ロシアの政治家。遣日使節。イルクーツクの富裕な毛皮商シェリホフの女婿となり,1799年露米会社の設立に参加し,同社の総支配人となった。北太平洋とアラスカにおける自社の事業を発展させるためには,日本との交易が絶対に必要だと考え,1804年(文化1)ロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えて長崎に来航した。しかし半年余も待たされたあげく,親書は突き返され,交易は拒絶された。このあと彼はアレウト列島とアラスカにおける露米会社の経営立直しに努力するとともに,スペイン領アメリカ(カリフォルニア)との貿易の端緒を開いた。06年帰国に先立ち,レザノフは部下のフボストフ大尉とダビドフ少尉に日本の北辺を攻撃させ,そのショックによって日本に交易を開かせることを計画した。この命令を受けて二人は06年から07年にかけてサハリン(樺太),択捉(えとろふ)島の日本人部落を襲い,また利尻・礼文両島沖の日本船を焼いた。世にいう〈文化の露寇〉である。レザノフはオホーツクに上陸し,ペテルブルグへ帰る途中クラスノヤルスクで客死した。
執筆者:外川 継男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ロシアの遣日使節。ロシアの貴族の家に生まれる。元老院第一局長兼侍従長の要職につくとともに、シェリホフ・ゴリコフ商会の設立者である富豪シェリホフの女婿(じょせい)となり、同商会を発展的に解消して1799年に設立された露米会社の総代理人ともなった。露領アメリカ(北太平洋沿岸からアラスカにかけての地域)の発展のためには日本との通商や本国との直航路の開設が必要であることをアレクサンドル1世に説き、仙台の漂流民津太夫らを伴い、クルーゼンシュテルン指揮下の世界周航船で1804年(文化1)長崎に着いた。ラクスマンの得た長崎にくることを許す特許状に基づき、半年間ほど滞在して通商を求めたが、日本側の拒絶にあい、また、病気療養のために上陸中も幽囚同様の扱いを受けた。1806、07年に起こった露米会社の海軍士官フボストフ、ダビドフによる樺太(からふと)、択捉(えとろふ)などの襲撃事件、いわゆる「文化(ぶんか)の露寇(ろこう)」は、レザノフの命によるもので、幕府の通商拒絶への報復であった。
[小林真人]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1764.3.28~1807.3.1
ロシアの政治家。1799年設立されたロシア・アメリカ会社の総支配人。1803年同社の世界周航計画に日本との通商交渉が加えられると,みずから周航隊長兼使節となり,大西洋・太平洋を航海。04年(文化元)4人の日本人漂流民をともない,先にラクスマンに与えられた信牌(しんぱい)をもって長崎へ来航。しかし半年も待たされたうえ要求のすべてを拒絶され,待遇も悪かったため,06年武力を背景に通商開始を迫ることを決意,いったん配下の海軍士官に対し樺太・蝦夷地の攻撃を指示した。その後曖昧な指令変更を残したまま帰途につき,ペテルブルク(現,サンクトペテルブルク)へ戻る途中病死した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新