目次 自然,住民 政治 外交 軍事 法制 経済,産業 旧西ドイツ時代の経済 旧西ドイツ時代の産業 社会 伝統的市民社会の解体 家庭と女性解放 教育改革 外国人労働者 住民運動と緑の党 基本情報 正式名称 =ドイツ連邦共和国Bundesrepublik Deutschland/Federal Republic of Germany 面積 =35万7114km2 人口 (2010)=8178万人 首都 =ベルリンBerlin(日本との時差=-8時間) 主要言語 =ドイツ語 通貨 =ドイツ・マルクDeutsche Mark(1999年1月よりユーロEuro)
ヨーロッパ中部の連邦共和国。第2次大戦後の1949年に建国され,73年国連に加盟した。日本では,一般に西ドイツないし頭文字をとってBRD(ベーエルデー)と呼ばれた。90年10月3日ドイツ民主共和国 (東ドイツ)を編入した。
ここでは,旧西ドイツの政治,経済,社会のあり方について述べ,旧東ドイツやあるいはオーストリア をも含めて歴史的に〈ドイツ 〉と呼ばれてきた地域の地理,歴史,社会,文化については,別に〈ドイツ 〉の項目を設け,そこで解説した。
自然,住民 北は北海とバルト海に面し,東は東ドイツとチェコスロバキア ,南はスイスとオーストリア,西はオランダ,ベルギー,フランスに接する。国土は,南端部のアルプスから北海にむかって,アルプス,アルプス前縁地,中山山地,北ドイツ低地の順でしだいに低くなる。住民のほとんどは,ドイツ語を用いるいわゆるドイツ人で,宗教的にはキリスト教徒 で,プロテスタント がローマ・カトリックよりやや多数を占める。
政治 ドイツの敗戦による4連合国の分割統治と冷戦 の進展は,ドイツの分裂を促進し,1949年,西側3連合国(アメリカ,イギリス,フランス)占領地域にドイツ連邦共和国(旧西ドイツ),ソ連占領地域にドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が誕生する。ベルリンも東西に分割され,冷戦の最前線となった。47年マーシャル・プラン による援助開始と48年6月の通貨改革は50年代の旧西ドイツ経済復興の原動力となるが,同時に東西の対立を深める一因ともなった。49年5月ドイツ連邦共和国基本法Grundgesetz(憲法)が制定され,8月には最初の総選挙が行われ,9月になって第1次アデナウアー 内閣が成立する。
旧西ドイツの大統領が象徴的に国家を代表するのに対して,政治の実権は首相(宰相)Bundeskanzler が握ることになった。ワイマール時代の大統領・首相の二重権力構造を廃して首相の権限を強めたり,5%条項(比例代表制のもとで議席を得るには5%以上の得票率が必要)を設け小政党の乱立を制度上から防ごうとするさまざまな試みは,政治の不安定に苦しんだワイマール時代の苦い経験によるものであった。さらに上記の基本法は,国会の解散を困難にする歯止めを設けている。国会は日本の衆議院に当たる連邦議会Bundestagと連邦参議院Bundesratの二院制であるが,後者は州政府の代表者によって構成される。11の州(ラント )には外交,防衛を除く内政全般の機能が分与されて,連邦参議院の特殊な性格とともに,旧西ドイツの連邦的性格が特徴づけられている。11の州とは,シュレスウィヒ・ホルシュタイン ,ハンブルク ,ニーダーザクセン,ブレーメン ,ノルトライン・ウェストファーレン ,ヘッセン ,ラインラント・ファルツ ,バーデン・ビュルテンベルク ,バイエルン ,ザールラント とベルリン である(90年のドイツ統一により,メクレンブルク ・フォアポンメルン,ザクセン・アンハルト ,ブランデンブルク,ザクセン,チューリンゲンが加わった)。連邦議会議員の半数は,小選挙区ごとに直接選挙で選ばれ,残りの半数は各党の選挙名簿によって比例代表の原則で選出される。選挙民は候補者個人と政党とへの2票を投じるが,後者の得票率が全体の議席割当数の基礎になる。連邦議会,州議会議員は4年ごとに改選される。おもな政党としては,キリスト教民主同盟 (CDU),キリスト教 社会同盟(CSU。バイエルン州のみ),ドイツ社会民主党 (SPD),自由民主党 (FDP),環境政党として出発した緑の党,極右の共和党などで,共和党は連邦議会に議席を有しない。FDPは,右派政党,中道政党としての性格を交互に示している。60年代の末から80年代の初めまでは,中道政党としての性格を強め,SPDに接近した。ドイツ統一後は旧東ドイツの支配政党であった社会主義統一党(SED)が旧来の路線を捨てて民主社会党(PDS)として再建され,連邦議会にも進出した。
旧西ドイツでは,単独政党が政権を担当したことはなく,90年10月までの17の内閣はいずれも連立政権である。そのパターンは三つに大別される。すなわち(1)49年から66年までキリスト教民主・社会同盟 (姉妹政党であるCDUとCSUが国政レベルで連合し,連邦議会では共同議員団を構成している。以下CDU/CSUと略す)が主体でFDPその他が加わった連立パターン,(2)66年から69年までのCDU/CSUとSPDの保革大連立パターン,(3)69年から82年までのSPDとFDPの革新・中道連立パターンの三つであり,82年の秋からは,ふたたび第1のパターンに近づき,CDU/CSUとFDPが連立した。連邦首相は,1949-63年のアデナウアー,1963-66年のエアハルト Ludwig Erhard(1897-1977),1966-69年のキージンガーKurt Georg Kiesinger(1904-88。いずれもCDU),1969-74年のブラント ,1974-82年のシュミットHelmut Schmidt(1918- 。いずれもSPD),1982年以降のコール(CDU)の6人であり,そのうちアデナウアーは14年間も首相として,初期の旧西ドイツ政界に絶大な影響を及ぼしたが,コールは16年間の記録を作った。第1の連合パターンはドイツ統一後も踏襲された。
アデナウアーの統治期は,驚異の経済成長の時代となった。経済相のエアハルトは,社会的市場経済を経済政策の理念に据えて,企業家の自由意志と自発性による企業活動を促進させた。しかし同時に自由競争からおこる社会問題の発生を是正するために社会政策にも力が入れられ,年金制度の充実,戦争犠牲者の救済,社会住宅建設が進んだ。カトリック教徒アデナウアーの反共性は,共産党の非合法化(1956)など国内政治にも反映した。共産党は68年に再建されたが,統一後まったく影響力を失い,一部PDSに合流した。アデナウアーは,政府内と党内で強力な指導権を行使し,引退まで互角の競争者に出会わなかった。SPD党首シューマッハー Kurt Schumacher(1895-1952)が50年代にも健在であったならば,その意志強固な激しい性格と指導力によって,アデナウアーの好敵手になっていたであろう。シューマッハーの影響の下でSPDは50年代の半ばごろまで,民族主義的な主張を強く打ち出し,ドイツ再統一を掲げ,西側統合・再軍備に反対した。59年にはSPDの基本路線に大変更が加えられた。この年同党はバート・ゴーデスベルク綱領 を採択,マルクス主義 から決別し,国民政党として再出発する。61年には西ベルリン市長ブラントが首相候補者に指名され,SPDの政策,指導陣は刷新されることになった。
63年アデナウアーの後継者として首相に就任したエアハルトは,外交・内政でも,また党内調整にも成果をあげられず,65年の戦後最初の不況を乗り切ることにも失敗し退陣,キージンガー,ブラントの大連立政権が作られる。初のケースであった保革大連立は,青年層の反乱を呼び起こし,67-68年,学生を中心とした院外反対運動が高揚する。野党にまわったFDPは,この間党内改革を進めた。
東方政策の進め方をめぐって対立が深まり,69年二大政党の連立時代が終わり,以降SPDとFDPの連立政権が82年まで13年間継続することになった。ブラント(SPD)=シェール(FDP),シュミット(SPD)=ゲンシャー(FDP)時代である。この期間には,内政の上で種々の改革政策が推進された。社会政策を通じての福祉の拡大,教育の機会均等にもとづく教育制度の改革,大学の増設と学生の増加,離婚法の近代化,共同決定の拡大(共同決定法 )などの一連の政策は,保革の論争の焦点となった。しかし第1次石油危機以降,西ドイツ経済の下降,失業の増大,財政危機の中で,とくに80年代に入ってから連立両党の亀裂が深まりはじめ,82年9月,FDP4大臣が閣議を去り,10月初頭野党のCDU/CSUとともにシュミット首相不信任案を上程,これが成功して総選挙をみないで,コール新政権の誕生となった。
83年秋にはパーシングⅡ型,巡航ミサイル の中距離核配備に反対する反核運動が高揚,統一行動週間には,全国で約100万人が集会,デモに参加したが,新政府はパーシングⅡ型の第1回配備を実施,NATO二重決議(1979年12月)にもとづく公約を果たした。70年代の末から環境運動体としての緑の政治グループが地方議会に進出しはじめ,80年初頭には連邦規模で緑の党 (正式には緑の人々Die Grünen)が結成され,その後州議会選挙で成功を収めていった。83年3月の総選挙では得票率5.6%(前回80年1.5%)で27議席を獲得,初の連邦議会進出を成し遂げ,これにより伝統的な三党制が崩れることになった。同党は環境政党の性格を維持しながらも,しだいに左翼政党としての性格を強めていった。統一前最後の87年1月の総選挙における各党の得票率(議席数)は次のとおりである。CDU/CSU44.3%(223),SPD37.0%(186),FDP9.1%(46),緑の党8.3%(42),NPD0.6%(0)(議決権のない西ベルリン出身議員を除く)。
90年10月3日のドイツ統一は,ドイツ民主共和国の新設5州がドイツ連邦共和国に参加するという形をとったが,それは実質的には西ドイツによる東ドイツの併合であった。
ベルリンかボンかで争われた統一国家の首都はベルリンと決定され,90年代の過渡期を経て,政治機能は2000年以降人口340万人のベルリンに集中される。ここにロンドン,パリ,ローマに次ぐ大首都が出現する。統一ドイツ の州は16となり,連邦制が東地域に拡大した。統一によって政党構造にも変化がみられた。CDU・CSU,SPD,FDPの既成4政党(3グループ)に加えて,80年代に登場した緑の党は旧東ドイツ地域の市民運動と合併し,〈90年同盟・緑の党〉となった。統一後2度にわたり連邦議会に議席を得たPDSは,東の住民が持つ西へのルサンチマン とオスタルギー(新語。東へのノスタルギー)の波に乗って,東地域の各州で第2党,第3党として定着している。
外交 1949年から55年までの旧西ドイツ外交の目標は,アデナウアー首相のもとで,西側統合と西ドイツの主権回復であった。野党のSPDが,ドイツ再統一を西側統合に優先させようとしたのに対して,CDU/CSUは,西側統合と西側世界の繁栄を土台とした力の政策がドイツ再統一への原動力となると主張した。このアデナウアーの外交方針は,冷戦の激化の中で,旧西ドイツの主権回復と,その西側統合を急いだ西側連合国の願望とも一致するものであった。55年になり主権を獲得した西ドイツはNATO(北大西洋条約機構 )に加盟する。この年アデナウアーはソ連とも外交関係を樹立,ソ連抑留の捕虜の帰国に成功している。55年から61年(ベルリンの壁の構築)までの期間,西ドイツの西側統合はさらに進んだ。52年の石炭鉄鋼共同体の結成はフランス,ドイツ,イタリア,ベネルクス3国との協力関係をますます密にし,58年初頭にはEECの成立となる。アデナウアーは,とくにフランスとの和解,友好,協力に努め,戦後の独仏協力体制の基礎を作った。
55年以来,ハルシュタイン・ドクトリン によって,西ドイツ政府が唯一のドイツ国民の合法政府であることを主張,ドイツ民主共和国(東ドイツ)を承認する国とは断交措置をとるとの方針で,東ドイツを国際舞台から締め出すことに成功したが,60年代後半から,東ドイツによる第三世界への働きかけが徐々に成功しはじめ,承認国が増えるようになり,西ドイツは防衛にまわることを余儀なくされた。60年代の終りには,ハルシュタイン ・ドクトリンは事実上有効性を失っていったが,61年東ドイツ政府がベルリンの壁を構築して以来,東西ドイツの統一はますます遠のいていった。与党CDU/CSU内では,ドゴール時代の米仏関係の悪化の中で,外交の重点をめぐり亀裂が深まっていった。アデナウアーは,アメリカとの協力関係を維持しながらも,隣国フランスを第1の同盟国と考え,独仏枢軸に西ドイツの運命を託そうとした。63年にドゴールとアデナウアーによって締結された独仏協力条約は,今日まで独仏協調の礎石となり,70年代にはジスカール・デスタン とシュミットの蜜月時代が現出する。アデナウアーは63年に引退するまで,西ドイツ外交の手綱をみずからの手に握った。西側統合,独仏協力,共産主義からのキリスト教〈文明〉社会(とくにカトリシズム )の防衛は,彼の三大外交理念であった。
60年代半ば以降,米ソ協調体制が確立されはじめる中で,西ドイツのソ連・東欧外交は変化せざるをえなくなる。エアハルト時代(1963-66)に外相となったシュレーダー は,東欧諸国との関係改善に努めるが,与党内の反対で進展せず,それは大連立政権の成立まで待たなければならなかった。66年,外相となったブラントは,本格的にソ連,東欧諸国との関係改善に着手し,東方外交の基礎を固める。69年からのSPDとFDPの新連立政権のもとで,ブラント首相とシェール外相は東方外交をもって,デタント (緊張緩和)の最前線外交を展開する。70年にはソ連およびポーランド と条約を締結,武力による紛争解決を放棄,ポーランドの西方国境線としてオーデル・ナイセ線 を承認した。アデナウアーが西側諸国との和解と協力に貢献したとすれば,ブラントは東側諸国との和解と交流に努力し,この2人の首相をもって,戦後処理は完結される。ブラントは東方政策ばかりではなく,アデナウアーの西方政策,独仏協調政策も引き継いだ。72年には,ドイツ基本条約が締結され,二つのドイツ国家共存のルールが作られた。74年に首相になったシュミットは,アデナウアーの西方政策とブラントの東方政策のいずれをも継承した。70年代の末から激しさを加えていった米ソの対立の中で,シュミットは米ソの橋渡しに努力し,ECの声を代表して,欧州のデタント基調を守るべく力を入れた。82年のコール政権の登場によって,アメリカとの関係は一層緊密になったが,東方政策と対東ドイツ政策は,基本的にはシュミット政権のそれが踏襲された。
90年のドイツ統一は外交政策においても大きな転機となった。まず旧戦勝4ヵ国の留保権が消滅し,ドイツは完全な主権を獲得した。フランスとともにマーストリヒト条約 の成立の核になり,通貨同盟に向けてイニシアティブ がとられた。従来英仏に隠れ世界外交の場面で国力に応じた役割を果たせなかったドイツは,日本とともに国連の安全保障委員会常任理事国の候補に躍り出たし,またPKOへの協力に関しても積極的な立場をとっている。NATO領域以外への派兵がタブーであった冷戦時代から一変して,ドイツの国際的な参加が現実のものとなった。
軍事 1955年に再軍備に踏み切り,翌56年徴兵制を敷いた。西ドイツはNATOの中欧地域防衛の最重要国で,防衛範囲は東ドイツ,チェコスロバキアとの国境とさらにバルト海であった。国防軍の指導理念は民主的軍隊としての〈内面的指導innere Führung〉であり,軍人は〈制服の市民〉として,一般社会に統合されるべきことが強調されている。再軍備をめぐって,西ドイツ国内では大論争が展開され,野党のSPDは反対のキャンペーンを張ったが,後にこれを認めた。SPD初代の国防大臣はシュミットである。核兵器の製造は禁じられてはいるものの,西ドイツ駐在の米軍が核武装されているため,西ドイツ国防軍も核戦略,核防衛体制の中に完全に組み込まれた。国防軍の装備水準は高く,陸軍は機甲旅団,機甲歩兵旅団,空挺旅団が中心である。西ドイツ製レオパルトⅡ型戦車は最高水準の機能を有しているといわれる。空軍は戦闘爆撃中隊,戦闘地上攻撃中隊などが主体で,海軍はすべての戦力をバルト海,北海に当てている。西ドイツ国防軍の総兵力(1989)は約49万4000人で,陸海空軍兵力は,それぞれ34万1000人(68.9%),3万6000人(7.3%),10万6000人(21.4%)である。三軍はいずれもNATO軍指揮下に入るが,陸軍の一部は郷土防衛軍として,NATOの指揮権外にある。総兵力の55%は職業軍人と期限勤務兵士(2年から15年)で,残りの45%が徴兵による兵役義務者である。兵役期間は,70年代の初めに18ヵ月から15ヵ月に短縮された。宗教上その他の理由による兵役拒否者には代替勤務として社会奉仕の道が開かれている。国家予算に占める国防予算の比率は高く,91年度予算案では526億マルクで16.2%であった。平時は国防相が指揮権を持つが,非常時にはこれが首相の手に移る。ハンブルクとミュンヘン に連邦国防軍大学がある。
1990年のドイツ統一によって,旧東ドイツ人民軍が縮小・解体され,連邦軍に編入された。将来の国防軍の兵員数は〈ドイツに関する最終規定条約〉にもとづいて上限37万人とされた。またNATOへの帰属は継承されたが,核・生物・化学兵器の製造・所有・使用禁止が義務づけられた。 執筆者:仲井 斌
法制 統一後のドイツの法制は,1949年に制定されたドイツ連邦共和国基本法に所定のものが維持されている。基本法の規定する国家秩序は,民主主義,法治主義,社会国家,連邦国家の四つの基本原則からなっている。いうまでもなく,〈大衆民主主義的で自由な社会国家〉は,西側先進工業諸国家に共通する価値とされている。これらの原則に基づいて,ドイツの国家権力の行使は,立法・行政・司法の諸機関にゆだねられている。元首は連邦大統領とされているが,大統領はその目的のためにのみ召集される憲法機関(連邦集会)で選出され,任期は5年で再選は1度だけ可能とされている。大統領は連邦議会に対し連邦首相候補を提案し,また国を代表する。連邦議会は連邦共和国の国民代表機関とされている。また,行政の核たる連邦政府(内閣)は連邦首相と連邦大臣により構成され,首相は唯一人の〈議会から選出された閣僚〉として一人で議会に対し責任を負い,強大な権限を行使する。
ドイツの法制上で特徴的なのは,連邦憲法裁判所Bundesverfassungsgerichtの存在で,もっぱら基本法の遵守を監督することを使命としている。法治主義を掲げるドイツには,整備された司法組織が存在しており,憲法裁判所以外にも,通常裁判所,労働裁判所,行政裁判所,社会裁判所,財務裁判所が存在している。通常裁判所は,労働法関連事件を除く刑事および民事事件に対して管轄権を有し,それはさらに区裁判所,地方裁判所,控訴院,連邦通常裁判所の4段階に区分されている。また労働裁判所は社会国家の国是に対応するもので,膨大な労働・社会法関連事件を管轄する重要な裁判所となっており,社会保険を管轄する社会裁判所も同旨の思想に基づいている。なお,財務裁判所は租税関連の,また行政裁判所は社会裁判所・財務裁判所の管轄に属さない行政上の紛争を取り扱うことになっている。日本に比べて,こうした専門裁判所が大きな役割を果たしていることが特徴である。
なお,軍事・防衛制度についても,近時に運用面で大きな変動がみられるが,法制度の根幹にまでは及んでいない。 執筆者:河上 倫逸
経済,産業 旧西ドイツ時代の経済 旧西ドイツの経済は,1949年から84年までの間に,(1)高度成長(1949-58),(2)安定(1959-73),(3)停滞(1974-84)の3局面を歩んだ。これをはっきり示すのが年間成長率の推移で,第1期平均7.9%が第2期に4.2%に,第3期には1.6%と,段階的に顕著な低落を続けている。第1期の高度成長は,とりわけ西ヨーロッパ の隣接国と比べて驚異的な実績であったことから,〈ドイツ経済の奇跡〉の語を生み,これが旧西ドイツ経済の基本特徴としてその後も長く称揚されてきた。高度成長をもたらした要因はさまざまであるが,第1は19世紀末以来作りあげられてきたすぐれた工業技術,積極的な企業家精神および銀行の産業金融体制などの伝統,第2は1948年6月の通貨改革による安定通貨ドイツ・マルクの創設と自由競争体制の徹底,の2点に要約することができる。またドイツ人の勤勉さも有利に働いた。自由競争と社会政策的配慮の結合によって作り出された体制は〈社会的市場経済〉と呼ばれている。
第2次大戦前のドイツ経済は国および銀行による産業育成・保護,カルテル王国ともいわれた高い産業集中を特徴とした。このようにして確立された重化学工業 (鉄鋼,機械,輸送機械,重・軽電機,精密・光学機器,化学など)の卓越した技術水準と国際競争力は今日まで温存され,これが戦後期に支配的になった自由経済の世界的風潮のなかで内外両面での発展をもたらした。〈資本財を主力とする輸出主導型の成長〉という旧西ドイツ経済の骨格は,この産業体制の反映である。
1960年代に入って成長率が安定したあとも経済拡大はなお続き,実質GNPが1960年にイギリスを凌駕して西側第2位の大国となった。この強い経済力に裏づけられた社会福祉政策が積極的に進められ,スウェーデン とともに世界最高の福祉国家となった(1963年の1人当り社会保障給付額はスウェーデン288ドル,西ドイツ250ドル,イギリス177ドル。1977年にはそれぞれ2819ドル,1883ドル,639ドルに増加)。いわゆる成熟化の段階である。この時期,成長率の低下と並行して,消費者物価の上昇率は,1950-55年平均1.1%,55-60年1.9%,60-67年1.5%の低位にとどまった。通貨価値の安定基盤のうえで,高い賃金上昇率(1960-67年平均7.7%)と超完全雇用がほぼ15年間続いた。66年の恐慌で順調な拡大が短期的に中断したものの,再び活況・ブーム局面が始まり,これが73年の第1次石油危機まで続いた。この時期から表面化した成長率の鈍化の要因は賃金上昇,利益率低下による企業の設備投資意欲の弱まりにあった。これは工業国共通の現象であったが,他の西ヨーロッパ工業国と比べると,輸出の活況とあわせて,旧西ドイツ経済の優位はなお群を抜いていた。しかし,経済的成熟の進行にともなう調整力の弱まりが多くの面に現れつつあった。
こうして旧西ドイツでも石油危機を動因とする長期停滞局面が始まった。特徴的現象は,(1)エネルギー価格の暴騰に触発された消費者物価の上昇(1975-82年平均年率4.5%),(2)成長の沈滞(同1.9%,1975年と82,83年はマイナス),(3)79-81年の経常収支の大幅赤字,(4)失業の大量・長期化,などであり,世界経済の優等生のイメージからは想像もできぬ暗い局面の展開となった。80年代には〈西ドイツ病〉の評語も現れた。これは,上記の全経済的問題に加えて,労働意欲の減退という伝統的なドイツ人の性格とは異質の要因が表面化してきたためだと説明されている。しかし,同様の病症は先進工業国全体に共通で,国際的比較では旧西ドイツ経済はまだ相対的に軽症とみることができた。
1970年代の長期停滞のなかで,これまで経済運営の原則とされてきた市場メカニズムへの全面的依存が,実質的に再検討されはじめ,景気政策や構造政策の名で行われる公的介入が年を追って広がってきている。投資促進のための減税,補助金や財政資金の供与,財政計画,労使協調制度などがその例で,その制度的基盤を定めたのが1967年の〈経済安定成長法Gesetz zur Förderung der Stabilität und des Wachstums der Wirtschaft〉であった。また76年には企業の経営についての共同決定法 が成立している。
旧西ドイツ時代の産業 旧西ドイツ産業の構造的特徴は,(1)製造業のウェイトが先進工業国のなかで最も高いこと(産出額でみて日本29%に対し33%),(2)第3次産業,とくに商業のウェイトが相対的に低いこと(就業者数は第3次産業全体で51%,商業は12%。日本はそれぞれ57%と23%),(3)第1次産業のウェイトがイギリスに次いで先進国中最も低いことなどである。製造業のなかで資本財の占める比率が41%,これに中間財部門を加えたもの,すなわち重化学工業全体では73%にのぼっている。
このような産業構成の根幹は,19世紀末の第2次産業革命で主としてドイツ人の頭脳から生み出された技術(重電機,工作機械,内燃機関,合成化学など)を主軸としており,乗用車,大型営業車,発電機,電気機関車,精密・光学機械,医薬品などの伝統的技術製品は,今日なお強い競争力をそなえ,EC,東欧,中東,中南米などで根強い信頼を得ている。輸出総額中で資本財が47%を占め,OECD諸国平均(36%)を大きく上回っている。
しかし,重化学工業中心の発展のなかで,製造業の部門間成長格差が表面化している。とりわけ急速な技術革新が始まった1970年代以降の変化,すなわち産業構造の変動は顕著である。1960-77年の部門別付加価値(実質)の年平均伸び率を比較すると,宇宙・航空(7.8%),自動車(6.1%),精密・光学機器(6.0%),電機(5.4%),機械(4.5%),化学(3.5%)などが平均を上回る成長部門,これに対して造船(2.3%),衣料(1.5%),繊維(-0.7%),鉄鋼(-0.9%)などが,停滞ないし衰退部門となっている。部門別生産性の伸び率もほぼこれと並行している。このうち〈電機〉にはデータ処理,情報技術の諸製品,〈機械〉にはエレクトロニクス技術を組みこんだ工作機械,事務用機器が含まれている。
旧西ドイツ産業のもう一つの特徴は,企業集中が進むなかで大企業が産業競争力のおもな担い手になっている反面,古くからの手工業がなお強く生き残っている特殊な二重構造にある。集中化は工業国共通の現象で,旧西ドイツでも全産業のうち上位6社の売上高シェアは,1972年の4.3%から76年の5.4%に上昇するなど,その進行が明白にみられる。ただし集中度は日本よりも低い。
一方,手工業は製造業,商業,サービス業にわたって47万企業(うち81%が製造業と建設業),全製造業売上高の11%を占めている。経営規模の点では中小企業に属するが,経営者(マイスター )は長年の実務経験ときびしい国家資格を求められる。これがドイツの伝統技術の守り手として,産業界で高い評価をうけてきた。今日もなおその存在価値は変わっていない。たしかに,急激な技術の進歩にとり残されないだけの資本と技術をいかにして確保するかという新しい問題はあるが,〈構造変動期には中小企業が転換の担い手〉という期待が強く,ベンチャー企業の新設と結びついて新たな活動分野を開拓する方向が生まれている。大企業をやめて自分で会社をつくるスピンオフ現象も増えている。
構造変動に関連する最大の問題は,衰退部門に対する政策姿勢である。旧西ドイツでは石炭,造船,繊維,鉄鋼,一部の雑貨がさまざまな内外要因によって競争力を失い大量失業を避けられなくなったため,市場経済をたてまえとする政府も,例外措置として手厚い救済に乗り出さざるをえなくなった。しかし,その対象にならなかった繊維産業では,企業自身の合理化努力によって構造適応にほぼ成功し,新たな国際分業体制のなかで成果をあげた。これに対し,保護下の造船,鉄鋼業では,国際競争力の弱さ,世界的過剰設備構造,雇用保障の圧力のもとで,有効な合理化が容易に進められず,産業政策の方向づけをめぐる議論が活発に行われることになった。 執筆者:出水 宏一
社会 伝統的市民社会の解体 戦後の旧西ドイツ社会の変化は,西ドイツにおける1968年までを第1期,68年から90年のドイツ統一までを第2期,それ以後現在までを第3期と分けることができる。また第2期は1982年の社会民主党主導政権からキリスト教民主同盟中心の政権への交替までを前半,それ以後を後半と区切るのがわかりやすい。
まず重要なのは,第1期から第2期への移行を画する1967-68年の学生反乱である。それに続くSPD中心の政権の登場によって,青年層を中心とする多くの人々のものの考え方,生活態度,そして社会の雰囲気とでもいうべきものが大きく深く変わった。身近な問題を例にとれば,未婚の若い男女が同棲することを問題視する雰囲気はこの時期を境にして大幅に減少した。統計数字を見ると,とくに女性の意識の変わり方が目を引くが,この変化は,避妊薬の発達の結果というよりも,宗教的背景をもつ既成の社会的約束,習慣,因襲によって態度を決めるのでなく,自分の行動は自分で判断するという考え方への転換,伝統倫理から責任倫理への変化によるところが大きい。同じ変化は教会との関係についても現れており,各種調査を総合すると,70年前後からカトリック,プロテスタントを問わず,教会へ行く人口の激減現象が認められる。
それに対して,1960年代前半まで,つまり第1期の西ドイツは,〈自由なキリスト教的西欧〉を共産主義から守るために,ナチスの破壊したドイツ・ヒューマニズムの伝統に依拠しつつ,勤勉によって経済再建を,西側民主主義の導入によって政治の近代化を図り,そこにコンセンサスを見いだした点で比較的安定した行動様式と社会的意識を示していた。そこにおけるドイツの文化・社会の雰囲気は,勤勉,実直,規則を重視する,日本で一般にイメージされていたものに近かったともいえよう。それに対して60年代後半以降は,こうしたコンセンサスが家庭,教育,性の領域を先頭に猛烈な速度で崩れ去り,半ば無意識の文化的アイデンティティを享受する日本の社会と大きく異なる体質をもつ,いわば〈コンセンサスなき社会〉,よく使われる表現を直訳すれば〈論争と抗議の文化〉へと変貌した。
だがこうした激しい意識革命はドイツにとって歴史的にはけっして新しいことではない。18世紀の啓蒙主義以来,古典主義,ロマン主義,観念論哲学を経て,1848年の革命,1870-71年の国家的統一,第1次世界大戦の敗北,ワイマール期の混乱,ナチス,敗戦という階梯のたびに,ドイツでは先行するものの全面的否定が行われてきた。絶えざる政治的破産に伴うアイデンティティの欠如は,自分たちの社会と生活態度を,批判的で反省的な距離を保ちながら絶えず議論の対象とする自覚的な態度を作り上げてきた。自覚的・批判的議論(それも政治色の濃い議論)とアイデンティテイの欠如に伴う行為選択の不安定さは,楯の両面としてドイツ社会の日常生活の隅々に至るまで複雑な影を落としてきた。そして旧西ドイツにおいては,60年代後半以降,伝統的市民社会が正当性を失うにつれて,こうした反省的議論がひときわ強まった,といえる。このような解体現象の中でも,個人が中心にすえられていることは,87年の調査で,旧西ドイツ市民の81%が最も重要なものとして〈個人的自由〉を挙げていることにも認められる。文化的連続性と共通性が失われた中で,わずかに日常生活におけるかすがいの働きをしているものは,いまでは数少なくなった歴史的習慣である。個人的自由の次に71%が挙げるのが,家庭で過ごすクリスマスであることにもそれは示されている。
ドイツ統一から現在に至る第3期は,旧西ドイツ部分においては経済市民的な意味での個人主義がさらに強まったといえよう。
統一後のドイツ社会の雰囲気をぎすぎすしたものにした第1は,旧東ドイツの過去をめぐる論争である。特に国家秘密警察の手先となってスパイ活動まがいをしていた非常に多くの人々の所業が旧東ドイツ地区で明るみに出て,そうした活動の犠牲になった人々からの,法による正義の回復への要求が相次いだ。だが,別の国の過去の犯罪を現行法で裁けるかどうかも問題であり,これに関する論争が続いたが,国境での逃亡者を銃殺した監視兵も含めて多くの場合は当時の旧東ドイツの法に照らしても違法行為であるという理由によって裁判が行われている。また秘密警察関係の書類は,現在特別の場所に集められ,犠牲者の請求による閲覧が可能というかたちに落ち着いた。
雰囲気が厳しくなった第2の理由は,国際的にも大きな波紋を呼んだ外国人襲撃である。90年代前半にはゾーリンゲン,メルンでのトルコ人に対する殺人をはじめ,アフリカ系の外国人への傷害沙汰も後を絶たなくなった。背景にあるのは,いっこうに下がらない高い失業率である。特に90年代後半はグローバリゼーションの影響もあって失業問題は,大きな社会問題となっている。93年政府の提案で,外国人の政治亡命を認めていた憲法16条第2項を制限するに及んで,外国人への敵対行為は多少下火になった。
家庭と女性解放 日本よりずっと早く戦前から核家族が普及していたが,それは19世紀の市民社会の色の濃い〈権威主義的〉(社会哲学者ホルクハイマーの用語)な家族であった。父親の権力は絶対であり,たとえば財布を握るのも父親であった。女性は三つのK,つまり子どもKinder,教会Kirche,台所Kücheにのみかかわっていた。子どもには厳しいしつけと服従が要求され,たとえば一家の食卓でも話をしてはいけないというのが通常であった。
これに対して旧西ドイツでは60年代以降,若い人々を中心に,まさにこうした〈市民的〉家庭の中にこそナチスを許容し,支持さえした心理構造の温床があるという批判が行われたのである。〈毛沢東とコカ・コーラ〉で育った世代は,外ではナチスのような犯罪政権の権威に盲従し,内では自己の権威を行使した父親たちを激しく攻めることになる。政治がらみのこうした世代間の断絶は西ドイツ社会を〈父親なき社会〉(社会心理学者ミッチャーリヒの言葉)として深く規定している。60年代後半以降はそれゆえ〈反権威主義的〉教育なるものがさまざまに試みられてきた。子どもにいっさいの自由を許し,すべてを論理的に説明して善悪をわきまえさせようとする自主幼稚園などがその例であるが,これもドイツ特有の極端から極端に走る現象で,必ずしも成功しているとはいえない。世論調査等を見ると,結婚,家庭,性に関して両親と異なった意見を持つものが,20~30歳代に,それもプロテスタントでSPDを支持する層に激増したのがわかる。
家庭の問題を〈国内改革〉〈民主化〉の大きな柱に取り上げたSPD中心の政権(1969-82)は,離婚に関する法,および妊娠中絶をほぼ全面的に禁止していた刑法218条の改正を政策の目玉とした。離婚については,それまでは配偶者に不倫のような具体的な罪科が証明された場合にのみ離婚が可能になる〈罪科原理〉に基づいていたが,SPD中心の新政権は,夫婦仲が悪く結婚生活が事実上崩壊していれば離婚できるという〈崩壊原理〉の導入を図ったのである。ここでも伝統的な〈超自我〉としての罪の観念よりも,個人の社会的責任倫理を重んじるところに転換の意図があるが,これに対して保守党および教会の側は,家庭こそ西欧キリスト教文化の核であり,こうした改革は人間の尊厳を破壊し,神を無きものにし,身勝手をはびこらせ,社会的解体と混乱を招くだけであるとの立場から猛烈な反対を行った。だが大規模な政治論争ののち,さまざまな妥協を経て基本的には崩壊原理が通った。これによって女性の側の受け取る慰謝料や生活手当に関する権利が大幅に拡張されたが,他方で金銭的負担のゆえに離婚がいっそう困難になった面もある。個人の責任倫理は法制化されたが,逆に離婚を恐れるあまりの同棲生活や独身者が増え,結果として予期せざる種々の現象を生み出すことになった。男女および親子の新しい関係をめぐる模索は終わっていない。
妊娠中絶問題は,70年代初頭に国際的にも著名な女優であるロミー・シュナイダーなどの知名な女性たちが,私たちも中絶をしたことがあるという告白記事を週刊誌に書き一大センセーションを巻き起こした。実際は禁止されていても経済的に余裕のある者は外国で手術を受けられたし,一方でやみ手術も横行していたが,そうした不公平と危険への批判から,国家は個人の責任倫理に介入すべきでないとして中絶の自由化を求める運動となった。ここでも,ある程度の自由化をめざすSPDと,自由化は殺人の是認であるとさえ言う保守派政党CDU/CSUやカトリックとの連合陣営のあいだに大論争が起こった。結果としては,SPDの主張が通り,出産によりある程度の社会的困難が予想される場合は,新しくそのために作られた家庭問題相談所と相談のうえ,本人の決断により,相談所が許可を与えることが可能となった。だが論争は今でも続いており,82年10月に政権に復帰したCDU/CSUは,84年6月〈母子基金〉を法制化し,生活に困っている母親に扶養資金を給付できるようにして巻返しを図っているが,これにはSPDをはじめフェミニズム運動の側からも単なる慈善事業であるとの批判が強い。
教育改革 70年代のドイツ社会で人心を沸騰させたのはなんといっても教育改革をめぐる諸問題である。西ドイツの学校制度は,それまでは,ギムナジウム から大学へ行き,学問によって社会の上層を占めるごく少数の者のためのコース(構成比15%,1963),実科学校から実業に就く者のためのコース(同12%),そして基幹学校Hauptschuleから職人や労働者や農民による大多数の者のためのコース(同70%)と截然と三分され,しかも人生のこの重大な決定が小学校4年段階で行われていた。このような制度が,19世紀以来,20世紀の社会的大変動や敗戦にもかかわらず大枠として続いていたのであり,いわばドイツ社会で数少ない文化的連続性を体現する制度であった。だがこうした振り分けは多くの場合両親の社会階層に相応しており,階層の再生産をもたらしていた。たとえば就業人口の半数近くを占める労働者階級出身の大学生は,全学生の7~8%程度でしかなかった。
こうした硬直化に対して,SPD政権はさまざまな面から手をつけた。〈教育の機会均等〉の貫徹を図り,全体としての高学歴化と,小学校終了以後にコースを変更する可能性をもった制度に改革しようとした。後者については,日本の小学校5~6年に相当する2年間で様子を見てからコース選択ができる〈方向見定めの期間〉を制度的に導入したこと,また,3区分を一応取り除いた〈総合学校Gesamtschule〉を実験的に開始したことが特徴である。とくにこの〈総合学校〉はかつてのギムナジウムの支持者からは教養の破壊として非難され,〈社会主義的画一学校〉とまで罵倒された。〈総合学校〉をめぐるきわめて政治的な論争は現在も続いている。また,高学歴化によって大学および大学生の数が飛躍的に増えた。1967年に旧西ドイツで29万5000人であった大学その他の高等教育機関の学生数は,75年には3倍近くの84万人に増え,82年には120万人,87年には140万人,90年には170万人に達した。結果として旧西ドイツの大学は伝統的な大学のイメージとはかけ離れた存在となり,新しいアイデンティティを求めて苦闘しつつある。さらにこうした変動の結果,ギムナジウムや実科学校の就学者は1979年でそれぞれ同世代の24%と23%に増えた反面,かつてはノーマルなコースであった基幹学校(構成比44%)がいわば〈落ちこぼれ〉の収容所となり,そこにいっさいの社会的矛盾が増幅され,噴出しつつあり,今後とも大きな問題となろう。さらにギムナジウムの国語や歴史をはじめとして教科内容にも大変動があったことを忘れてはならない。たとえば,ゲーテ,シラーに象徴されるドイツ古典文化よりも,実生活に役だつ国語教育への転換が各地で試みられた。これも伝統を喪失した旧西ドイツ社会の反映であろう。
外国人労働者 このような教育問題にも影を落としている今一つの社会問題に外国人労働者 ausländische Arbeitnehmerをめぐるそれがある。外国人労働者は経済復興の過程でイタリア,ユーゴスラビア,トルコ,ギリシア等から大量に流入したが(最盛時の1973年には260万人),これに対する西ドイツの態度は,人種問題で人類への犯罪を犯したナチスに対する反省もあって近代法の普遍主義をとっている。同一労働にはドイツ人と同じ賃金が定められ,組合にも加入でき,年金その他の福利厚生に関しても外国人労働者はドイツ人とまったく同等の権利を有する。帰国時に年金保険を脱退すればそれまでに支払った保険料は一括返還される。だが彼らの多くはドイツ人の就きたがらない手の汚れる仕事に従事しており,そのうえ文化や言語の差もあって実生活上の差別には抜きがたいものがある。とくに70年代の経済危機以後は,特別援助金等のさまざまな方法で政府側も帰国を促し,1982年では180万人程度に減少した(しかし家族も含めれば,依然として445万人が旧西ドイツに暮らしていた)。外国人労働者は多くの場合一地域に固まってコロニーを作り,2世も育ち始めている。それに対する一般住民の反感も強いし,小学校では地域によってはクラスの8割が外国人という所も数多くあり,大きな社会問題となっている。外国人との共存による豊かな文化的多様性の創造がさまざまに試みられているが,今のところ十分に成功しているとは言いにくい。
住民運動と緑の党 1970年代後半以降のドイツ社会を特徴づける今一つの要因は,SPDの民主化路線をさらに--つまりときとして党の意図以上に--推し進めたさまざまな住民運動,公害反対・環境保護の運動がある。さらに豊かな社会から意識的に降りて,産業社会そのものに〈ノー〉をつきつけたアルターナティーフAlternative(対案提唱者)の動きが,産業社会の先に破局を見る敏感な青少年層の心をとらえている。83年春の総選挙では緑の党も国会に席を占めるようになった。最初のうちこそ政界では緑の党といっしょでは〈もはや統治不可能〉という声もあったが,90年代以降は,現実路線を同党が取り始めたこともあり,なんらかのかたちで連立政権につくことも不可能ではなくなっている。こうした種々の動きの中にも,歴史の方向を早くから意識化し,ときにはそれを先取りしようとする,ドイツ社会の解体現象と裏腹の知的活力にあふれた体質があるといえよう。ドイツ社会は,依然として日常生活における世界史の実験場なのである。 執筆者:三島 憲一