ドイツ講和問題(読み)ドイツこうわもんだい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ講和問題」の意味・わかりやすい解説

ドイツ講和問題
ドイツこうわもんだい

第2次世界大戦中から,ドイツとの講和と戦後処理を決定するため,連合国によって討議された諸問題。連合国は 1942年1月1日,連合国宣言 (26ヵ国) によって単独不講和の方針を打出し,43年 10月 30日のモスクワにおけるアメリカ,イギリス,ソ連3ヵ国外相会談によって確認した。 45年8月2日のポツダム協定では講和会議の準備はアメリカ,イギリス,フランス,ソ連4ヵ国外相理事会を設定して進めることに決定。イタリア,ルーマニアブルガリアハンガリーフィンランドの講和は 47年2月の条約調印で解決されたが,ドイツとの講和は 47年を境とした東西の対立激化で難航,講和会議を準備する4ヵ国外相理事会も 47年 11~12月のロンドン会議を最後に開かれず,協議の場を失った。 48年6月西側6ヵ国はロンドン協定 (1948.2.) で西ドイツの設立を決め,これに基づき 49年9月に西ドイツ (ドイツ連邦共和国) が成立。ソ連もこれに対抗して 10月東ドイツ (ドイツ民主共和国) の樹立宣言を行なった。その後対独講和の主張がソ連側から繰返された。これは,西ドイツの再軍備計画を阻止するため統一ドイツと講和条約締結し,それによって非武装・中立化を意図したためであるが,いずれも西側に拒否された。 58年5月5日にソ連は首脳会談の開催と対独講和条約の審議を,9月4日東西両ドイツ政府の代表を加えた講和会議の開催を提案したが,これは西ドイツが核武装を要求したことに対する牽制の意味と,西側が強く拒否している東ドイツの承認を求めるためであった。以後も講和条約の草案と講和会議の開催の提案を繰返したが,いずれも本来の講和条約の締結という目的とは別個の意図が秘められている主張だけに成立の見通しはなく,結局 60年代後半の米ソ和解の成立と現状の固定化,70年代の東西ドイツの接近とヨーロッパの緊張緩和によって,複雑な問題がからむ対独講和条約の締結要求は非現実的であるとされ,たなあげにされた。 90年9月戦勝4ヵ国と東西ドイツ政府によって「ドイツに関する最終規定条約」が調印された結果,戦勝4ヵ国の対独留保権は消滅,ドイツに対する戦後処理は終結した。

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