日本大百科全書(ニッポニカ) 「人種問題」の意味・わかりやすい解説
人種問題
じんしゅもんだい
人種に起因する社会問題。異なる人種間に、集団ないし個人のレベルで現れる諸関係を人種関係といい、そのなかで社会問題化したものを人種問題という。人種という概念は、表現型に基づくヒト(種としてのホモ・サピエンス)の亜種であるが、現実には純粋な人種は存在せず、分析上の概念としてだけ存在する。とくに大規模な混血によって人種区分が困難ないし不可能になりつつある社会(たとえば、主としてメスティソmestizoやムラートmulattoから複雑に構成されているメキシコなど)では、人種という観念は薄れつつある。このように不安定な人種概念を背景として、ナチス・ドイツがつくった虚構のアーリアン人種という例にみられるように、架空の人種が人為的につくられ、政治的・社会的に利用される場合もある。これほど悲劇的な人種問題はない。
[鈴木二郎]
人種問題と民族問題
純粋な人種は存在しないが、広く使われている白人、黒人、有色人などの人種区分は一定の有効性と意味をもっている。大まかにみれば、大陸別ないし地域別に各人種が分布しているからである。これらの人種をめぐる人種問題の解決を困難にする一つの原因は、人種が外形からほぼ識別できる可視性にある。しかし、たとえばアメリカ合衆国や南アフリカ共和国のように、黒人か有色人の血を一滴でも受け継いでいることが判明すれば、たとえそれまで白人として処遇されていた者でも、ただちに黒人か有色人として処遇されるようになる。したがって人種概念の実質的な使用は、基本的には表現型に基づきつつも、現実の歴史的・社会的状況に大きく左右される。すなわち、個人や集団の人種帰属と処遇は、社会ないし国家の違いによって、また同一の社会ないし国家においても歴史段階に応じて異なってくる。いいかえれば、人種は現実には、歴史的・社会的存在であるエスニックethnic集団(部族や民族など)と交差し、多かれ少なかれ重なり合っている。
さらに、アメリカ合衆国の例にみられるように、黒人系アメリカ人Black-Americanや日系アメリカ人Japanese-Americanは、アメリカという同一の国家ないし社会の内部で、それぞれ独自のエスニック集団としての特徴を保有しつつ、支配的な勢力をもつイギリス系アメリカ人(ハイフンのつかないアメリカ人)とは別の表現型をもつ存在である。これらは人種的エスニック集団といわれ、世界各地に数多くみられ、その大部分が人種問題と民族問題とを重ね合わせた形で抱えている。
こうした諸事情から、人種問題と民族問題はしばしば切り離しにくいし、また混同される場合が多い。
[鈴木二郎]
人種問題の発生と推移
人類史をさかのぼると、異なる人種間の接触は皆無か少なかったので、人種問題は存在しないか小さかったと考えられる。奴隷制・封建制・王制などが世界史の主役を演じていた古代・中世には、人種問題は、階級関係に一定の作用を及ぼしてはいたが、大きな意味をもたなかった。人種問題が世界の舞台に躍り出たのは、近世の植民制度が発達した以後である。これ以前の白人は、有色人を非キリスト教徒として、人間以下のものとして扱っていたが、神学上の大論争を経たのちに、キリスト教に改宗しうる人間として有色人を扱うようになった。この変化を促したのは、一つには改宗者が実際に増えたこと、二つには、発達した機械制大工業が奴隷ないし超低賃金労働者として大量の有色人を必要としたからである。こうして有色人は、人間の範疇(はんちゅう)に入れられると同時に、人種差別の犠牲者になった。人種主義はこれを合理化するためにつくられたものである。多くの白人大衆はこの人種主義のとりことなり、人種差別を当然のこととして受け入れたのである。こうしてキリスト教徒対非キリスト教徒という対立項は、白人対非白人という対立項に切り替えられた。16世紀以来の4世紀間に、大西洋奴隷貿易によって新大陸に連行された黒人は1500万人、奴隷狩りと輸送途中で死亡した黒人は3500万ないし4000万人といわれる。このようにして、植民地制度を中軸とする欧米先進資本主義諸国は、古代・中世のそれとは異質の、大規模に構造化した人種差別を行うようになった。
[鈴木二郎]
人種差別の諸相
人種差別は多様な形態をもち、生活のほとんどすべての面に張り巡らされた。白人は有色人に対して、土地と主権を強奪し、政治的権利(国籍、所有権、参政権など)や市民的自由の権利(言論、出版、居住、職業、結婚、教育など)を制限し、行政権力を白人本位に行使し、低賃金、劣悪な労働条件、金融の制限を課し、ことばの使い方・礼儀作法を規制し、公共施設・娯楽施設の利用を制限した。人種差別は、こうした公的な面だけでなく、私的な食堂、店舗、ホテル、日常の交際にまで及んだ。これらの人種差別を通して大部分の白人に人種偏見が植え付けられ、これがまた逆に人種差別を強化した。こうした差別と偏見に抵抗する者は、法律上ないし社会生活のうえでなんらかの制裁(殺害、投獄、追放など)を受け、ときには私的制裁(リンチ)を受ける。
このように構造化した人種差別は、植民地または植民地的状況を残す社会に広くみられ、さらに同一人種内の民族差別に姿を変えて存在する。一例は日本である。そこではアイヌ系住民に対する人種差別のほかに、旧植民地(朝鮮と台湾)と国内植民地(在日朝鮮人や在日アジア人の社会)に民族差別があったし、現に存在する。
[鈴木二郎]
現代
人種問題をめぐる状況は、第二次世界大戦後に二度にわたって変容した。最初の変容は、戦後に植民地から解放されたアジアとアフリカにおいて、有色人の多くが政治上の権利回復と社会的地位の向上をかなりの程度までかちとって、他方、国連を先頭とする国際世論の批判が人種差別に対して高まったことによる。この結果、人種差別を公然と行うことがむずかしくなり、人種差別解消の道は開かれた。しかしアフリカ南部、アメリカ合衆国南部、オーストラリアなど多くの国々には、法律に基づく人種差別が以前と大差のない状態のまま残された。
この流れが大きく変わったのは1960年代以降である。この年代を大きく特徴づけるものは、まだ独立していなかったアフリカ諸国の独立(1960年に独立した17か国をはじめとして、戦後に独立したのは48か国)、および、アメリカ合衆国の黒人を中心とするブラック・ナショナリズムを契機として、世界各地の被差別有色人が有色人としての誇りを強化して、差別解消運動に立ち上がったことである。この趨勢(すうせい)をいっそう促進したのは、パレスチナ紛争、ソ連のユダヤ人問題、ベルギー・スペイン・カナダ・北アイルランドなどにおける少数民族紛争の激化、および、アジア人がアメリカ・フランスの白人と対決して白人を打ち破ったベトナム戦争である。これらを背景として、有色人の旧秩序に対する抵抗と抗争は激化した。しかもその闘いは第二次大戦前とは違って、一国内にとどまらず、直接・間接に国際的に連動するに至った。この結果、アメリカ合衆国における制度上の人種差別は解消し、これに触発されてイギリスの有色人(おもにインド・パキスタン系住民と黒人)問題とヨーロッパの移民問題が政策上の大きな課題として新しく登場し、ジンバブエ、ケニア、アンゴラ、モザンビークの人種差別政策が撤廃され、さらにオーストラリアの白豪政策と先住民差別政策も撤廃された。
こうした動きをみると、現象としては多くの人種紛争が激化したのであるが、これを通して人種問題の解決が着実に漸進したのである。こうして、制度上の人種差別は大幅に是正されたが、私的な人間関係のなかには依然として人種差別と人種偏見は根強く残っている。制度上の人種差別さえも旧態のまま公然と行っていた南アフリカ共和国の状況も、国際的な圧力のなかで、1984年以来変化の兆しをみせ、アパルトヘイト政策は廃止されている。
こうしたなかで、早くからソ連、中国、インドなどが教育、雇用、参政権などについて被差別者を優遇してきた積極措置affirmative actionは、各国でもたいてい採用されるようになった。これに対して、たとえばアメリカ合衆国にみられるように、過度の優遇策を、国民すべてに保障されるべき平等理念に反する逆差別として、法廷闘争が頻発している。他方、有色人を白人よりも優秀だとする対抗人種主義counterracismも一部に現れている。以上述べてきた状況は、人種問題の新しい局面、およびその解決を世界規模で人類に迫っていることを物語っているのであろう。
[鈴木二郎]
『鈴木二郎著『人種と偏見』(1969・紀伊國屋書店)』▽『R・シーガル著、山口一信他訳『人種戦争』上下(1971・サイマル出版会)』▽『新保満著『人種的差別と偏見』(岩波新書)』