かつてW.シェークスピアは〈この世界が舞台である〉(《お気に召すまま》)と書いたが,それと同じように現代の舞台美術は,現代の世界と重なり合っている。現代の演劇が,われわれ現代人にとっての問題を取り扱っているとするならば,その舞台美術は現代の状況を表現していなければならないことになる。なぜなら舞台美術とは,上演のための一つの世界ともいえる場面や空間を創り出すものだからである。したがって現代の舞台美術は,現代の人間像や環境を追求している絵画や彫刻,建築,工芸などの現代美術と無関係であるわけはなく,当然それらとも密接に結びついてきている。20世紀初頭,表現主義,キュビスム,ダダ,シュルレアリスムなどさまざまな芸術運動が起こったが,舞台美術もそれらの影響を直接的に受けていた。
現代絵画との結びつきで有名なのは,1909年に結成され,パリで一大センセーションを巻き起こしたバレエ・リュッス(ロシア・バレエ団)の美術である。L.バクスト,A.N.ベヌア(A.N.ブノア)などのロシアの舞台美術家ばかりでなく,ピカソ,レジェ,マティス,デュフィ,ミロ,ローランサンなどの画家も参加し,背景画を主にした色彩あふれる絵画的な舞台を展開した。バレエ・リュッス以外でも,シュルレアリスムを代表する画家ダリなどがモダン・バレエのために異様な背景幕を作ったりしている。立体的,構築的な舞台美術でも,抽象化や単純化の表現,金属やプラスチックなどの材質感の効果を生かした表現などにモダン・アートとの関連をはっきり見ることができる。
しかし,舞台美術が絵画や彫刻と違う点の一つは,時間の要素が加わっているところである。朝から夜まで,あるいは月日の経過,場所の変化や移動などが,舞台の進行とともに,舞台照明の変化や舞台装置の移動,場面転換などによって表現される。また,絵画や彫刻がそれ自体で独立しているのにくらべて,舞台美術は演劇を構成する戯曲,演出,俳優の演技,照明,音楽,音響効果などのさまざまな分野とかかわり合いながら成り立っている。
舞台美術家が仕事を始める場合,まず戯曲なり台本を出発点とする。戯曲を読み,自分なりのイメージを持った段階で,演出家と打合せをする。一つの戯曲でも,人それぞれによって読みとり方が異なり,さまざまな解釈があるはずである。舞台美術家は,演出家と話し合いながら,どのような観点から作品をとらえ,上演形態をどのようにするかを決めていく。作者や音楽家,舞台照明家,舞台監督などのスタッフや俳優が打合せに加わる場合もある。このような打合せを経過しながら,舞台美術家は舞台装置や舞台衣裳,小道具などをデザインしていく。舞台装置図,平面図,衣裳スケッチ,小道具製作図面,模型舞台などができ上がると,それに基づいてそれぞれの製作会社や工房で実際に仕上げられ,公演の予定に合わせて劇場に搬入される。いよいよ舞台稽古である。公開の上演とまったく同じように,舞台装置が組み立てられ,舞台衣裳を着た俳優が演じ,舞台照明がテストされる。舞台稽古で最終的な仕上げがなされて初日を迎える。
今日の舞台美術の形態は,写実から抽象にいたるまで,さまざまである。具体的なもの,象徴的なもの,平面的で絵画的なもの,立体的で彫刻的なもの,建築的で構築的なもの,単純なもの,複雑なもの--いろいろあげていくときりがないくらいである。種々雑多の形態や様式の舞台美術が見られることは,照応する現代の世界がそれだけ複雑だからであろうか。しかし,それらの混沌とした形態のなかにも現代の舞台美術独自の傾向や表現を認めることができる。それは,プロセニアム・アーチ(舞台の額縁)を通して絵を見るような舞台を放棄して,舞台と観客とが直接的に結びついていた,かつての劇場形態に戻ろうとする動きである。古代ギリシア劇場やイギリスのエリザベス朝の劇場,日本の能舞台などには,いわゆるプロセニアム・アーチはなく,緞帳(どんちよう)幕も存在しなかった。観客席も舞台に対して一方向から向かい合っているのではなく,正面から左右へと,ぐるりと取り囲むようになっていた。だから,プロセニアム劇場のように,緞帳幕を境にして舞台と客席とが二つに分離されることがなく,渾然と一体となった世界をつくり出していた。古代のギリシア劇場やシェークスピア時代の劇場では,舞台と観客とが活気ある交流をもっていたのである。このような上演の原初の形態を見直そうということは,生き生きとした演劇のエネルギーを取り戻そうとすることでもある。
舞台と観客とが一体化するような空間を求めて,演劇はプロセニアム劇場を飛び出していった。広場,体育館,レスリング場,倉庫,教室,レストランやカフェ,天幕など,劇場でない場所で上演されるようになった。〈カフェ・テアトロ〉とか〈天幕劇場〉などの名称も生まれた。従来のプロセニアム劇場で上演する場合でも,緞帳幕を使用せず,客席の中にまで突き出した張出(はりだし)舞台を作って,舞台と客席との交流をはかることが多くなった。このような舞台は,周囲の多方面からの視角に応じなければならない。そこで舞台美術は,プロセニアムの中に装置を飾り立てるという平面的な絵画的なものではなく,俳優の演技の場をつくるという,立体的なスペース感覚と意識によって構成されるようになった。演技のための場所と空間を設置するという仕事が,現代の舞台美術家の重要な任務となった。
演劇独自の表現による立体的な演劇空間は,イギリスのゴードン・クレーグ,スイスのアッピアAdolphe Appia(1862-1928),アメリカのジョーンズRobert Edomond Jones(1887-1954)などの舞台美術家をはじめ,ドイツのM.ラインハルト,フランスのJ.コポー,ソ連のV.E.メイエルホリドらの演出家によって次々に生み出された。立体的な演技空間を構成しようとする意識は,舞台装置を立体的にし,さらに材質感の効果をも考えるようにさせた。立体感,材質感を表現するためには,舞台照明が強力な表現力を発揮することになる。照明によって舞台空間を浮かび上がらせ,そこに置かれた装置を強調したり,消したりすることができる。アッピアは照明効果を十分に考え,階段や傾斜路,立体的な四角い台などを組み合わせて,塑造的な舞台装置をデザインした。アッピアの場合,舞台装置は基本的には固定していたが,絶えず変化する照明が舞台に表情を与え,象徴的な表現を示したのである。照明と密接に結びついて表現する装置の一つに紗幕(しやまく)がある。照明の強弱により,紗幕を透かして幕の向こうが見えたり消えたり,またおぼろに見えたりする。アメリカの舞台美術家ミールジナーJo Mielziner(1901-76)は,紗幕による透明な装置でT.ウィリアムズの《ガラスの動物園》《欲望という名の電車》などの舞台をつくり,詩的な雰囲気をみなぎらせた。
ドイツの劇作家,演出家B.ブレヒトの作品は一般に,〈叙事演劇〉といわれているが,舞台表現も独自のものをつくり上げている。ベルリーナー・アンサンブルでの彼の仕事は世界的な評価を得たが,その一端は同劇団の舞台美術家の才能によるものであった。ネーアCaspar Neher(1897-1962),オットーTeo Otto(1904-68),フォン・アッペンKarl von Appen(1900-81)らである。叙事演劇の舞台ではスライドによって説明的なタイトルや解説を,舞台下半分をおおう引幕に投影したりした。装置はきわめて機能的であり,俳優の演技に必要なものはすべて作られたが,雰囲気を表現するような装置は一掃されてしまった。たとえばドアや窓の場合,機能するドアや窓自体は作られるが,周囲の壁は省略して除かれてしまうという具合である。機能的な構成と素材の緻密な選択による仕上げは,知的とも感じられる一つの美しさを創り出した。近年,コンピューターの技術や科学的な方法を駆使している舞台美術家にチェコのJ.スボボダがいる。特殊な照明,スライドの投影,メカニカルな装置の動きなどにより,奥行のあるきわめて空間的な舞台を創造している。
以上,近・現代の舞台美術の代表的な例をいくつかあげてみたが,演劇空間の造型の可能性はきわめて大きく,多くの舞台美術家によってさらに追求されている。
→演出 →劇場
執筆者:高田 一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
演劇やオペラ、舞踊などの舞台芸術において、観客の視覚や想像力に訴えることによりその舞台表現を助ける諸要素の総称をいう。具体的には舞台装置をはじめとして舞台衣装、舞台化粧、舞台照明、視覚効果などの分野をいうが、音楽や音響効果などの聴覚に訴える部門は一般的には含まれない。
[石井強司]
現代では舞台表現の形態が多様化しているために、いわゆる「舞台」の性質もすこし範囲を広げて考えられよう。歌舞伎(かぶき)、能、狂言など日本の伝統的な舞台から、オペラ、バレエ、新劇、ミュージカルなど欧米からの影響を受けている舞台、さらにメディアの違いはあっても舞台表現と近い関係にあるテレビや映画などの美術もある。これらの表現形式はおのおの異なっているものの、そのいずれもが「戯曲(ストーリー)」「俳優(演技者)」「観客」という三つの基本要素によって成り立っている。その三要素に装置、照明、衣装などの個々のジャンルが直接かかわり合って相互に影響しあいながら、演出家の意図する作品のテーマをいかに舞台空間に視覚化、造形化するかに舞台美術の役割があるといえよう。
[石井強司]
ひとつの舞台作品のなかで、おもに舞台装置(大道具や小道具など)や舞台衣装(かつらやメイクアップなども含む)のデザインをする人を舞台美術家という。演出家や各スタッフ、演技者との綿密な打合せによってプランが練られてゆき、最終的なデザイン画や模型、サンプルなどを元に実物が製作される。舞台美術家は、それらが実際の舞台に造形化され初日を迎えるまでの責任をもつ。
[石井強司]
1968年には、国際演劇協会(ITI)を母体としたOISTAT(舞台美術・劇場技術国際組織)が創立された。これはフランス語Organisation Internationale des Scénographes, Techniciens et Architectes de Théâtreの頭文字をとった略称で、チェコのプラハに本部があり、2001年現在加盟36か国に及んでいる。なお、舞台美術全般の国際的な用語としてセノグラフィーscénographieの語が使われるようになってきている。
[石井強司]
『OISTAT日本センター編『劇空間のデザイン』(1984・リブロポート)』▽『日本舞台テレビ美術家協会編・刊『ステージ&テレビデザイン』(1990)』▽『新川貴詩著『残像にインストール――舞台美術という表現』(1994・光琳社出版)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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