ジダーノフ批判(読み)ジダーノフひはん

改訂新版 世界大百科事典 「ジダーノフ批判」の意味・わかりやすい解説

ジダーノフ批判 (ジダーノフひはん)

第2次世界大戦後のソ連邦で,ジダーノフらを中心とする党中央が芸術や文化の諸分野に対して行ったイデオロギー統制,強化の動きを指す。大戦後文化面におけるスターリン主義の再開となった。ジダーノフは,1946年8月レニングラードの詩人アフマートワ,小説家のゾーシチェンコ,および彼らの作品を公表した文芸誌《レニングラード》と《ズベズダ》を攻撃し,彼らを作家同盟から追放した。47年にはG.F.アレクサンドロフの《西欧哲学史》が〈客観主義〉に陥っていると批判し,これをきっかけに,哲学・歴史学界でも同様の攻撃が行われた。そして48年には作曲家ショスタコービチ,プロコフィエフ,ハチャトゥリヤンらの作品が〈形式主義〉的であるとして,厳しい批判の矢を放った。
執筆者: ジダーノフ批判は国際的には,第2次大戦後の世界の〈二つの陣営〉への分裂,冷戦構造に見合うものであった。このため1948年のジダーノフの死後も,〈批判〉の基本テーゼであった〈ソビエト的党派性〉の一面的強調はさらに強力に推進され,西欧跪拝(きはい)主義排撃,コスモポリタニズム非難,さらには反ユダヤ的風潮へまで道を開くことになった。党至上主義も貫徹され,48年にはファジェーエフの《若き親衛隊》が〈党の指導的役割を無視した〉と批判されて改作に追いこまれ,51年にはカターエフが〈共産党員を醜い顔の持主に描いた〉と非難されるまでになった。また〈人民を今日において示すだけでなく,その明日を見よ〉というジダーノフのテーゼは,社会主義リアリズム論の発展とみなされ,現実美化,さらには〈無葛藤理論〉の根拠となった。〈人民に理解できる芸術を〉のスローガンも,いっさいの形式的探究の封殺に役立てられた。

 ジダーノフ批判は53年スターリンの死後もなお党の文化政策の公式路線と認められていた。それが改められるのは,音楽についての批判に誤りと行過ぎがあったことを認めた58年5月の党中央委員会決定以降である。同じころゾーシチェンコ,アフマートワも〈名誉を回復〉され,61年10月の第22回党大会以降は,ジダーノフ批判の存在そのものすら,《ソビエト大百科事典》には記述されなくなっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジダーノフ批判の言及

【アフマートワ】より

…革命後も故国にとどまるが,20年代後期から公的沈黙を強いられ,30年代中期に綴った連作詩《レクイエム》はスターリン批判後海外で初めて公刊された。第2次大戦中に短期間の復権,しかし戦後のジダーノフ批判(1946)で〈人民に無縁なデカダン詩人〉の烙印を押され,再び沈黙を余儀なくされる。二十数年の歳月をそそいだ長編叙事詩《ヒーローのないポエマ》(1940‐62)をはじめ,詩集《時の疾駆》(1965)等はスターリン批判後に発表され,またイギリスのオックスフォード大学文学博士号,イタリアのタオルミナ賞などを晩年に授与された。…

【ソビエト連邦】より

…米ソは協力して国際連合を創設したが,やがて激しく対立するにいたり,〈冷戦〉が始まった。国内的には,戦争中自主性を高めた民衆・知識人を再統合し,体制のゆるみを引き締めるため,ジダーノフ批判と呼ばれる,とくに厳しい知識人統制が加えられた。東ヨーロッパではソ連の意に従わないユーゴスラビアをコミンフォルムから除名した。…

※「ジダーノフ批判」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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