バラーキレフ

百科事典マイペディア 「バラーキレフ」の意味・わかりやすい解説

バラーキレフ

ロシアの作曲家,ピアノ奏者,指揮者。バラキレフとも。ロシア国民楽派(五人組)の中心人物。ニジニ・ノブゴロドに生まれ,早くからピアノを学ぶ。1855年ペテルブルグに出てグリンカ知遇を得,翌年ピアノ奏者,作曲家としてペテルブルグでデビュー。その周囲に集う音楽家仲間に1861年リムスキー・コルサコフボロジンが加わり,ロシア国民楽派が形成された。1862年には無料音楽学校を設立し,またボルガ川流域で採集した民謡を《ロシア民謡集》(1866年)として出版。1867年ロシア音楽協会の指揮者に就任するが2年後に解任され,音楽界を去る。10年間の隠遁(いんとん)生活ののち1879年に復帰するが,すでに影響力を失い,作曲家としては大成せずに終わった。作品に,難曲として知られるピアノ曲《イスメライ》(1869年),交響詩《タマーラ》(1867年−1882年)など。→ムソルグスキー
→関連項目キュイグラズノフ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「バラーキレフ」の意味・わかりやすい解説

バラーキレフ
Milii Alekseevich Balakirev
生没年:1837-1910

ロシアの作曲家,ピアニスト,指揮者。ニジニ・ノブゴロド(現,ゴーリキー)に生まれ,1855年末にペテルブルグに出てグリンカと知り合い活発な音楽活動に入った。彼を指導者として,国民主義的音楽(ロシア国民楽派)を目ざす若い音楽家が集まった(〈五人組〉と呼ばれる)。62年無料音楽学校を組織して,同年に開設されたペテルブルグ音楽院アカデミズムと鋭く対立した。67-69年ロシア音楽協会の指揮者に任ぜられて最高の権威を誇ったが,確執の後に解任され,一時は音楽界を引退した。復帰後も偏狭な性格からリムスキー・コルサコフらとうまく交遊できず,晩年はあまり大きな影響力はもたなかった。ピアノ曲《イスラメイ》(1869)や《40のロシア民謡》(1866),いくつかの管弦楽曲などがよく知られている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android