族である館主(たてぬし)が割拠していたが、安東氏の弱体化により1456年(康正2)コシャマインの蜂起(ほうき)に始まるアイヌ民族を巻き込んだ長い戦乱に突入した。この戦乱のなかで、アイヌ民族は木柵(もくさく)と空堀で囲まれた砦(とりで)であるチャシを築き、また、いくつものコタンを統率する首長層も現れた。[小林真人]
近世
1514年(永正11)上ノ国(かみのくに)の蠣崎(かきざき)氏(後の松前氏)が館主を統一し、徳山(松前町)に新城を築き、1551年(天文20)には東西のアイヌと講和し、対アイヌ交易を城下で行う体制を確立した。1593年(文禄2)に豊臣(とよとみ)秀吉から朱印状を、1604年(慶長9)には徳川家康から対アイヌ交易の独占を認める黒印状を得、近世松前藩が成立した。寛永(かんえい)年間(1624~1644)のころには藩領域を明確にする必要から、蝦夷島を和人地(松前地)と蝦夷地に分け、城下交易を廃止して蝦夷地内にアイヌと交易する商場を設け、これを上級家臣に分与した。商場知行=商場交易制の成立である。1669年(寛文9)のシャクシャインの蜂起が蝦夷地全域に波及するのは、蝦夷地内に縛り付けられたことに対するアイヌの不満が底流にあったからである。
 一商場に派遣できる船は夏船一隻に限られていたが、元禄(げんろく)年間(1688~1704)ころから、秋味(あきあじ)、鱒(ます)、海鼠引(なまこびき)など特定名目で船の派遣を許したので、蝦夷地内での漁業も活発化し、点にすぎなかった商場も、漁業を行う場所を含めた空間的な広がりをもつようになった。また、場所の経営を商人が請け負う場所請負制も享保(きょうほう)年間(1716~1736)ころから顕在化し、天明(てんめい)年間(1830~1844)には和人地での鰊(にしん)漁がほとんどできなくなり、和人漁民が蝦夷地に入漁する鰊二八取(にはちとり)漁業が発達し始めた。1789年(寛政1)の国後(くなしり)・目梨(めなし)のアイヌの大蜂起と、翌年の和人地漁民の一揆(いっき)は、場所請負人の横暴に対する抵抗であった。
 一方、18世紀も後半になると、ロシア勢力の南下が顕在化し、幕府も蝦夷地に目を向け始めた。天明年間の蝦夷地開拓計画は田沼意次(おきつぐ)の失脚で挫折(ざせつ)したが、1792年ロシア使節ラクスマンが根室(ねむろ)に、1796年英船プロビデンス号が虻田(あぶた)沖に来航したため、1799年幕府は東蝦夷地を仮上知(あげち)し蝦夷地の経営に着手した。1802年(享和2)には蝦夷地奉行(ぶぎょう)(のち箱館(はこだて)奉行)を置き、永上知に改めた。さらに1807年(文化4)には松前・西蝦夷地も召し上げ、翌年奉行所を箱館から松前に移し、松前奉行と改称した。しかし、ロシアの脅威が薄れ、蝦夷地経営も思わしくなかったため、1822年(文政5)からふたたび松前藩が松前・蝦夷地の経営にあたった。
 1854年(安政1)日米和親条約に伴う箱館開港に備え、幕府はふたたび箱館付近を上知して箱館奉行を置き、翌1855年には松前・江差(えさし)方面を除く松前・蝦夷地を直轄した。1859年には警衛にあたっていた6藩に蝦夷地を分与した。また、幕府は和人の蝦夷地永住を許すなど内陸部の開拓を積極的に進め、1861年(文久1)には山越内(やまこしない)関所を撤廃し、和人地と蝦夷地の往来を自由にした。ここに蝦夷地はその存立の意義を失うに至った。[小林真人]
近代
維新変革により成立した明治政府は、幕領下の蝦夷地を支配した箱館奉行所にかわり、1868年(慶応4)4月に箱館裁判所を設置した。同閏(うるう)4月、裁判所は箱館府と改称されたが、これらはいずれも地方行政機関でありながら、同時に蝦夷地開拓という国家的事業を兼務するという変則的な機構であった。そのうえ、同年10月からの箱館戦争の影響もあり、開拓はほとんど進まなかった。箱館戦争では、榎本武揚(えのもとたけあき)の率いる旧幕府軍が蝦夷地鷲ノ木(わしのき)(森町)に上陸、箱館や松前で新政府軍・松前藩兵と戦い、蝦夷地を占領した。榎本は士官以上の投票で総裁に選ばれ、いわゆる榎本政権が樹立されたが、翌年5月には政府軍に敗れ降伏した。
 しかし、蝦夷地開拓を重視した政府は、1869年(明治2)7月、その専掌機関として太政官(だじょうかん)直属の開拓使を設置し、8月に蝦夷地は北海道と改称された。開拓使は、近世以来の場所請負制を開拓の阻害要因とみて廃止の方針を打ち出し(1876年全廃)、北海道の新たな政治的拠点となる札幌本府の建設に着手した。ただし、全道の開拓実施は困難なため、札幌など重要地を開拓使の直轄とするほかは、本州の諸藩や華族・士族に開拓を委任する分領支配の方式がとられた。が、こうした方式では全道の統一的な開拓が不可能となるため、1871年8月までに廃止され、開拓使の直轄となった。この間、渡島半島西部の旧松前藩領は、1869年以後、館(たて)藩→館県と改称され、1871年には青森県の管轄下にあったが、翌年開拓使に移管された。また、当初開拓使管下の樺太(からふと)には、ロシアとの外交関係の緊迫化により、1870年樺太開拓使が置かれたが、翌年開拓使に併合されている。1870年5月、開拓次官に就任した黒田清隆(きよたか)(1874年開拓長官)は、同10月、樺太の放棄と西洋技術の導入を骨子とする北海道開拓に関する建議を行った。これにより、1872年からの10年間に総額1000万円の経費を北海道の開拓事業に投下するという開拓使十年計画が発足することとなった。まず開拓使顧問としてアメリカの農務省長官ホーレス・ケプロンが招かれ、アメリカ人を中心とする多数のお雇い外国人が来道した。彼らの指導の下に、開拓使は、道内の地下資源調査、道路建設、河川や港湾の整備、幌内鉄道(ぽろないてつどう)の建設など開拓の基礎事業に着手した。さらに、士族集団を中心とする移民の招来、屯田兵(とんでんへい)制度の実施、札幌農学校の創設などが行われ、これらの事業に支出された経費は、当初額の2倍以上の2082万円余に達している。十年計画終了直前の1881年には、「明治十四年の政変」の発火点となる開拓使官有物払下げ事件が起こり、払下げ計画は中止された。翌1882年2月、開拓使は廃止され、札幌、函館(はこだて)、根室の3県が設置された。1883年1月には、従来の官営諸事業を総括する農商務省北海道事業管理局も設置された。しかし、この3県1局体制は行政の不統一や開拓の進展を阻害する結果となり、1886年1月には3県を廃止、新たに北海道庁が設置された。初代長官岩村通俊(みちとし)は従来の移民政策に顕著な直接保護を廃止し、行政の簡素化や官営事業の払下げ、殖民地選定(せんてい)事業の実施などのいわゆる間接保護政策を採用し、安上がりの開拓を図った。土地政策でも、1886年の北海道土地払下規制、1897年の北海道国有未開地処分法の公布によって大地積の処分が進行し、道外の華族、政治家、資本家を地主とする大土地所有が各地で成立する契機を与えた。1890年代に入ると、本州方面からの北海道移民が急増したこともあって、北海道は本格的な開拓時代を迎え、こうした状況が1920年(大正9)前後まで続いた。このため、1886年に30万人弱であった道内人口は、1901年(明治34)に100万人を超え、1920年には約236万人に増加した。また耕地面積も、1886年の2万5000余町歩が、1920年には84万余町に達している。
 このように、北海道の開拓が内陸部を中心に進行するにつれ、それまで北海道を対象外としていた行政上の近代的諸制度も、逐次適用されるようになった。たとえば、市町村制の施行は、1899年の区制(1922年に市制)、1900年の一級町村制、1902年の二級町村制として、また、衆議院議員選挙法の施行は1902年に、それぞれ実現している。しかし、こうした道民の権利に属する制度よりも、1889年の函館などでの徴兵令施行(全道施行は1898年)にみられるように、その義務的制度のほうが、率先して施行された点に特徴がある。ともあれ、近代的諸制度の北海道への適用は1922年前後を頂点としており、この時期の北海道が内国植民地的性格を払拭(ふっしょく)して「内地」化する一画期となったことを示している。しかしながら開拓の進展の陰では、1899年の北海道旧土人保護法公布に端的に示されるアイヌ民族への差別と酷使、1890年代にとくに過酷だった囚人労働、第二次世界大戦まで北海道の土木事業にはつきもののタコ部屋とよばれる飯場制度など、開拓にまつわる多くの犠牲が存在していたのである。とりわけ、囚人労働、タコ労働と続く北海道の強制労働の系譜は、第二次世界大戦下では、北炭などの炭鉱や鉱山を中心とする朝鮮人・中国人の強制連行として実現するのである。[桑原真人]
現代
第二次世界大戦前段階において、逐次「内地」化への道を歩みつつあった北海道であるが、北海道会法、指定町村制(二級町村制の後身)などのなかに依然として内国植民地的性格を残していた。しかし、こうした特別の制度は、1946年(昭和21)9月の道府県制の公布によって消滅し、翌1947年5月、地方自治法の施行により、「内地」他府県と同一の地方自治体である北海道が成立した。また、日本は敗戦によってすべての海外植民地を失ったため、国内的にもっとも未利用資源の多い北海道が開発の対象として注目され、1950年に北海道開発法が制定された。その実施機関として北海道開発庁および出先機関の北海道開発局が設置されたが、これは本来一体的に行われるべき北海道の開発行政が、政府と地方自治体とに分離されることを意味し、その是非をめぐってさまざまの議論がなされた。その後2001年(平成13)1月、北海道開発庁は、中央省庁再編に伴い建設省などとともに再編統合され国土交通省となった。同省の内部部局である北海道局は、北海道開発庁が規模を縮小して格下げになったものである。これは、北海道の開発行政から政府が手を引いたとはいえないまでも、道庁の北海道開発行政における主導権確立の第一歩となるであろう。[桑原真人]

産業

明治以来、北海道は農林水産業、石炭鉱業など、現地資源を開発する第一次産業の発展を基盤にしてきた。この間、国の北海道開発に向けられた資金と指導の影響は大きく、本道産業の官依存傾向は根強い。これによって北海道は米、牛乳、水産物などの食糧基地となり、またエネルギー供給地の役割を担ってきた。しかし歴史が浅いため民間資本の蓄積が不十分で、工業化の点では主要工業は本州資本の進出で成立するなど、地元工業は大いに立ち遅れた。自由貿易を基調に安い海外産物の導入傾向が強まると、国の保護助成で成長した本道産業は根底から揺さぶられるに至った。埋蔵量がありながら採算面で多くの炭鉱は閉山に追い込まれ、良質米の少ない米作は米の生産調整で大幅な減反転作を強いられ、北洋漁業の縮小は本道水産業を直撃し、ひいて造船業の不振となり、さらに鉄需要の減少は歴史ある本道鉄鋼業を縮小させるなど、道内の基幹産業は大きな試練に直面している。[柏村一郎]
農業
北海道の耕地面積は116万9000ヘクタール(2005)で道総面積の約15%にあたる。うち牧草地45%、畑35%、水田20%で、他府県と大きく異なる。農産物粗生産額では生乳が首位、米がこれに次ぎ、ほかを大きく引き離している。米の主産地は道央石狩川流域の空知(そらち)・上川地方で全道の約4分の3(2007)にあたるが、水田利用再編対策のため本道の減反割当ては全国一高く、主産地でも転作は著しい。とくに道北、道東では水田が姿を消している。しかし価格の安定した作物として、規模も大きく生産費の安い本道米作は基幹農業である。これに対し、酪農は道東の十勝、根室、釧路、網走、それに道北の上川北部、宗谷の各地方が中核であり、とくに気候的制約の多い根室、釧路、道北地方では圧倒的に酪農に依存する。これら地方では農家1戸当りの乳牛保有数は平均100頭(根室では120頭)を超えている。しかし経営耕地面積不足による飼料、とくに濃厚飼料の購入、優良乳牛導入や畜舎関係施設などで多額の借金を抱え経営は楽ではない。また生乳価格安定や本州零細酪農との衝突など問題も多い。畑作は十勝・網走地方が中心で、ジャガイモ、豆類、ビートなど本道の特産品が多い。また小麦や大豆、アズキは水田転換作物として、前記2地方のほか米産地の上川や空知でも増えている。蔬菜(そさい)や果実では地域特化が目だち、富良野盆地のニンジン、羊蹄山麓のアスパラガス、北見・富良野・岩見沢・札幌のタマネギ、夕張のメロン、余市(よいち)・仁木(にき)のリンゴ、ブドウなどがある。農家数は5万1990戸(2005)、1戸当り耕地は19.8ヘクタールで、10ヘクタール以上の農家は54%を占め、専業農家率も52%に達する。耕地面積が広く専業農家の多い点で他府県の農業と大きく異なる。開拓当初アメリカなど西洋の農法を取り入れた伝統は、道東の畑作酪農地帯に強く残り、大型機械施設の導入が盛んで、その物置やサイロ畜舎などが母屋(おもや)を圧して点在する風景は、欧米的な雰囲気を与える。[柏村一郎]
林業
森林面積は533万9000ヘクタール(2005)で、北海道の65%を占める。うち国有林が55%、私有林が27%、公有林が18%である。地域的には上川・網走・十勝地方にまたがる山地帯が森林地の40%を占めて林業の中心となっている。針葉樹中心の造林が進み、広葉樹6に対し針葉樹4の割合になっているが、全体の70%を占める天然林に限ると、広葉樹の割合はさらに高く、その80%に達する。伐採利用される樹種ではエゾマツ、トドマツ、カラマツが圧倒的に多く、針葉樹のほとんどにあたる。広葉樹ではナラ、ブナその他種類も多いが、いまは総量では針葉樹の半分に満たない。品質はよいためインチ材としてヨーロッパ諸国にも輸出される。林業・狩猟業従事者は安い外国材輸入による不況の影響を受け、1960年をピークに減少し、1990年には8000人を割っている。かつては流送や森林軌道で搬出したが、いまはトラック輸送が中心である。[柏村一郎]
水産業
太平洋、日本海、オホーツク海に四周を囲まれた北海道は、沿岸に寒暖流が交わる水産資源の宝庫である。江戸時代中期以降、本道発展の原動力は水産業であり、沿岸の漁業の町は歴史も古く、内陸開拓の基地でもあった。道南のコンブ、ニシン、道東のサケ・マスなど地先漁業から、日露戦争後の函館(はこだて)を基地とする北洋漁業へと発展したが、第二次世界大戦で水産業は衰退の極に達した。戦後は北洋漁場の縮小により、日本海の武蔵堆(むさしたい)、大和(やまと)堆、オホーツク海の北見大和堆など近海沖合漁場も開発し、漁船の動力化・大型化によって漁況の回復を図るが、国際問題もからんで停滞気味ながらも漁獲量124万余トン(2006)は全国一の水産王国を保持する。魚種はスケトウダラ、サケ、イカ、サンマ、ホッケなど寒流系のものが多い。養殖も1980年代後半より盛んに進められ、古い歴史をもつサケの捕獲採卵や稚魚放流も道東を中心に行われて、北洋サケ・マス漁場の縮小を補うほか、零細漁民のためのコンブ増殖、オホーツク海の特産ホタテガイの養殖など収量増大の努力が重ねられている。古い歴史の道南や日本海沿岸はニシン回遊がとだえて以来、漁業不振による出稼ぎ漁民が増えてさびれた。一方、主要漁場に近く港湾設備の整う太平洋岸の釧路、根室花咲(はなさき)、厚岸(あっけし)、宗谷海峡の稚内、津軽海峡の函館、オホーツク海沿岸の紋別、網走など特定の漁港に漁獲物が集中する。とくに釧路は水揚高全国有数を誇る。しかし日米加および日ロ漁業条約に基づく日本への漁獲割当て交渉で、米ロ200海里水域での自国水産資源保護の強い姿勢により、北洋漁場の漁獲量削減は厳しさを加え、北洋出漁基地である釧路、花咲、稚内、函館などに打撃を与えている。その一方、西日本水域での韓国との漁業交渉の影響で、本道周辺の水域には韓国漁船が活動し、沿岸漁民との紛争を生じるなど、国際関係が本道水産業に強く投影されている。[柏村一郎]
鉱業
明治以後の内陸開発で最初に着目され、開発されたのは石炭資源である。石狩炭田の幌内(ほろない)炭山(三笠市)は小樽(おたる)港と、夕張炭山は室蘭(むろらん)港とそれぞれ結ぶ北海道初期の鉄道建設をもたらし、歌志内(うたしない)炭山は鉄道の内陸延長に糸口を与えるなど開発を促進した。その後、金鉱、鉄鉱、水銀鉱など局地的開発に資した鉱産資源も出たが一時的であり、石炭ほど長期かつ広範に本道開発に寄与したものはない。しかし海外輸入の安い石油や石炭に押されて閉山、減産を強いられ、最盛期の2000万トン台から2000年度(平成12)には215万トンに低下した。2002年1月、太平洋炭礦(釧路)の閉山を最後に大規模炭鉱はすべて姿を消し、小規模な露天堀り炭鉱が残るのみとなった。石炭は需要の大半を占める電力・鉄鋼業の動向に左右され、いまは一般燃料炭生産のみで、それも電力価格引下げの障害とみられ将来性が薄い。このため炭鉱都市は浮沈の瀬戸際にたたされている。非鉄金属鉱業は小資本が多く、海外市況の好不況に強く左右されて不安定な操業を繰り返していた。半島部に多く、豊羽(とよは)(札幌)の鉛・亜鉛・インジウム、恵庭(えにわ)の金・銀などが近年まで稼動していたが、いずれも閉山となった。[柏村一郎]
工業
北海道の工業は、農林水産業など本道経済の基幹である第一次産業の基盤のうえに成り立ち、食料品製造業や木材木製品製造業など軽工業が優越する点に特徴がある。2004年度の工業統計によれば、従業員4人以上の事業所数7244のうち、軽工業は約60%で、また従業者数も、約19万のうち、軽工業が65%で、重化学工業を上回っている。さらに出荷額においても軽工業は57%を占め、重化学工業のそれを上回る。いずれの場合においても食料品製造業は首位にあり、ほかを大きく離している。出荷額5兆2630億円の内訳をみると、第1位の食料品は1兆8110億円で、第2位の石油・石炭工業の4630億円の4倍に近い。第3位が紙パルプ工業で4150億円、鉄鋼業は3460億円で第5位。このように重化学工業の面で劣勢であることが、工業集積上の大きな弱点とされている。これを地域的にみると、工業出荷額では室蘭、苫小牧(とまこまい)両市がトップ、政治・教育文化都市といわれる札幌市がこれに続き、他都市を大きく引き離している。これに1970年ごろから企業誘致により本州企業の進出の著しい千歳、恵庭(えにわ)両市などが加わり、1964年指定の道央新産業都市を形成、工業拠点の全国的拡散を目ざした新産都市中でも成功例といわれ、本道工業地域の核心となっている。しかし経済の低成長期に入って苫小牧東部大規模工業基地の開発停滞など問題も多い。[柏村一郎]
開発
第二次世界大戦後の北海道は人口吸収、未開発資源活用のホープとされ、緊急開拓入植が行われたが不成功に終わった。そこで本格的に開発に取り組むため、全国に先駆けて北海道開発法が1950年に制定され、中央に北海道開発庁(現国土交通省北海道局)、その執行機関として札幌市に北海道開発局を設け、総合開発が始まった。これまでに第1期(1952~1962)、第2期(1963~1970)、第3期(1971~1977)、第4期(1978~1987)、第5期(1988~1997)、第6期(1998~2007)の各総合開発計画が行われ、第7期総合開発計画(2008~2017)に至る。その第1期は資源開発中心(十勝川水域電源開発、苫小牧(とまこまい)人工港、根釧(こんせん)パイロットファーム、新篠津(しんしのつ)泥炭地開発)で未開地への進出、第2期は工業開発中心(札幌ほか拠点都市育成)で人口の都市集中をもたらした。第3期は大型プロジェクト(道北・道東の大型酪農村、苫小牧東部工業地)に特徴があったが、1973年の石油ショックに遭遇して挫折(ざせつ)した。次いで第4期と第5期では低成長経済に転じ、従来なおざりにされた生活環境整備など社会資本の充実、民間活力の導入助長を行う地味なものになる。この間に石狩湾新港、新千歳空港など交通整備が進められたが、水害防止を目ざした千歳川放水路は自然環境との調整などで停滞する。[柏村一郎]
交通
北海道の交通は明治以来、道都札幌と首都東京を結ぶルートを基幹とした。鉄道は、最初石狩炭田の石炭搬出を目的とし、開拓の進展につれて内陸に延び、交通の主役を担ってきた。その間に開発や軍事的考慮が優先し国営となった。しかし、採算性重視のため、戦後のとくに1987年の国鉄民営化前後、羽幌(はぼろ)線、湧網(ゆうもう)線、胆振(いぶり)線など多くの赤字ローカル線が廃止された。幹線は函館、宗谷、根室、石北(せきほく)の各本線に室蘭本線が加わるが、北海道は南北東端がかつての軍都旭川に結ばれる形になっていた。第二次世界大戦後、特急の走る幹線は札幌中心に変わった。札幌―苫小牧(とまこまい)間の千歳(ちとせ)線の買収、千歳線南千歳駅と根室本線新得(しんとく)間の石勝(せきしょう)線開通により、札幌―函館間と札幌―釧路間はこれらの路線経由が主ルートとなり、旭川経由の石北本線が加わる。1988年青函トンネル(JR北海道津軽海峡線)が開通、本州と鉄道で連絡した。電化区間は札幌中心に小樽(おたる)―旭川間、札幌―室蘭間、それに函館―津軽海峡トンネル間などである。国道は明治初年の札幌―室蘭、森―函館間の札幌本道開削に始まる。第二次世界大戦後は自動車交通の発達で主役となり、札幌中心に苫小牧・室蘭への国道36号、小樽経由函館への5号、旭川への12号が中軸である。高速道路も札樽(さっそん)自動車道(札幌―小樽間)が完成し、これと結んで道央自動車道は(士別剣淵―札幌―八雲間)が完成、道央自動車道の千歳恵庭ジャンクションで分岐する道東自動車道は、北見線が足寄インターチェンジまで、釧路線が本別インターチェンジまで(2008年)整備されている。航空路は新千歳空港が札幌の入口となり、東京と結ぶほか全国の主要路線を形成する。このほかに丘珠空港も併せて道内主要都市の空港とも連絡する。また旭川、釧路、帯広、女満別(めまんべつ)(大空町)、函館、稚内(わっかない)、紋別(もんべつ)、根室中標津(なかしべつ)の各空港も東京、名古屋などと直行便で結ばれる。函館と青森を結ぶ青函連絡船は本道の海上航路のなかでも主要交通機関だったが、1988年に青函トンネルが完成、津軽海峡線の開通で70年の歴史を閉じた。なお、苫小牧、小樽が本州とフェリーで結ばれ、離島航路が国の補助で運航されている。[柏村一郎]

社会・文化


教育文化
国による学校教育は、北海道開拓を反映して札幌と函館に始まる。学制制定の前年1871年(明治4)開拓使役人の子弟のため小学校の前身にあたる札幌の資生館と函館学校が開かれた。高等教育機関では1876年開拓指導者養成の札幌農学校、1880年教員養成の函館師範学校、2年後に札幌師範学校ができ、いまの北海道大学と北海道教育大学に発展した。2013年(平成25)現在、このほか国立大学では小樽商科大、室蘭工業大、帯広畜産大、北見工業大、旭川医科大、それに道立札幌医科大、釧路公立大、公立はこだて未来大、札幌市立大、名寄市立大、同短期大がある。私立大学は明治・大正に始まる中等学校を母胎に、第二次世界大戦後形成された北海学園大(札幌市)、藤(ふじ)女子大(同市)をはじめ24大学、短期大学は18ある。札幌には5国公立大学(短期大学含む)、25の私立大学・短期大学が集中して北海道の学都となっている。ほかに国立工業高専が函館、旭川、釧路、苫小牧の4市に分散する。
 新聞は1878年『函館新聞』が発刊され、2年後に『札幌新聞』が続き、以後各主要地に地方紙が興亡した。現在は第二次世界大戦時に地方新聞が統合した『北海道新聞』が代表格で、札幌本社のほか、函館、旭川、釧路の支社で発行し、全道新聞発行部数の約216万部の半分以上を占める(2006)。ついで1949年発刊の『北海タイムス』があったが、1998年廃刊した。戦後は全国紙の朝日、毎日、読売各新聞も進出、札幌に支社を設けて発刊している。ラジオ、テレビではNHKが札幌をはじめ主要都市に放送局を置き、全道をカバーするほか、北海道放送(HBC)、札幌テレビ放送(STV)、北海道テレビ放送(HTB)、北海道文化放送(UHB)、テレビ北海道(TVh)、FM北海道などがある。いずれも札幌に本社を置き、放送事業でも札幌は他都市の追随を許さない。文化施設は道立北海道開拓記念館、道立図書館、道立近代美術館など札幌中心に多いが、函館にも古文献に富む市立函館図書館、考古民族資料に富む市立函館博物館など注目すべきものがある。[柏村一郎]
生活文化
北海道は先住のアイヌ民族の世界に本州から和人が移住して、明治以後は積極的に同化政策がとられた。その結果アイヌ民俗文化の減衰は避けられず、各地博物館やいくつかの民族行事、民族舞踊に過去をしのぶ程度であった。しかし最近、少数民族の復権の世界的傾向を反映してアイヌへの法的改善が進められ、従来の「北海道旧土人保護法」(1899)を廃止、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(1997)を制定、その伝統文化の振興普及が講ぜられることとなった。日常語に残るアイヌ語は豊富で、魚類のオショロコマ、チップ、シシャモ、シャケ、海獣のトド、トッカリ(アザラシ)、草の実のハスカップ、ベカンベ(ヒシの実)、そのほかマキリ(小刀)、ルイベ(凍らせた魚)などがあげられる。また地名にはアイヌ語を起源とするものが圧倒的に多い。道内35市のうち札幌をはじめ80%近い市が該当し、山岳河川名の大半がそうである。漢字で表現され和名と思われるものもアイヌ語の意訳であることが多く、狩猟漁労民として自然と接したアイヌが、土地の特徴を適切に表現する民族的叡智を示した結果であろう。近年はアイヌ語についての意識が高まりつつあり、アイヌ語関連学習教材の出版が増えてきている。また寒冷積雪地への対応から、住宅は縁側や雨戸など開放的な構造は用いられず、壁と柱を一体にしたいわゆる枠組工法によるものが多くなってきている。また窓など開口部は二重式がほとんどである。歴史が新しいため民俗芸能や行事は少ない。それでも道南には松前神楽(かぐら)、江差沖揚(えさしおきあげ)音頭、江差追分(おいわけ)など古い芸能が集中する。一方、古くからのアイヌ芸能行事の復興が熱心に進められ、鶴(つる)の舞など「阿寒のアイヌ古式舞踊」(国の重要無形民俗文化財)やムックリなどアイヌ楽器の保存伝承、また日高振興局管内の平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)アイヌ文化博物館の古い風習の保存活動などが、道央から道東にかけてみられる。熊(くま)の木彫など本来アイヌの授産活動が大衆化とともに変形したものもある。国や北海道の指定文化財は312件ある(2013)。国指定では阿寒湖のマリモ、昭和新山などの特別天然記念物6件を含めて天然記念物は47件でもっとも多く、北海道の特性が現れている。史跡は特別史跡の函館市の五稜郭(ごりょうかく)をはじめ各藩陣屋跡など幕末の北辺防衛施設、アイヌのチャシ(砦(とりで))や和人の館(たて)跡などアイヌと和人の抗争を物語る北海道独自のものが多い。重要文化財には明治期の西洋文明を取り入れた洋風建物がよく知られ、札幌を象徴する時計台(旧札幌農学校演武場)や通称「赤れんが」の旧北海道庁本庁舎、札幌の豊平館(ほうへいかん)や旧函館区公会堂など、開国とともに西洋文化の影響を受けて開けてきた北海道を表すものに特色がある。なお、アイヌ民族については「アイヌ」の項を参照されたい。[柏村一郎]
民話
わが国の北方には、歴史的に蝦夷、毛人、えみし、えぞなどとよばれた人々がいた。そうしたなかで、北海道における民話の特色は、先住民族であるアイヌの伝承に認めることができる。現在もなおその伝承者は生存する。
 アイヌの伝承は、『ユーカラ』『サコルペ』『ハウキ』などの長編叙事詩に代表される。それらでは、主人公を英雄神や動植物の姿をもつ自然神として語られる。そこで特筆されるのは、これらの物語はいずれも主人公の自伝形式をもって語られる点にある。第一人称発想である。内容は、多く恋と戦いと信仰を主題にしているが、それはいずれも祭りや儀式に直結し、きわめて神聖なものとして処遇されている。同時にまた子供たちの教育や扶育に役だつ働きも与えられている。こうした口語りの物語に通じるのが、教養の第一義とされてきた。これは、文字をもたない民族にあって、民話が人間生活にいかに深くかかわってきたかをよく示す例である。
 一方、北海道には本土から伝えられた民話も多い。この地は早くから憧憬(しょうけい)と神秘観の対象であった。人々のそうした心意を反映して、鎌倉時代にはすでに『御曹司(おんぞうし)島わたり』が成立した。民衆の間に人気のあった源義経(よしつね)が、蝦夷の地へ渡って神オキクルミとして祀(まつ)られたとする伝承もある。
 また、北海道南部の海岸部には、江差の繁次郎(しげじろう)を主人公とする笑話が伝えられている。ニシンの漁場として栄えた江差には、ニシン漁の季節労働者のヤン衆(しゅ)が各地から集まってきた。繁次郎話は、そうした人々のなかで生まれた狡猾(こうかつ)で愛すべき男の笑話である。繁次郎話は東北海岸一帯にも分布し、ニシン場を行き交った人々と民話の関係を如実に示している。
 なお、第二次世界大戦後樺太(からふと)(サハリン)から移住したウイルタ人の民話も語られ、「テールク」「サフリ」などの古式ゆかしい民話を誇る老齢者も現存する。[野村純一]
『『新北海道史』全9巻(1969~1981・北海道) ▽海保嶺夫『日本北方史の論理』(1974・雄山閣) ▽高倉新一郎・関秀志著『北海道の風土と歴史』(1977・山川出版社) ▽榎本守恵著『北海道の歴史』(1981・北海道新聞社) ▽『北海道大百科事典』上下(1981・北海道新聞社) ▽榎森進著『北海道近世史の研究』(1982・北海道出版企画センター) ▽桑原真人著『近代北海道史研究序説』(1982・北海道大学図書刊行会) ▽八木健三・辻井遼一編『北海道――自然と人』(1986・築地書館) ▽『角川日本地名大辞典 北海道』全2巻(1987・角川書店) ▽桑原真人編『開拓のかげに――北海道の人びと』(1987・三省堂)』

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世界大百科事典内の北海道の言及

【蝦夷地】より

…大化前代には中央政府の外に立ってこれと敵対関係にある人々をエミシと呼び,おもに〈毛人〉〈夷〉という文字をあて,その意味も〈あらぶる者〉〈まつろわぬ人々〉ということで,特定の地域に住む人々を指すものではなかったが,大化改新以降は,主として北越・奥羽地方に住む人々をエミシと呼ぶようになり,文字も〈蝦夷〉〈夷〉をあてるようになった。その後古代律令制国家による東北エミシ政策が積極的に進められる中でエミシ観念も徐々に変化し,12世紀ころにはエミシの呼称がエゾとなり,その対象地域も東北北端部から北海道・千島にかけた地へと北上しただけでなく,その内容も従来の〈まつろわぬ人々〉から異民族としてのアイヌそのものを強く意識した概念となった。さらに鎌倉期以降は,蝦夷=エゾ=アイヌという概念がほぼ定着するとともに,対象地域も主として北海道以北の地を指すようになった。…

【蝦夷地交易】より

…蝦夷概念のいかんによって意味内容も異なってくるが,蝦夷=エゾ=アイヌという概念が定着した鎌倉時代以降は,アイヌまたはアイヌの主たる居住地である夷島・蝦夷地(現,北海道)との交易をさす。本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。…

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