百科事典マイペディア 「ボロジン」の意味・わかりやすい解説
ボロジン
→関連項目マリインスキー劇場
ボロジン
ボロジン
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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ロシアの作曲家,化学者。子ども時代からピアノ,フルート,チェロなどを学び,作曲も試みる。1850-56年ペテルブルグ薬科外科アカデミーで薬学と化学を学び,58年薬学博士号を取得。62年バラーキレフと知り合って〈五人組〉のメンバーとなり,本格的な作曲活動を始める。しかし,62年から母校,63年から林学専門学校で化学を教えていたこともあって,創作はあまり進まなかった。ロシア国民楽派の一人で,リストの紹介により五人組の中でも早くからヨーロッパで知られていた。民族叙事詩によるオペラ《イーゴリ公》(未完。のちリムスキー・コルサコフとグラズノフにより完成。初演1890),異国情緒にあふれた音画《中央アジアの草原にて》(1880)などの作品が有名。化学者としては,アルデヒドの研究や化学書の翻訳などを行い,またロシアで初めての女子医科コースの設立,教育に力を注いだ。
執筆者:浦本 裕子
ソ連邦の政治家。早くから地下運動と亡命の生活を続け,1907-18年,アメリカに在住し,ロシア政治犯の救援活動に当たった。19年以降,コミンテルンの活動家としてトルコ,メキシコ,スペイン,イギリスを転々としたが,23年には孫文の広東政府に招かれて広州に赴き,政治顧問として中国国民党とその国共合作を指導した。27年国共分裂とともに帰国,貿易人民委員代理,タス通信副社長を経て,34年から第2次大戦後にかけて対外接触の窓口である情報局に籍を置いた。49年英字紙《モスコー・ニューズ》編集長となったが,反ユダヤ政策の犠牲となって逮捕され,拘禁中に死亡した。
執筆者:平井 友義
ソ連邦の作家。筆名アミル・サルギジャンAmir Sargidzhan。中央アジアの歴史と文化とに傾倒し,おもにウズベク共和国で活動した。中央アジアの民衆生活を描いた《最近のブハラ》(1931),ティムールの生涯を題材とした三部作《サマルカンドの星》(1953-73)などのほか,アイニーの回想録のロシア語訳《ブハラ》でも知られる。なお,ロシア史に取材した《ドミトリー・ドンスコイ》(1942)はソ連邦国家賞を受賞した。
執筆者:小松 久男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
… 文学ではチェルヌイシェフスキーやドブロリューボフを中心に《現代人》誌に集まったグループ,絵画では〈芸術家組合Artel’ khydozhnikov〉や〈移動展派〉のグループが生まれたが,それらと同様な立場にある。評論家スターソフが思想的中心となり,作曲家バラーキレフを指導者として,キュイ,ムソルグスキー,A.P.ボロジン,リムスキー・コルサコフらの作曲家が集まった。キュイは彼らの立場の宣伝者・批評家としても健筆を振るった。…
…24年1月,広州における国民党第1期全国代表大会では,連ソ・容共・労農援助の三大政策をともなう新三民主義の旗印のもと,国共合作の方針に見合う改組が断行され,反帝国主義・反軍閥の革命綱領が確定された。中央執行委員には李大釗(りたいしよう)ら,同候補には毛沢東ら共産党員も入り,ボロジンが最高顧問となった。五・四運動と十月革命の影響で民衆の力量に注目するにいたった孫文にすれば,中国共産党の活動力を取り込み,中国を平等に遇するソ連と提携して革命をすすめようとしたのである。…
…ロシア十月革命後のソビエトへの思想的共鳴を深める一方,21年に創設された中国共産党との提携を積極的に進め,共産党もコミンテルンの方針に従い国共合作に踏み切った。23年コミンテルン派遣のM.M.ボロジンを国民党の最高顧問に任命し,国民党改組宣言を発表して反軍閥・反帝国主義を国民党として初めて公然と掲げるにいたった。 24年1月中国国民党第1回全国代表大会は連ソ,容共,農工援助の三大政策を決定し,軍閥の背後に帝国主義列強が存在して中国の内乱を作り出しているとして,反帝国主義・反軍閥を明確に表明した。…
※「ボロジン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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