翻訳|Amsterdam
オランダの憲法上の首都(政府諸機関のある実際上の首都はハーグ)。大都市域人口102万(2005)で同国最大。面積207.5km2。同国西部,北ホラント州の南部に位置し,ゾイデル海(現,アイセル湖)の入江エイ(アイ)湾(het IJ)および北海運河の両岸に発達した都市で,商工業,交通,文化の中心地。地名は,13世紀エイ湾に流入するアムステル川の河口にダム(現在のダム広場)が築かれたことに由来する。ダム広場の周囲に広がる半円形の旧市街は,中世から17世紀にかけて発達したもので,同心円状,放射状の掘割が幾重にも通じ,市内には500以上の橋がある。ことに17世紀の最盛期に設けられたヘーレン,ケイセル,プリンセンの三つの掘割沿いには,趣向を凝らした破風をもつ古い家並みが見られる。市域は河口の砂州に広がっているため,これらの家並みはもちろん,第2次大戦後に建設の高層建築に至るまで,すべて砂中に打ち込まれた無数の杭(木またはコンクリート)の上に築かれている。同市は鉄道および高速道路の結節点で,国内主要都市およびヨーロッパ各地と連絡する。近郊には,オランダ航空(KLM)の本拠地スキポール空港がある。ゾイデル海は浅瀬が多く航行に危険なため,北ホラント運河(1824),北海運河(1876。外港エイマイデンIJmuidenをもつ)により北海と結ばれ,さらにアムステルダム・ライン運河(1952)でライン川と結ばれる。
アムステルダム港はロッテルダムに次ぐ同国第2の貿易港である。第2次大戦後インドネシアの独立により,同港の繁栄の源泉であった植民地貿易(ゴム,コーヒー,茶など)を失ったが,アムステルダム・ライン運河の開通,北海運河の拡幅により9万~10万トン級船舶の航行が可能になり,鉄鉱,木材,穀物,雑貨の貨物取扱額が増加して繁栄を取り戻した。しかしマンモス・タンカーは入港できず,原油はロッテルダムから送油パイプで送られる。
17世紀においてオランダ文化繁栄の中心であったアムステルダムは,19世紀後半同国の資本主義が発達するにつれ,再びオランダ近代文化発展の中心舞台となった。同市には市立アムステルダム大学(学生数2万3000)と新教系の自由大学(同1万3000)の二つの総合大学がある。前者は1632年創設のラテン語学校が1877年大学に昇格したもの。後者は1879年の創立,現在は市南部の総合キャンパスに移った。国際社会史研究所は,ヒトラーによる没収を恐れてドイツ社会民主党がオランダの労働党に譲ったマルクスの旧蔵書を含む社会主義文献・資料の宝庫で,ここを訪れる日本の社会科学者も多い。また,アムステルダム国立美術館は17世紀オランダの画家を中核に多数の作品を収蔵,陳列する。1973年には,油彩(200点),デッサン(500点),書簡(700点)を蔵する国立ゴッホ美術館が完成した。ほかに近代絵画を収集する市立美術館,熱帯研究所博物館,オランダ航海史博物館(東インド会社旧倉庫),アムステルダム市歴史博物館,ユダヤ人歴史博物館など,同市の歴史と深く結びついた大小約40の美術館,博物館がある。音楽では,名門コンセルトヘボウ管弦楽団のほか,アムステルダム交響管弦楽団も知られる。オペラ,バレエが上演される市立劇場のほかに多くの小劇場があり,大きな催しや展示にはライRAIと国際会議場があてられる。
市の中心ダム広場にある王宮は旧市庁舎で,1657年建築家カンペンにより完成された(レンブラントの《夜警》はこの市庁舎の壁に飾るために描かれた)。市庁舎は19世紀初め王宮として使用されるようになったが,柵もなく衛兵も立たず,事実上の王宮はスーストデイクSoestdijkおよびハーグにあるため,ふだんは使用されず内部の見物も許される。旧市街とその周辺には,王宮のほか旧教会(14~16世紀),新教会(15~17世紀),西教会(17世紀),ムント塔,中央駅,レンブラントの家,アンネ・フランクの家など,市の主要建造物や観光名所があり,盛り場も旧市街に集中している。特に港に近いゼーデイク通りは〈飾り窓の女〉で知られる。 このヨーロッパ第4の観光都市には年間約200万人の外国人旅行者が訪れる。ことに,1960年代にダム広場とフォンデル公園に多くのヒッピーが住みつき,ポルノや麻薬が解禁されている同市は,内外の若い人々の観光のメッカとなった。これに対し市当局は簡易宿泊所を設け,彼らに大麻の吸える巨大なディスコを提供した。アムステルダムの,このような国際性,開放性は,宗教戦争の時代に自由と寛容と平和が外国貿易にとってもっとも重要であると考え,宗教的迫害を受けた多数の亡命者(南ネーデルラントの新教徒,ポルトガル系ユダヤ人,フランスのユグノー)を受け入れた,国際的商港としての伝統と深く結びついている。観光によってホテル,レストランは繁栄したが,夏季には旧市街が外国人観光客と移住労働者であふれ,このため古い教会の鐘の音と街頭オルガンがのどかに響くかつてのしっとりと落ち着いた古雅な雰囲気をなつかしみ,無秩序と混乱を嘆く声もある。
開かれた都市として受け入れた亡命者にはユダヤ人も多く(レンブラントの《ユダヤ人の花嫁》などにも描かれる),17世紀にはシナゴーグが作られ,スピノザを生んだ。しかし第2次大戦下,ユダヤ市民の子孫たち約10万はドイツ占領軍によって強制収容所に送られ,繁栄したユダヤ人街(旧市街南東部など)は破壊され,アンネ・フランクの悲劇を生んだ。しかし,ユダヤ人資本と結びついた伝統的なダイヤモンド研磨は観光に支えられ,いまも盛んである。
市民のレクリエーションの場としては,市内に広大なフォンデル公園ほか10の公園があり,南郊には1930年代に失業対策事業として建設された400haの〈アムステルダムの森〉があってヨットや乗馬もできる。また,市の南西部にはアムステルダム・オリンピック(1932)の競技場があり,東部のはずれには70年代初めヨーロッパ大会で3年連続優勝し,アムステルダムっ子の血を沸かせたサッカー・チームの本拠アヤクス・スタディオンがある。20世紀初頭,都市計画によって整然たる新市街が建設され,第2次大戦後は高層建築が建ち,地下鉄も建設された。また戦後の,西部,南部における大規模なニュータウン建設とともに人口流出がふえ,1959年(87万人)以後市の人口は漸減している。ことに若年夫婦の流出が多く,住民は単身生活者と老人の比率が高い。住宅不足は著しく,70年代にはしばしば労働者,学生による空室の不法占拠や暴動が発生した。市内の住宅総数約29万戸のうち,9万戸は19世紀,3万戸はそれ以前に建設されたもので,老朽化し現代生活には適さないが,19世紀以前の家屋は文化財保存と観光の点から修復されている。
19世紀後半の産業革命以来,アムステルダムには造船,機械,金属,植民地物産の加工,化学,薬品,航空機などの工業が発達し,第2次大戦後は西部の臨港地域に石油化学やエレクトロニクスなどの産業が発展した。1960年代以降,土地不足,輸送難,環境汚染などの理由で,工業は北海運河沿いに拡散しつつある。この市の産業としては流通,金融,サービス業の比重がもっとも大きい。就業人口,付加価値額からみると,織物材料,服飾,金属製品,紙が国際取引と国内卸売を合わせ1位,小売業が2位を占め,交通・運輸・倉庫業がこれに続く。また金融,保険,観光は,70年代以降の成長産業でもある。
13世紀後半アムステル川の河口の砂州に小漁村が成立し,1275年住民はホラント伯フローリス5世の特許状をえて伯領における関税を免除された。1300年ごろ都市特許状を与えられる。23年ドイツのハンブルク港からオランダに向けて輸出されるビールの税関がこの市に設けられると,市民はハンブルクへの航行,海運に乗り出した。当時はドイツ・ハンザの繁栄期で,ハンザ諸都市とフランドルのブリュージュを往復する貿易ルートの中間に位置するアムステルダムは漁夫の利を占め,ハンザの商船に代わってしだいにバルト海の海運活動に従事するようになった。
スペインに対するネーデルラントの反乱において,同市は1578年反乱側に参加した。85年西ヨーロッパ最大の国際的貿易港アントワープがスペイン軍に占領されると,この港で国際貿易に従事していた大商人たちが巨額の商業資本や取引関係とともに移住してきたため,貿易は飛躍的に発達する。1600年前後,オランダ共和国の独立と時期を同じくして国際的中継貿易港となり,バルト海貿易の基礎のうえにイギリス,フランス,地中海沿岸地域,さらにアジア,西インド諸島との貿易を展開した。02年に成立した東インド会社の本拠もこの市にあった。港の周辺には多くの倉庫が並び,商品取引所や市立のアムステルダム振替銀行が設立され,イギリスから輸入された毛織物の染色・仕上げ業,絹織物業,ビール醸造,印刷,精糖,タバコ製造,ダイヤモンド研磨など輸入品加工業が発展し,17世紀中葉には国際的金融市場になった。経済的繁栄を背景とするオランダの〈黄金時代〉に,同国文化の中心として,アムステルダムは市民的文化を開花させ,画家のレンブラント,ロイスダール,ホッベマ,カイプ,建築家のカンペン,ケイセル,文学者のフォンデル,ブレーデロー,ホーフトなどが輩出した。さらに同市の大商人門閥は,連邦議会を動かして国政の実質上の支配者として揺るぎなき寡頭貴族制支配をうちたてた。またこの時期に市域は拡大され,新しい掘割も設けられた。18世紀後半以後,オランダ共和国の衰退につれてアムステルダムの繁栄も終わったが,19世紀後半オランダの工業化が開始されると,再び貿易港,工業の中心地としてめざましい発展を遂げた。
→オランダ →オランダ共和国
執筆者:栗原 福也
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オランダ西部、ノールト・ホラント州南部にある同国の憲法上の首都(実質上の首都はハーグ)。人口73万4594(2001)で、オランダ最大。また郊外地域を含むアムステルダム大都市圏の人口は100万2868(2000)。アムステル川がアイセル湖のアイ湾に流入する地点に位置し、オランダの商工業、交通、文化の中心地となっている。北海とは北海運河、ライン川とはアムステルダム・ライン運河、またワッデン海とはノールト・ホラント運河によって、それぞれ通じるため、市街北部のアムステルダム港はロッテルダムに次ぐオランダ第二の貿易港となっている。工業も、16世紀にベルギーのアントウェルペン(アントワープ)から移ってきた世界的に有名なダイヤモンド研摩業のほか、石油化学、造船、セメント、航空機、電子、服飾などの諸工業が立地する。また、北海運河沿いでは石油精製、外港的性格をもつアイモイデンIjmuidenでは鉄鋼、北郊のザーンダムZaandamでは食品工業が発達し、一大工業地帯を形成している。第二次世界大戦前までは、オランダ領東インド(インドネシア)からのゴム、砂糖、コーヒーなどの輸入と取引でにぎわい、現在も商業・金融活動が活発で、株式市場、オランダ銀行などが集中している。
文化面では1632年創立のアムステルダム大学と1880年創立の自由大学の所在地であり、また、レンブラントの『夜警』をはじめ17世紀オランダ美術を多数所蔵する国立美術館、近代絵画を収集する市立美術館、そのほかゴッホ美術館、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサート・ホール、市立大学図書館、レンブラントの家などの文化施設が多い。旧市街はアムステル川河口を中心に扇形に広がり、環状、放射状の運河網が発達している。中心のダム広場の周囲には、かつて市庁舎として使われた王宮や後期ゴシック様式の新教会が並び、このほか市内には1334年建設の旧教会や、涙の塔、ムント塔、アンネ・フランクの家などの歴史的な建物が多い。郊外では都市化が進行し、西部、南部では大規模なニュータウンが建設され、また南西郊外には国際空港のスキポール空港がある。
[長谷川孝治]
13世紀中葉ごろ、アムステル川の河口にダムを築いてアイ湾からの海水の浸入を防ぎ、小集落が成立した。これが地名の由来である。1275年、住民はホラント伯フロリス5世から伯領における関税免除の特権を得、さらに1300年ごろ都市特許状を与えられてアムステルダム市が成立した。1323年、ドイツのハンブルク港からホラント地方へ輸入されるビールの税関が当市に置かれ、市民のハンブルク航行が開始され、しだいにハンザ諸都市とフランドル地方との間の貿易における内陸ルートの要衝として海上輸送に進出した。16世紀前半、市はバルト海地域産穀物の一大市場となり、1585年、西ヨーロッパ最大の貿易港アントウェルペンがスペイン軍に占領されると、その後を継いで一挙に発展した。17世紀にはバルト海貿易を基礎として、スペイン貿易、さらに地中海、アジア、新大陸貿易を展開して世界市場となり、商品取引所(1611)、市立のアムステルダム振替(ふりかえ)銀行が設立され、造船、ビール醸造、印刷、精糖、たばこ加工、ダイヤモンド加工などの工業が栄えるとともに、世界的金融市場になった。
市はまた独立を達成したネーデルラント連邦共和国の文化的中心として、画家レンブラント、哲学者スピノザ、文学者のフォンデルやホーフトらを輩出して、オランダ文化の黄金時代を築いた。15世紀以来、市長(4人)、市参事会員(36人)の職を独占して貴族的寡頭支配を行った富裕な大商人門閥は、貿易の発展とともにますます勢力を張り、共和国の実質的な支配者として君臨した。17世紀に市域は拡大され、半円状のヘーレン、カイゼル、プリンセンの3運河と、運河沿いの壮麗な住宅が建設され、17世紀中葉に繁栄は絶頂に達し、豪壮な市庁舎(現王宮)が建てられた。1815年、ネーデルラント王国成立とともにその首都となったが、長い衰退ののち、18世紀の後半以降、北海運河(1876)、メルウェーデ運河(1892)の建設、産業革命の進行によって、市の貿易、工業の発展が再開され、1840年以後、市域の拡大も始まり、20世紀初頭には都市計画が実施された。第二次世界大戦後アムステルダム・ライン運河が開通し、クーン、アイ両トンネルにより、港を挟む南北両市域が接続され、新市街が建設された。
[栗原福也]
アムステルダム防衛のために、周囲を取り囲むように配された要塞とその防塞線が、1996年ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「アムステルダムのディフェンス・ライン」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部]
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オランダ,ホラント州にある大商業都市。大航海時代にアントウェルペンが世界貿易の中心となって以来,仲介貿易によって急速に発展。オランダ独立戦争によるアントウェルペンの衰退に代わって,新興のオランダ共和国の中心都市としてだけでなく,17世紀には国際貿易,金融の要としての地位を獲得し,文化的にも黄金時代を迎えた。1815年オランダ王国の成立とともに首都に定められ,北海運河の開通によりオランダ最大の都市となったが,第二次世界大戦中ドイツ軍によって占領され,多くのユダヤ人が強制収容所に送られた。
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…すなわち当時の絶対王制諸国家群の中で,この国は君主も強力な中央政府ももたない極端な分権主義的原理に立つ連邦共和国であって,連邦を構成する7州はそれぞれ州主権を有し,また諸州の内部では各都市は強大な自治権を享受していた。ことにアムステルダムをはじめとするホラント州諸都市の大商人たちは社会的経済的上層部を形成し,都市,州,連邦の統治を掌握して共和国の政治的支配者になった。同時代のイギリスやフランスが国民経済の建設,国民的生産力の展開を実現したのに反して,共和国においては,支配階級である大商人層が唱道する商業自由の原則や分権国家体制によって,資本主義的国民経済形成への道は妨げられ,保護主義による工業発展も農業の展開も阻止された。…
…しかし16世紀中葉にはベネチアを中心とする地中海の香料貿易が復活し,ポルトガルのコショウ独占は失敗した。1585年アントワープはスペイン軍の攻撃によって陥落し,アムステルダムがその地位を継承した。アムステルダムの商人はイベリア半島に進出して新大陸から流入する銀を掌握し,重要なトルコ市場をもつ地中海へも進出し,さらに東西インドの植民地へ勢力を拡大した。…
…イギリスの対外貿易における17世紀は,〈レバント会社〉の時代であった。バルト海においてはオランダがイギリスに対して優位に立ち,アントワープに代わってアムステルダムが北方の中心的市場となった。やがてオランダ商人も地中海へ進出し,フランスもこれに続いた。…
…インド航路やアメリカの発見によってヨーロッパの海運は大きく発展したが,北海と地中海を結ぶ伝統的な交易網もなおその重要性を失わなかった。【清水 広一郎】
[近世・近代の海運]
16世紀における北西ヨーロッパ最大の中継貿易港アントワープが,オランダ独立戦争の渦中で1585年スペイン軍に占領され港の入口がオランダ側に閉鎖されると,中継貿易の中心はオランダのアムステルダムに移った。17世紀前半オランダの海運と貿易は驚異的発展を遂げ,その商船隊はバルト海,北海から南の地中海,レバント,さらにアフリカ西海岸,カリブ海域,北アメリカ,東アジアにまで進出し,オランダはまさにヨーロッパの海運業者になった。…
… オランダはスペインに対する独立戦争の一環として新大陸から帰航するスペインの船隊に対してはげしい攻撃を行った。1585年にアントワープがスペイン軍に占領されると,同地の商人がアムステルダムに移住した。この結果,アムステルダムが国際貿易の中心地となり,スペインに対抗して,スペインの勢力の及ばない地域への進出が計画されるようになった。…
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