デ・レーケ
Johannis de Rijke
生没年:1842-1913
オランダの土木技術者で,明治初年に日本政府が招いた御雇外国人の一人。父が臨海土木の請負業者であったことから少年時代にその業をおぼえ,長じてアムステルダムの運河会社の上級技師となる。この間にファン・ドールンに認められ,1873年に他の3人の技師とともに来日,大阪港,三国港,広島港,福岡港などの測量調査にあたり,さらに淀川,木曾川,常願寺川の改修計画や利根川運河の計画改訂,淀川水系の砂防計画,印旛沼開削などを指導監督した。また,東京都の下水道設計(神田地区)を行うが,これは日本で初めての西洋式下水道である。デ・レーケの滞在は30年にも及び,多くの著作,報告書を残して,日本の河川砂防技術の基礎を築いた。
執筆者:佐藤 馨一
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デ=レーケ De Rijke, Johannes
1842-1913 オランダの土木技術者。
1842年12月4日生まれ。明治6年(1873)来日,大蔵省(のち内務省)土木寮に属し,大阪淀川の改修や,広島,長崎,仙台などの港湾工事を指導。17年東京神田に日本ではじめて西洋式下水道工事を施工した。34年に離日。1913年1月20日死去。70歳。
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デ・レーケ
明治初めに日本政府が招いた御雇外国人の一人で,オランダの土木技術者。1873年に来日し,大蔵省,内務省の御雇技師を務め,大阪築港や淀川,常願寺川,木曾川などの改修にあたった。河川改修や砂防工法に新技術を導入,東京神田区内の下水管敷設も指導した。
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デ‐レーケ
生年月日:1842年12月4日
オランダの土木技師
没年不詳年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のデレーケの言及
【治山】より
…また,はげ山の復旧植栽にあたってヒメヤシャブシを肥料木として植栽する工法なども幕末に滋賀県の地方で発達している。明治に入ってヨーロッパの治水技術を導入するため,オランダのデ・レーケJohannes De RijkeやオーストリアのホフマンAmerigo Hofmannらが招へいされたが,日本の地形からすると治山を重視すべきであるとし,日本在来の治山思想を入れて渓流における土木工事を含めての方法に改良している。しかし,治山事業が体系づけられたのは,第1期治水事業が開始された1911年である。…
【下水道】より
…【伊藤 好一】 明治に入って1872年(明治5)東京銀座の大火後,街路修築と同時に両側の下水溝を西洋風に改造することが行われたが,下水道の必要性が認識されるようになったのは,77年の東京におけるコレラの大流行以降のことである。オランダ人技師J.デ・レーケの意見によって,84‐86年東京神田鍛冶町などに分流式下水道を建設したのが日本の近代下水道の最初であり,煉瓦,または陶管による延長約4000mが敷設された。また同じころに横浜外国人居留地にも煉瓦造の下水道が敷設された。…
【治山】より
…また,はげ山の復旧植栽にあたってヒメヤシャブシを肥料木として植栽する工法なども幕末に滋賀県の地方で発達している。明治に入ってヨーロッパの治水技術を導入するため,オランダのデ・レーケJohannes De RijkeやオーストリアのホフマンAmerigo Hofmannらが招へいされたが,日本の地形からすると治山を重視すべきであるとし,日本在来の治山思想を入れて渓流における土木工事を含めての方法に改良している。しかし,治山事業が体系づけられたのは,第1期治水事業が開始された1911年である。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」