観念形態または意識形態と訳されることもあるが、今日では原語のまま使われて日本語化している。一般には、思想の体系・傾向、物の考え方や、教条主義的政治思想、保守的政治思想の意味で用いられる場合もあるが、唯物論の立場からは、観念論を批判する際に、科学的理論と対立する虚偽意識という意味でイデオロギーということばが使用される。代表的な例としては、マルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』がある。マルクスは、社会的存在が社会的意識を規定するのであって、その反対ではないといって、自然・物質・存在の精神・観念・意識に対する規定性を主張した。また、マルクスは、階級闘争がみられる社会にあっては、観念形態のなかにも階級対立がみられ、たとえば、資本主義社会では、ブルジョア・イデオロギーとプロレタリア・イデオロギーの対立がみられるとした。そして、後者は、虚偽意識ではなく、科学理論と一致するとされたのである。一方、社会心理学の立場からは、社会意識の形態として、イデオロギーと社会心理が区別され、日常的、自然発生的な社会意識としての社会心理に対して、自覚的、体系化された社会意識としてのイデオロギーが問題にされる。
[河村 望]
イデオロギーということばを社会科学上の概念としてもっとも明確に定義したマルクスによれば、それは社会構造の土台としての経済構造に規定され、それに対応して形成される上部構造のうち、法律的、政治的な社会制度を除く、宗教的、芸術的、哲学的などの社会的諸意識形態をさすものとされる。それまでは、イデー(観念、理念)が根源的なものとみなされ、たとえば、プラトンは、イデア論を唱え、時間・空間を超えた永遠の実在としてイデーをとらえた。また、ヘーゲルは、根源的なものとして絶対精神を想定し、それが外化して自然、社会になると考えた。このような観念論の立場を批判して、マルクスは、イデオロギーは、究極的には、社会の経済的諸関係、すなわち土台によって規定され、これを観念上に反映したものであり、したがって、階級社会のイデオロギーは、土台の生産関係を反映して階級性を帯び、対立的なものになるとしたのである。マルクスによれば、ある時代の支配的イデオロギーは、その時代の支配階級のイデオロギーなのである。しかし、第三者の立場から、物質と精神、存在と意識のどちらが根源的かといえば、当然、物質であり、存在であるとしても、それは、哲学者や科学者が、それらを物質、存在として認識し、意識化する限りであって、次にみるように、人間の意識のなかの物質、存在という認識論的問題は、依然として解決されなかった。そして、この問題に取り組んだのが、J・デューイ、G・H・ミードの社会心理学・社会意識論であり、M・ウェーバーの理解社会学・理念型論であった。
[河村 望]
個人心理・個人意識とは別に社会心理・社会意識があるとは考えられないので、これまでの社会心理学においては、個人心理・個人意識が先行するものとみなされていた。コミュニケーション論でも、コミュニケーションは、あらかじめ意識をもった個人が記号を使用して、相手に観念を伝達する過程とみなされてきた。われわれは、犬とか椅子(いす)とか紐(ひも)を、イヌ、イス、ヒモという形で記号化して相手に伝え、相手はそれを脱記号化して犬、椅子、紐の概念を得るという過程で、相手とコミュニケーションできるといわれてきた。そして、そのあとで、警察の犬、大臣の椅子、財布の紐といった記号のシンボル化がみられるとされてきた。しかし、実在としての犬を記号化するとしても、the dogをa dogとして認知するという記号化の機能の問題は、依然として未解決である。すなわち、私が自分の飼っている小犬のポチ(the dog)を、1匹の犬(a dog)として認知し、概念化するということは、私がその小犬をポチとよぶこと以上の問題なのである。1匹の犬、a dogは、概念(イデー)として、思考の対象として実在するのであり、それは、存在するthe dogから直接に導き出されるものではない。
また、個別の犬、小犬のポチがそこにいたとして、私がその小犬の存在をどのように意識に反映させるかは、これまでの存在の反映としての意識という考えでは十分に説明されない。全体としてのその犬を構成する粒子のうち、目を刺激したものが形とか色の反応を頭脳のなかに引き起こし、耳を刺激したものが音の反応を引き起こし、同様に、鼻を刺激したものが匂(にお)いの反応を引き起こし、全体としてその犬の存在が頭脳のなかに映しだされるというような奇妙なことが、どのようにして生ずるのかは不明である。そもそも、見るということが主体的動作であるとすれば、目に見えない粒子が感覚器官を刺激することで頭脳のなかに事物の映像が生じるとされるときの、その粒子が、全体として小犬を構成する粒子であって、なぜそれより近くの花やそれより遠くの垣根を構成する粒子ではないのかが説明されていないのも奇妙な話である。しかも、この目に見えない粒子が、神経細胞を伝わって頭脳に伝達され、頭脳において事物の映像が生じるとされるが、神経は具体的に何を頭脳に伝え、頭脳はどのようにして伝えられたものから像をつくったのか、しかも、私の頭脳に仮にその像がつくられたとして、当事者の頭脳に生じたものが、観察者である科学者や哲学者の頭脳にどのように生じるのか。このように、唯物論の立場からのイデオロギー論、科学論のもつ難点は、社会心理学の認知理論、知覚論で克服された。
[河村 望]
ウェーバーは、有限な人間精神を通じて無限な現実を思考によって認識する場合、つねに現実の有限な一部だけが科学的な把握の対象となり、その部分だけが知るに値するという意味で、科学にとって本質的であるという暗黙の前提があるといい、経験的実在を法則に還元する形での文化現象の「客観的な」取扱いに反対した。彼は、社会法則の認識とは社会実在の認識ではなく、われわれの思考が社会実在を認識するために必要とする補助手段であること、また、文化現象の認識は価値理念にかかわるものであるから、その認識は、個性的な生活の現実がわれわれに対してもつ意義に基づいてなされなければならないことを強調した。ウェーバーのいう価値自由とは、認識主体が価値的に無前提に現実にかかわることを意味するのではなく、価値の相対化による現実に対する価値関係づけの自由を主張したものであり、こうして、一定の明確な価値観点から現実をとらえ、これを首尾一貫した連関のうちに構成する理念型の方法が主張されたのである。彼は、西欧の資本主義の発展にとって、プロテスタントの宗教倫理が大きな役割を果たしたことを示し、地上における神の栄光を増すための職業労働への献身と世俗的禁欲が、初期資本主義の精神であったとした。ウェーバーは、行為者によって主観的に思われた意味の世界を問題にすることによって、功利主義やマルクス主義の狭い経済主義的見地を打ち破ったといえよう。
[河村 望]
K・マンハイムは、マルクス主義者が、ブルジョアジーの階級意識をイデオロギーとみなし、プロレタリアートの階級意識を科学とみなしたのに反対して、後者もイデオロギーにすぎないものとした。彼は、すべての知識は、認識者の存在する場所によって規定されているという、知識の相対性を主張する知識社会学をつくった。しかし、知識社会学も一つの知識であり、知識社会学者も一人の知識人であるとすれば、どのようにすれば、知識を扱う社会学が可能になるのかは明確ではない。これが、知識社会学者は、自分の乗っている車の後押しをする、という皮肉をいわれる原因でもある。マンハイムは、階級間を自由に飛翔(ひしょう)するインテリゲンチャにイデオロギーの克服を期待したのだが、知識人の知識も、いうまでもなく存在に拘束されているのである。
第二次世界大戦後、アメリカ社会学で、知識社会学の問題が議論されたが、アメリカでは、体系的理論としてのイデオロギーが問題になったのではなく、一般大衆の気分・心理としての社会意識が取り上げられた。このなかで、社会意識における階級的、民族的対立などが議論されたが、1950年代後半から60年代前半にかけて、D・ベルやS・M・リプセットらによって、脱工業化社会論が主張され、そのなかで先進産業社会におけるイデオロギーの終焉(しゅうえん)が唱えられた。
一方、同じ時期に、アメリカでは、資本家階級と労働者階級という古典的な階級闘争にかわって、少数のパワー・エリートによる大衆支配が成立したというC・W・ミルズの大衆社会論が現れた。また、ミルズは、個人的トラブルと社会的争点をつなぐ社会学的想像力の必要を説いたが、この想像力はイメージ、心像であり、理念(イデー)と無関係のものではない。
また、1960年代後半から、アメリカ・ラディカリズムの台頭のなかで、「社会学の社会学」という批判社会学、内省的社会学が主張されていった。社会学の社会学は、社会学の対象とする社会が、当の社会学者もその一員として住んでいる社会であるから、社会学者は当然自らをも研究と教育の対象にしなければならないとするもので、ここで社会学における当事者の見地――傍観者、観察者の見地ではない――の確立が問題にされていったのである。この立場は、マルクス主義のイデオロギー論の立場も、知識社会学のイデオロギー論の立場も、当然のことながら超えていた。
[河村 望]
プラグマティズムにあっては、知るということを、生きるということ、行うことの道具とみなす。意識とは、なによりもまず思考であり、思考が言語によってなされるとすれば、言語の習得過程が意識の発生過程であり、意識は初めから社会意識としてあることがわかる。われわれが椅子という概念を、イスということばとともにもつことができるのは、それをこのような社会意識としての思考の対象にすることができるからである。イスという音声ジェスチャーが、話し手と聞き手の両方に同じ反応を引き起こすことで、音声は有意味シンボルになる。われわれが思考するというのは、思考の対象をもつということであり、イスとかイヌという、この音声ジェスチャーが、2人の人間に同じ心像や観念をよび起こす限りで、広義のイデオロギー、思想が形成されるのである。たとえば、大工が、机や家をつくるとき、つくられる机や家は、すでに観念(イデー)として大工の頭のなかに存在しているのである。このような広義のイデオロギーは、現代の心理学で、人々のもつパースペクティブ(視座、展望)といわれるものといえよう。それは、新しい問題状況のもとで、つねに再構成されるものである。
[河村 望]
『K・マルクス、F・エンゲルス著、真下信一・藤野渉・竹内良知訳『ドイツ・イデオロギー』(1965・大月書店)』▽『C・W・ミルズ著、鈴木廣訳『社会学的想像力』(1965・紀伊國屋書店)』▽『K・マンハイム著、鈴木二郎訳『イデオロギーとユートピア』(1968・未来社)』▽『D・ベル著、岡田直之訳『イデオロギーの終焉』(1969・東京創元社)』▽『A・W・グールドナー著、岡田直之他訳『社会学の再生を求めて』(1974~75・新曜社)』▽『G・ルカーチ著、城塚登・古田光訳『歴史と階級意識』(1975・白水社)』▽『G・H・ミード著、河村望訳『精神・自我・社会』(1995・人間の科学社)』▽『J・デューイ著、河村望訳『経験と自然』(1997・人間の科学社)』▽『情況出版編集部編、西原和久他著『社会学理論の「可能性」を読む』(2001・情況出版)』▽『M・ウェーバー著、大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)』
一般的には世界や人間について人々が抱くさまざまな観念や信念の多少なりとも体系化されたもの,と考えられているが,統一的な定義はない。観念形態または意識形態と訳される。
もともとこの概念は18世紀末から19世紀初頭にかけてベーコン,ロック,なかでもとくにコンディヤックの感覚論の影響の下に,観念や知識の起源と発達を実証的に研究しようとするカバニス,デステュット・ド・トラシーなどの〈観念学者たち(イデオロジスト)〉がその学問(観念学idéologie)に付与した名称であった。彼らはこの〈イデオロジー〉をもって正しい人知の開発と社会の変革のための指導要綱としたのであるが,のち政敵となったナポレオンから〈イデオローグ〉,つまり大言壮語する空論家,と蔑称されるにいたって,イデオロギーは多かれ少なかれ現実と遊離し,政治的実践にとって無用の空疎な観念体系,という意味合いを一方でもつようになった。ヘーゲル主義哲学を〈ドイツ・イデオロギー〉と呼び,その幻想性,非現実性を批判したマルクス,エンゲルスのイデオロギー論にもこうした観点は継承されている。しかし,虚偽意識という狭い意味だけでなく,社会科学的な意味でも観念や意識の研究に重要な一つの方法を編み出すことによって〈イデオロギー〉概念に市民権を与えることになったのがマルクス,エンゲルスのイデオロギー論である。
(1)マルクス,エンゲルスのイデオロギー概念もまた多義的であるが,通常,広義のイデオロギー概念と狭義のイデオロギー概念があるといわれる。広義のそれは物質的な生産諸関係,いわゆる〈土台〉あるいは〈下部構造〉によって規定され,そのうえにそびえ立つ〈上部構造〉のことを意味しており,このなかには〈法律的および政治的な上部構造〉,つまりさまざまな社会制度や〈イデオロギー的権力〉としての国家なども含まれる。一方,狭義のそれは〈いっそう物質的・経済的基礎から遠ざかっている〉ものの,こうした基礎や法律的・経済的上部構造に照応する観念や社会的意識のことを指しており,ここには哲学,宗教,道徳,芸術などの観念形態が含まれる。いずれにせよ,マルクス,エンゲルスのイデオロギー論を特徴づけるのは〈人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく,人間の社会的存在が彼らの意識を規定する〉という基本的立場であり,意識や観念の自律性を否定し,それらをその外部に存在する社会的・経済的要因によって規定されたものとしてみる観念の〈外在的観察法〉である。マルクス,エンゲルスがドイツ観念論をイデオロギー(虚偽意識)として批判したのも,〈意識〉が常に〈意識された存在〉でしかありえないことを見落とし,〈歴史のうちに精神の主権を立証しようとする〉誤りを犯していたからである。こうした誤りは歴史を動かす真の力としての物質的生産諸関係を見落とすことによって,この生産関係を貫く階級支配を覆い隠すばかりか,かえってその強化に奉仕する。マルクス,エンゲルスによれば,階級社会ではイデオロギーは〈思想としてとらえられた支配的な物質関係〉として,必然的に階級的性格を帯びざるをえず,いつの時代にも支配的なイデオロギーは支配階級のイデオロギーであったという。マルクス,エンゲルスのイデオロギー論のねらいは,こうした支配階級のイデオロギーの虚偽性を社会の〈下部構造〉の矛盾との相関のなかで暴露し,批判することにあった。
→上部構造
(2)イデオロギー論はその後,マルクス主義陣営以外では,第1次大戦後のドイツで〈知識社会学〉という社会学の一特殊分野を生み出すことになった。その体系家K.マンハイムはイデオロギーとユートピアとを対比し,両者ともに現実の社会には適合しない〈存在超越的〉な観念であるとしながらも,ユートピアが〈存在がいまだそれに達していない意識〉,つまり既存の社会をのりこえる革命的機能をもつ意識であるのに対し,イデオロギーは〈存在によってのりこえられた意識〉,つまり変化した新しい現実をとりこむことのできない,時代にとり残された意識,と規定した。さらにまたマンハイムは,マルクス主義が観念や意識の存在拘束性を発見した功績を評価しながらも,それが敵対的階級のイデオロギーの存在拘束性を暴露することにのみ終始し,自己自身の観念体系をも存在に拘束されたものとしてみる自己相対化の視点を欠いているとして批判し,自己自身の立場にも存在拘束性を認める勇気をもつとき,単なるイデオロギー論は一党派の思想的武器であることをやめ,党派を超越した一般的な社会史や思想史の研究法としての知識社会学に変化する,と主張した。マンハイムの場合,イデオロギーは論争的な意味合いを払拭され,存在に拘束された一般的な〈視座構造〉を意味するようになる。マンハイムはこうした知識の存在拘束性の理論としての知識社会学の担い手を,階級的かたよりを一般的に免れていると彼が考えた〈自由に浮動するインテリゲンチャ〉に求めた。
(3)イデオロギー論はこのほか第2次大戦後の英米で社会心理学的な立場からとりあげられている。この場合,イデオロギーとは集団や共同体に特徴的な一群の相互に関連し合った信念や社会的態度の総体のことを指しており,こうした信念や態度の総体をその基礎にあると考えられるパーソナリティの構造と結びつけて研究することが,その課題となっている。たとえば権威主義的パーソナリティと反民主主義的イデオロギー(ファシズム,自民族中心主義,反ユダヤ主義など)との関係(M.ホルクハイマーやT.W.アドルノの研究),保守主義ないしは急進主義的イデオロギーと剛直な気質tough mindないし柔和な気質tender mindとの関係(A.ファーガソンやH.J.アイゼンクの研究)などがそれである。なおイデオロギー論の歴史で見落とせないものとしてもう一つ,1950年代から60年代にかけてベルDaniel Bell(1919- )やリプセットSeymour M.Lipset(1922- )らによって喧伝された〈イデオロギーの終焉〉論がある。その主張の要点は,先進資本主義諸国における〈豊かな社会〉の到来とともに,階級闘争を通じての社会の全面的変革という理念はその効力を失った,というものである。しかもスターリン批判やハンガリー事件の勃発など,現実の社会主義社会における否定的現象の続発は,急進的知識人の間にマルクス主義への幻滅感を生んでいる,という。イデオロギーの終焉論者によれば,今や必要なのは未知数的要素と危険に満ちたイデオロギー的構想に基づく社会の全面的変革ではなく,信頼のおける科学的知識と技術とを用いた社会の部分的改造のつみ重ねである。イデオロギーの終焉論者によると,イデオロギーという概念は今や死語になりつつあり,資本主義国家と社会主義国家が今後向かう方向は,イデオロギー対立をこえた共通の〈産業社会〉であるという。
イデオロギーは,普通以下のような構成要素から成り立っている。(1)価値体系,すなわちイデオロギーの道徳的・倫理的基礎をなしており,集団の存在理由を表すとともに,そのめざすべき目標や理想を表明するもの。(2)分析体系,すなわち現実についての科学的・客観的分析。(3)神話体系,すなわち現実についての想像的解釈,あるいは幻想であり,人々の願望や期待を刺激して,彼らを行動へと駆りたてるもの。(4)政治的綱領,つまり当面する問題についての政治的プログラム。イデオロギーはこれらの諸体系から構成されているが,それぞれの体系の比重はイデオロギーを担う権力主体や所与の政治状況によって変化する。たとえば社会主義はその前提からして科学的な体系的一貫性を保持しようと努めるのに対し,ファシズムの場合には非合理的な神話的要素が肥大化する。
また,イデオロギーの構造は社会心理学的な視角からも分析されている。ここではイデオロギーは態度のヒエラルヒー体系のなかでとらえられており,このヒエラルヒーは(1)その場限りでの移ろいやすい個別的な意見のレベル,(2)安定しているという意味で信頼できる習慣的意見のレベル,(3)多くの意見が構造化されて結びつき,ある問題に対する態度となっているようなレベル,(4)さまざまな態度がそのなかで相互に関連し合っている超態度,あるいはイデオロギーのレベル,の四つから成るとされる。たとえば〈保守主義〉というイデオロギーは,態度のレベルでは,〈自民族中心主義〉〈子供の厳格なしつけ〉〈宗教への好意的態度〉〈愛国主義〉といったような態度が組み合わされてできあがっているという。一見無関係にみえるさまざまな態度も,イデオロギーを通して眺めると,相互に関連し合っていることがわかるわけである。
イデオロギーには次のような機能がある。(1)その信奉者に対して未来への指針や生きるための全体的な方向づけを与える。イデオロギーは一定の価値体系からみた世界像を提供し,また,世界のなかにおける集団や人々の位置や地位の自己確認とそこでの行動の方向づけのための準拠枠となる。(2)願望や信条の実現をはかろうとする行動へ人々を駆り立てる。イデオロギーは潜伏化していた大衆の希望や信条に表現の機会を与え,それらを〈物質的な力〉に転化させるはたらきをもつ。(3)イデオロギーのなかに含まれた理想は運動参加者に使命感を鼓吹し,その運動への自発的一体化を促す。(4)イデオロギーは武器として機能し,一方で敵のイデオロギーの虚偽性を暴露しながら,他方,自己の立場や行動を正当化し,そのイデオロギーの背後にある本当の意図や目的を隠ぺいするはたらきをもつ。(5)イデオロギーはその信奉者の間での連帯性を強化する。
〈イデオロギーとは主題的なものではなく,はたらくものである〉(P.リクール)といわれる。つまり〈われわれが眼のまえにイデオロギーを主題としてもつというよりは,われわれの背後でそれははたらく〉のである。自分は特定のイデオロギーにとらわれてはいない,と考える態度こそ,否定的な意味でもっともイデオロギー的な態度であるのかもしれない。こうした偏狭なイデオロギーから解放されるためには,逆説的ながら,自己の意識の存在拘束性を自覚する努力が必要であろう。
執筆者:山口 節郎
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(山口二郎 北海道大学教授 / 2007年)
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…古くは,意志をも含んだ精神活動の全体を指していたが,18世紀以降,より厳密に思考を主観的な反省や推論などの理性的意識の活動と考え,さらにそれを普遍的理念に基づくものとする観念論的考え方が確立されると,思想ももっぱら理性の活動とその所産として理解される傾向が強くなった。しかし,マルクスが,政治的,法律的観念や制度,哲学や宗教,道徳をも含むあらゆる意識形態を,物質的な生産関係(下部構造)に規定されるイデオロギー(上部構造)として解明し,またS.フロイトが,心の無意識の活動を発見し,欲動の力動的な機制から文化や社会を解明する観点を提起するなど,19世紀末から20世紀初めにかけて,思考の非理性的な基盤が明らかにされると,思想を知的活動だけでなく感性的イメージをも含むより広い人間の表現活動とみる考え方がひろがった。それとともに,人間の表現活動を,主観的な認識や信念をこえた客観的な集合的活動とみる見方も一般化した。…
…《無防備都市》(1945),《戦火のかなた》(1946)と戦争三部作をなす〈ネオレアリズモ〉の巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督作品。1946年に9歳で死亡した長男ロマーノにささげられ,冒頭に,イデオロギーというものは人間生活の基礎を形成する道徳とキリスト教の愛の永遠の戒律から逸脱すれば狂気となるにちがいない,という意味のエピグラフ・タイトルがあるとおり,廃墟と化した第2次世界大戦直後のベルリンを舞台に,ナチのイデオロギーの〈背徳的〉影響を受けた15歳の少年が,病弱な父を毒殺したあげく自殺するいきさつを描く。 だが,敗戦直後のベルリンの社会的現実をとらえ,〈ファシズムの社会的根源〉をさぐろうとしたこの〈抒情的ルポルタージュ〉は失敗に終わり,興行的にも成功せず,以後ロッセリーニは〈ネオレアリズモ〉に背を向けたといわれているが,フランスの〈ヌーベル・バーグ〉への影響は大きく,とくにフランソワ・トリュフォー監督の《大人は判ってくれない》(1959)は,トリュフォー自身も認めるように,《ドイツ零年》のもっとも直接的な血を引く作品である。…
※「イデオロギー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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