日本大百科全書(ニッポニカ) 「サーレ」の意味・わかりやすい解説
サーレ
さーれ
David Salle
(1952― )
アメリカの美術家。オクラホマ州ノーマンに生まれる。1967年よりカンザス州ウィチタでテレビニュースのカメラマンを務める。1970~1975年、カリフォルニア芸術大学に学び、卒業とともにニューヨークに移り、制作を始める。1980年代のニュー・ペインティングの代表的作家。ニュー・ペインティングは、1970年代のコンセプチュアル・アートやストイックでミニマルな表現が主流だった絵画の流れを分断させ、1980年代ドイツにおけるネオ・エクスプレッショニズムやイタリアのトランスアバングァルディアの作家たちとともに、ニューヨークを中心に新風として繰り広げられた。サーレは、1981年に「西欧芸術」展(ケルン市立美術館)、1982年ドクメンタ7(カッセル)、「ツァイトガイスト(時代精神)」展(マルティン・グロピウス・バウ、ベルリン)、1985年パリ新ビエンナーレといった、ヨーロッパとアメリカに展開した新しい絵画動向に焦点をあてた国際的な展覧会に出品、また1986年ホイットニー・アメリカ美術館で個展を開催するなど1980年代に注目された絵画の流れの主要メンバーとしての地位を確立した。
サーレの絵画のスタイルは、ジュリアン・シュナーベルよりいくぶん控え目だとされるが、明確に「コンセプチュアル・アートを軽蔑(けいべつ)(コンテンプト)する画家」といわれた。サーレのことばを借りれば「コンセプチュアル・アート全盛期に美大に通っていたことで、その動向を批判的にとらえ、嫌悪は増幅された」という。
サーレの作品では、祭壇画の様式であるディプティック(2連)またはトリプティック(3連)という画面を分割する方法が多く用いられている。たとえば前者が『オランダのチューリップ狂』(1985)や『シンフォニー・コンチェルタンテⅠ』(1987)などの作品であり、後者が『力のある論説』(1985)、『ウォルト・クーンのための肩章』(1987)などの作品である。その連携する画面によって、一つの作品のなかで異なるイメージを対話させることを可能にした。それはまた、サーレがドキュメンタリーのカメラマンをしていた経験からサーキュラー・トラッキング・ショットという撮影技法にヒントを得たものである。この技法でカメラが対象を中心に周囲を回転しながら移動することで得られるビジュアルと同様に、絵画に回転するイメージを構築しようとしている。それによって、フラットな絵の表面が同時に楕円(だえん)形となって、端と端が結びついて一つにつながるようなイメージをつくりだすことを試みた。
また、サーレはポルノ雑誌からハイ・アートまで、または一般的な絵画・デザイン入門書から歴史的大著まで多彩なメディアからモチーフを引用して、同時代に氾濫(はんらん)しているイメージの洪水を示そうとした。さらに、絵画のなかに描かれるドラマを対話させ、それぞれの画面がつながりながら流れをつくるようなストーリーを築いたのである。また、イメージを重ね描きすることで前景と背景の関係の遊びを創造している。たとえば、挑発的なポーズをした女性の裸体の画面に異なるイメージを上描きしているが、こうした方法はドイツの画家ポルケの透きとおる画布素材に描く透明画のテクニックから学んだ。ポルケ自身は、1930年代のフランシス・ピカビアの作品からヒントを得ている。サーレは、この技法を精緻(せいち)に使いこなして、女性や男性のセクシュアルなポーズを忠実に描いた。その具象的な輪郭線は、1930年代アメリカの大恐慌時代の社会主義的なリアリズムを踏襲しているが、重ねて描かれることで、抽象と具象のコンテクストの交差と同時に重層的な空間構成を可能にしている。その点でもやはり、画面のなかに映像的な世界観を構築しようとしているのがわかる。
[嘉藤笑子]
『篠田達美インタビュー・構成「デイヴィッド・サーレ――視覚的な遊戯を絵のなかに」(『美術手帖』1988年4月号所収・美術出版社)』▽『黒岩恭介著「現代の絵画――更新と新種・2つの方途」(『美術手帖』1986年2月号所収・美術出版社)』▽『『美術手帖』編集部編『現代美術――ウォーホル以後』(1990・美術出版社)』▽『クラウス・ホネフ著『現代美術』(1992・ベネディクト・タッシェン出版)』